春の訪れ
「地元に帰ることになったんだ」
閉店後のルブランに、くんの小さな声が響いた。
春の足音が聞こえてきた三月の中旬。学校の帰り、わたしはクラスメイトのくんと、いつものようにルブランに来ていた。二階に鞄を置いたくんがコーヒーを淹れてくれるのも、いつも通りのこと。いつものようにわたしはカウンター席に座って、いつものようにくんが淹れ立てのコーヒーをわたしの前に置く。いつものようにくんはわたしの隣に座って、そして、いつものように「ごゆっくり」とくんが言ってくれると思っていた。
くんの言葉だけが、違っていた。
「地元に帰ることになったんだ」
いつもより低いくんの声が、それがただの一時の帰省でないことを物語っていた。
わたしの心臓が、大きく跳ねる。震える唇をどうにか動かして、わたしは必死に言葉をひねり出す。
「あ……もうすぐ春休みだもんね。た、たまには帰らないと……」
「いや……」
ほんの少しの望みを言葉にしたけれど、希望もむなしくくんは首を横に振る。
「地元に帰って、新学期からは秀尽じゃなくて向こうの高校に通うよ」
くんははっきりと、誤解の余地のないように言葉を放つ。
今は三月の中旬、三学期の終業式まで十日もない。きっと、帰る日は迫っているのだろう。
「い、いつ……」
「……二十日」
「来週……」
想像より早い日にちに、胸がちくりと痛む。あと何日、と数えるのも怖いぐらい。
「こんな急に……」
せめてもう少し前に知っていたら、少しは心の準備もできたのに。独り言のようにつぶやくと、くんが小さく声を出す。
「……本当は、もっと前に決まってたんだ」
「え……」
「どうしても言い出せなくて」
くんは視線を落として、右手をカウンターの上で緩く握る。その視線はどこか不安げに揺らいでいた。
わたしはどうしたらいいかわからずに、ぎゅっと膝の上で拳を握った。
くんとの思い出が、走馬燈のように頭の中を駆けめぐる。
わたしとくんが仲良くなったきっかけは、二学期の始めにくんがしつこいナンパからわたしを助けてくれたことだった。怖い噂のあるくんだったけれど、「そんなことないのかも」と少しずつ思い始め、話すようになって、くんが喫茶店の二階に住んでいることも聞いた。十月にルブランでコーヒーをご馳走してもらったとき、コーヒーがこんなにおいしいと初めて知った。それから頻繁に、くんのコーヒーを飲むためにルブランに通うようになったのだ。
わたしが好きなのはコーヒーではなく、くんなのだと気づいたのは、それからほどなくのことだった。
それからも一緒に勉強をしたり、一緒に登下校をしたり。冬の間はいろんなことがあって会えていなかったけれど、二月の半ばからはまたこうやって会えるようになってすごく喜んでいたのに。新学期からも、クラスは別れてしまうかもしれないけれど、また一緒に過ごせると思っていたのに。
「で、でも……連絡はすぐできるよね。それに……遠くても、その気になれば、会うことだってできるし……」
震える唇で、必死に言葉を紡ぐ。
会うことは、できるだろうか。ただの友達が、わざわざ会いに? そんなこと、できるのだろうか。
離れてしまったら、だんだんと心も離れてしまうのだろうか。そんなの、嫌だ。嫌だよ。
「……ずっと言えなくて、ごめん」
くんは指を小さく動かしながら、ぽつりとつぶやく。
「言わなきゃって、ずっと思ってた。ただ……どうしても、さんには言えなくて」
わたしには、言えなかった? くんの言葉の意味をはかりかねて、わたしは首を傾げた。
くんはキィとカウンターの椅子を軋ませて、体ごとわたしの方を向いた。先ほどまで揺れていた瞳が、今はまっすぐわたしを見つめている。
「くん……?」
「さんと、離れたくなくて」
くんもわたしと同じように、離れたくないと思ってくれている? 心の中に、期待と不安が入り混じる。
「さんが、好きだから」
くんの真剣な声が、ルブランの店内に響く。
「わたしも」「同じ気持ち」答えたいのに、わたしの口はパクパクと動くだけ。心臓の鼓動だけが、うるさいぐらいに鳴っている。
「あ……」
言葉より先に、涙がこぼれた。一粒、二粒、はらはらとこぼれ落ちていく。慌てて涙を拭うと、くんが心配そうにわたしの顔をのぞき込んできた。
「大丈夫?」
「あ、ご、ごめん、あの、嫌とか、そういうんじゃなくて」
泣いているだけではわたしの気持ちは伝わらない。ちゃんと、思いを言葉にしなくては。
「くん」
わたしはくんの袖を握って、じっと彼の顔を見つめた。応えるように、くんもわたしをまっすぐな視線を向ける。
「わたしも、くんが好きです」
くんを見つめながら、必死に言葉を絞り出す。心臓の音がくんにも聞こえてしまうんじゃないかと思うほど、大きく鼓動を打っている。
「ありがとう」
くんは真剣な表情をほどくから、わたしも頬を緩めた。二人で目を合わせて笑い合う。
「……距離は離れるけど」
その言葉に、弾んだ気持ちがまたしぼむ。そうだ、くんが来週地元に帰ってしまうのだ。
くんはわたしの手を取った。大きな手が、わたしの手のひらを包み込む。温かくて、心地いい。
「でも、心はちゃんとここにあるから」
くんの甘く鋭い視線に射抜かれて、わたしの頬に熱が集まる。
「わたしも」
くんの手を、わたしは強く握り返した。
距離は離れてしまうけれど、きっと大丈夫。つないだ手の温かさが、そう感じさせてくれるから。