シャンプーのにおい



 四軒茶屋駅すぐにある銭湯施設、富士の湯。女湯から出てロビーに足を踏み入れると、そこには見知った顔がいた。
くん?」
 そこには肩からタオルをかけた恋人の姿があった。
 。春先にわたしのクラスに転校してきた曰く付きの人。そして、先日から付き合い始めたわたしの恋人だ。
くん、どうしたの……って、お風呂入ってきたんだよね」
「そう。さんも?」
「うん。家の給湯器壊れちゃって……しばらくここにお世話になりそう」
「大変だな。直る目処、ついてる?」
「一応来週には修理来ることになってるの。夏だからまだマシかな」
「確かに。冬だったらもっときつい」
 話しながら、わたしたちは富士の湯を出る。その目の前にあるのはくんの住むルブランだ。
「ルブラン、寄ってく? コーヒー淹れるよ」
「いいの? ありがとう!」
 ルブラン、寄りたいな。くんと少しおしゃべりしたいな。そう思っていたけれど、もう遅い時間だからと遠慮していた。まさかくんから誘ってくれるなんて。わたしは二つ返事でくんの誘いにうなずいた。

「お邪魔します」
 くんに促され、わたしは閉店後のルブランのテーブル席のソファに腰掛けた。くんはいつものようにカウンター内でコーヒーを淹れ始める。
くんはよく富士の湯に行ってるの?」
「うん。月曜と木曜は薬湯になるんだ」
「そうなんだ! ちょっと楽しみかも」
 なんてことない話をしながら、くんがコーヒーを淹れてくれるのを待つ。
 くんは前歴持ちの噂を伴ってやってきた転入生だった。最初はわたしもくんのことを怖がっていたけれど、学校帰りにナンパされているところをくんが助けてくれたのをきっかけによく話すようになった。そこからはくんの住むルブランとわたしの家が近いこともあり、とんとん拍子で仲良くなった。そして、ちょうど一週間前に恋人同士になった。
 今は夏休みなので、恋人になってから会うのはまだ二度目だ。一度目はいつもと同じようにルブランでおしゃべりして、そのあとは手をつないで家までの道を歩いた。あのときの手の温かさを、わたしは今も覚えている。
 わたしにとっては初めての恋人。どうやらくんも同じらしい。二人とも、手をつないでいる間はなにも話さなかった。きっと、わたしと同じくくんも緊張していたのだろう。
「はい、コーヒー」
「ありがとう!」
 くんはコーヒーの入ったグラスをわたしの前に置いてくれる。氷のたくさん入ったアイスコーヒー。冷たい苦みが、外の熱とお風呂で火照った体に染み入っていく。
「おいしい……」
「よかった」
 くんはわたしの隣に座り、同じようにアイスコーヒーに口をつける。カランと、氷の音がした。
 ふと、沈黙が走る。あ、まずい。ちょっと緊張してきたかも。
 今までルブランに来るときは開店時間がほとんどで、いつも佐倉さんがいた。二人きりは初めてなのだ。
 どうしたらいいかわからずに、わたしはもう一口コーヒーを飲んだ。くんも自分のグラスに口をつける。
「いい匂いがする」
 くんが、わたしに近づいた。思わぬ言葉に、わたしは背筋をぴんと立たせてしまう。
「えっ」
「女湯、シャンプー違うのかな」
「あ……わたしは家から持ってきたから」
「そっか」
 わたしは自分のコーヒーを見つめたまま、くんの言葉に答える。
 あ、富士の湯のシャンプー使えばくんとお揃いだったのか。家から持ってきたシャンプーはそれなりのこだわりで選んだものだったけれど、くんとお揃いのほうがよかったかな。明日は富士の湯のシャンプーを使おうかな。
 ぐるぐる考えている間も、くんとの距離は、近いまま。グラスを両手でぎゅっと持って熱くなった手のひらを冷やそうとするけれど、手は全然冷えてくれない。静かな店内に、わたしの心臓の音が響いてしまいそう。
 ふと、くんの前髪がわたしの額をかすめる。くすぐったくて、びっくりして、わたしは思わず顔を上げた。
「あ……」
 すぐそばにあるくんのきれいな顔。その中でも際だつのは力強い瞳だ。くんは噂とは正反対の優しい人。だけれど、瞳だけはいつもまっすぐで強い意志が見えるよう。わたしはその目が大好きで、眼鏡のレンズの向こうに見える瞳に、いつも胸を高鳴らせている。
 そのグレーの瞳は今一直線にわたしを見つめている。わたしは囚われたかのように、その視線から目を離せない。
「目、閉じて」
 くんの顔が、また近づく。
 誰もいないルブランの中で、わたしたちは初めてのキスをした。
 シャンプーの甘い、優しい匂いがした。