きっかけは黒い猫



 ホームルームの終わりのチャイムが鳴って、わたしはすぐに席を立った。今日は週に一度の約束の日。早く「彼ら」が待つあそこに行かなくちゃ。
くん!」
 いつもの場所ーー秀尽学園の裏庭へ行くと、待ち合わせの人物はすでにそこにいた。、わたしの隣のクラスに所属する男子生徒だ。 
「早かったね。わたし走って来たのに」
「ホームルーム、早く終わったから」
 花壇の縁に腰かけたくんが、すっと隣に置いた鞄を開けた。そこから覗くのは、艶のある黒い毛に包まれた一匹の猫。モルガナちゃんだ。
「ふにゃ~!」
 秋の風が心地いいのか、モルガナちゃんは鞄から顔を出すと明るい声で大きく鳴いた。「こんにちは」と声をかけると、モルガナちゃんは「にゃっ」と返してくれる。
 週に一度、わたしとくんとモルガナちゃんとで、放課後ここで待ち合わせをしている。モルガナちゃんを学校につれてきていることを秘密にする代わりに、可愛い可愛いモルガナちゃんを撫でさせてもらう約束をしているのだ。
「ね、くん。モルガナちゃんってこれとか……どう?」
 わたしは鞄から猫用のおやつを取り出した。スティック状の容器に包まれた、有名なペーストタイプのおやつ。モルガナちゃんは猫だけれど、猫と言うと怒ってしまう。だから猫用のおやつは嫌いかなと思ったけれど、もし好きならいつものお礼にと思って持ってきてみたのだ。
「どうだろう……あげたことないけど。どう? モルガナ」
「シャーッ!」
 おやつの封を切ってみたけれど、モルガナちゃんは大きく口を開けて威嚇のポーズを取った。あ、まずい、嫌いだったみたい。慌てて引っ込めようとしたけれど、モルガナちゃんはすっと表情を変え、おやつを舌先でぺろっと舐めた。
「ふにゃあ~……」
「……好きみたいだな」
「……ね」
 モルガナちゃんはとろんとした顔で、おやつを一心不乱に舐めている。最初は怒らせてしまったと焦ったけれど、モルガナちゃんも気に入ってくれたみたいでよかった。
「よかったな、モルガナ」
「ンナ~」
 嬉しそうなモルガナちゃんに、くんは微笑みかける。その笑顔があまりにきれいで、わたしは自分の頬が熱くなるのを感じた。
 くんとわたしが知り合ったのは今から三ヶ月前のこと。渋谷駅でナンパされているところをくんが助けてくれて、そのとき偶然にもくんの鞄の中に猫がいることを知ってしまった。

『学校に連れてきてること、秘密にしてくれる? 代わりにモルガナのこと撫でていいから』
『ふにゃっ!?』
『え、そもそも助けてくれたんだから、代わりなんて……』
 いらないよ、そう言おうとしたのに、首を傾げるモルガナちゃんの姿があまりに可愛くて、わたしは「撫でたい……」と呟いてしまった。
 それからわたしは、こうやってモルガナちゃんを撫でさせてもらっている。最初は一回きりのつもりだったけれど、そのときくんと話しているうちになんだか話が合ってしまって、さらにモルガナちゃんも撫でられるのが心地よかったらしく、それからも定期的に会うようになった。
 そうやってお話ししているうちにくんと仲良くなって、一緒にテスト勉強をしたり、夏休みに入ってもくんが住む喫茶店に行っり……。次第に距離が近くなって、わたしはくんに惹かれていった。こうやってモルガナちゃんを触らせてもらう機会も、モルガナちゃんに会える以外に、くんとお話しできることを楽しみにしている。
さん、どうしたの?」
「えっ」
「俺の顔、なんかついてる?」
 くんにそう言われ、自分がくんを見つめていたことに気づいてわたしは顔を熱くした。
「あ、いや、違くって……」
「?」
「んな~……」
 慌てていると、おやつを食べ終えたモルガナちゃんがなぜだか呆れたような声で鳴く。そして、花壇の縁からひょいと飛び降りてどこかへ走り去ってしまった。
「行っちゃった……」
 モルガナちゃんはよく一人で散歩もしているらしいからどこかへ行っても心配はないけれど、わたしのほうは今日はまだちょっとしか撫でられていない。寂しいなあ、もっと撫でたかったなあ。そう思いながらモルガナちゃんの去った方向を見ていると、隣のくんがふっと口を開いた。
「本当にモルガナ好きだね」
 笑うくんの言葉に、わたしはすぐにうなずいた。
「うん、大好き。もともと猫派だし、それにモルガナちゃんとってもいい子だし!」
 艶のある黒い毛に、可愛いおめめ。そして人間の言葉がわかっているかのようなあの賢さ。どこをとってもモルガナちゃんは可愛い。初めて会ったときから、わたしはずっとモルガナちゃんに夢中だ。
「そっか」
「うん! ……くん?」
 くんは笑ってはいるけれど、その笑顔はどこか寂しげに見える。くんもモルガナちゃんがいなくなって寂しいのかな。くんはモルガナちゃんと毎日一緒にいるけれど……。
「ん?」
「どうしたの? なんか……ちょっと寂しそうに見えるから」
「ああ……」
 くんは曖昧な返事をすると、一度視線を上にやる。そして、その目を今度はわたしに向けた。
「ちょっとモルガナに妬いてる」
「えっ」
 妬いてる? くんが? モルガナちゃんに?
 言葉の意味が飲み込めずに、わたしは何度も瞬きをしてしまう。くんが、モルガナちゃんに嫉妬している。わたしがモルガナちゃんを「大好き」と言った後に。それって、つまり。
「……えっ!?」
 わたしの口から、大きな声が出てしまう。えっ、いや、だって!? それは、その意味は。
「モルガナのこと好きって言ってたけど、俺のことは?」
 くんはいつもと同じ声のトーンで、わたしの顔をのぞき込んでくる。わたしはびっくりしてしまって、うまく声が出せない。
「え、そ、その」
「俺はさんが好きだよ、そういう意味で」
「そういう……」
「付き合いたいってこと」
「っ!」
 くんはレンズの向こうの目を鋭く光らせて、わたしをじっと見つめている。くんが、わたしを好き。そんな夢みたいなこと、本当にあるの? こっそり自分の太股をつねってみたけれど、ちゃんと痛い。夢じゃないみたい。
「あ、の」
 わたしの答えなんて決まっているのに、あんまりびっくりしてわたしはなにも言えなくなってしまう。くんはわたしから視線をそらさずに、強う瞳でわたしを見続けている。
 モルガナちゃんが帰ってくる前に、ちゃんとわたしの気持ちを伝えなくっちゃ。震える唇をどうにか開く。
「わたしも……」
 まだそれだけしか言っていないのに、くんはわたしの言葉の続きがわかったかのように、嬉しそうに笑みを作った。