雨の音
十月のとある日のこと。下校時刻間際の人がまばらになった秀尽学園の昇降口に、一人の見知った人影が見えた。
「くん?」
声をかけると、彼が振り向くより先に鞄の中からモルガナちゃんが顔を出した。ああ、やっぱりくんだ。学校に猫を連れてきている生徒なんてくんしかいない。……猫というとモルガナちゃんは怒るのだけれど。
「さん」
くんはゆっくりとこちらを振り向くと、ふと笑顔を見せてくれた。ポーカーフェイスな彼だけれど、最近はくんのちょっとした表情の変化がわかるようになってきた。
「くん、今帰り?」
「うん。ただ……」
くんは眉を下げると、外を見やる。わたしもくん越しに校舎の外に視線を向けると、朝は降っていなかった雨がしとしとと降っているのが見えた。
「傘持ってなくて。どうしようか迷ってた」
「そうなんだ。あ……」
私は鞄のひもをぎゅっと握った。鞄の中には、コンパクトな折りたたみ傘がひとつだけ入っている。
ど、どうしよう。わたしの持っている傘はひとつだけ。くんに「一緒に入る?」って、言っても、いいかな。相合傘になってしまうけれど、くん、嫌じゃないかな。わたしはむしろ、嬉しいのだけれど。
「あ、あの……くん」
ドキドキと心臓を大きく跳ねさせながら、わたしはくんに声をかける。
「わたし、傘持ってるから……駅まで一緒に行かない?」
別に下心なんてなくて、このままじゃくんが濡れてしまうから。ただそれだけだから。心の中でぐるぐると言い訳をしながら、鞄の中から折りたたみ傘を取り出した。
「行く」
視線を泳がせていると、くんの力強い声が耳に響く。ぱっとくんに視線を戻すと、くんはどこか輝いた瞳でわたしを見つめていた。
「ありがとう。助かる」
「そんな、道一緒だし」
わたしは言いながら、くんの隣に立って赤い折りたたみ傘を広げた。すると、くんは傘の柄をそっと掴んでくる。
「俺が持つよ」
くんは広げた傘をそっとわたしの上に差す。とん、とくんの肩が、わたしの肩に小さくぶつかった。
常にスクールバッグに入れる用にするために買った傘なので、サイズは非常にコンパクトだ。一人で入っても強い雨なら濡れてしまいそうなほど。くんと二人で入るとなると、自然と肩が触れ合ってしまう。至近距離にいるくんに、わたしの心臓は大きく跳ねた。
「傘、小さくて……ごめんね」
「十分だよ」
くんは首を横に振ると、「行こうか」と言って駅の方向へ歩き出す。
わたしはくんの隣を歩きながら、ちら、と彼の表情をうかがった。わたしのすぐ横に、くんの横顔が見える。いつもはレンズ越しにしか見えないくんの瞳も、今ははっきりとわたしの瞳に映っている。
「……」
「…………」
いつもはなんてことない会話をしているはずなのに、今日は言葉が出てこない。くんも同じなのか、彼もただ視線をときどき動かすだけ。
下校時刻間際のため、蒼山一丁目駅までの道に秀尽生はほとんどいない。雨の音だけが、わたしたちの間に流れている。
くん、こんなに距離が近いこと、どう思っているのかな。嫌だと思っていないかな。最近はくんのポーカーフェイスに隠れた表情がわかるようになってきたけれど、今は全然わからない。
わたしは緊張で体をこわばらせている一方で、胸の高鳴りを感じている。大好きなくんが、こんなに近くにいるから。
「……雨、結構すごいな」
ちら、とくんの様子を窺うと、くんはぽつりと小さくつぶやいた。
「ね。天気予報は曇りだったのに」
「だから傘持ってこなかったんだけど」
「そうだったんだ」
くんの言葉に、わたしはこっそり心を躍らせた。天気予報、ありがとう。雨の予報だったら、こうやって一緒には帰れなかった。
「でも悪いことばっかりじゃないな」
くんは雨空を見上げて、小さく口を開いた。
「いいこともあった」
空に向かっていたくんの視線は、言葉とともにわたしへ向かった。力強いその瞳は、深くて甘い色をしている。
「わたしも……」
トクン、トクンと小さな胸の高鳴りを感じながら、わたしはくんをじっと見上げた。
「いいことあったよ」
わたしの「いいこと」は、くんと一緒に帰れたこと。一緒の傘に入れたこと。
くんの「いいこと」は、きっとわたしと同じ。くんの瞳が、そう言っているような気がした。
「……ね、ルブラン寄ってかない?」
くんは傘を持っていない方の手で自身の前髪をいじる。照れくさそうなその仕草に、わたしの頬も熱くなる。
「行く!」
大きな声で返事をすると、くんはふっと表情を崩した。
「よかった。コーヒー淹れるよ」
「うん、ありがとう!」
わたしは胸を弾ませながら、わたしはくんの隣を歩いていく。触れ合う肩は、あたたかい。