幸せの色
カランと聞き慣れたベルの音が鳴り、ルブランのドアが開く。そちらへ目をやれば、ドアの前には見慣れた顔がふたつ。
「よう、二人とも。いらっしゃい」
煙草を灰皿に押しつけてと二人を出迎えた。仲睦まじそう並ぶのは昔この二階に居候していた、そしてと高校時代から付き合っているさん。普段ならすでに開店時間だが、今日は二人のために時間を遅らせているため店内に客はいない。
「どうも」
「佐倉さん、こんにちは」
相変わらずクールでポーカーフェイスのままのと隣で、さんはにこやかな表情を浮かべている。一見すると正反対の二人だが、並んでいると似合いの雰囲気を醸し出すから不思議なものだ。
「ニャアッ!」
「なんだ、猫も一緒か」
二人という言葉に反応したのか、突如猫がの鞄から顔を出した。いや、こいつは猫じゃねえんだったか。まあ見た目は猫だ。
「今日も猫いるのかよ」
「今日だからです」
さんはカウンター席に座り、猫を膝の上に置いた。猫はご機嫌そうにごろごろと鳴き声をあげている。
「……なあ、本当に俺でいいの?」
二人が今日ここに来た理由。どう考えても俺に任せるようなものと思えない。
「佐倉さんがいいんです。ね、くん」
「ああ」
しかし二人は俺の問いかけに即答する。俺はため息を吐いたが、はお構いなしと言った具合にさらっと鞄から一枚の紙を取り出した。左上に婚姻届と書かれていたその紙には、名前の欄に「」「」とすでに記入されている。
今日、二人は籍を入れる予定になっている。朝一番に役所へ行く前、証人欄にサインをもらうためここへやってきたのだ。
「お世話になったので」
「世話ねえ……」
受け取った婚姻届をまじまじと見つめる。そこに書かれた文字は丁寧で、この紙に込めた二人の気持ちが伝わるようだ。
「……まあ、なんだ。その前にコーヒー飲んでけよ」
婚姻届をカウンターに置き、棚からコーヒー豆を取り出した。この年になっても婚姻届の証人というのはなかなかむず痒いものだ。
コーヒーを淹れながら一ヶ月前のことを思い出す。あの日、突然がルブランにやってきた。いつものようにコーヒーを出せば、はそれに口をつける前に「と結婚することになった」と言ってきたのだ。「めでてえじゃねえか」と返せば「一番最初に報告しようと思って」と。
あのときは「俺はお前の親じゃねえぞ」と言ってみたが、内心くすぐったいような、心が揺さぶられるような思いになった。そしてこの紙を前にした今も、同じ感情に駆られている。
「ほら、コーヒーできたぞ」
「ありがとうございます。あ、おいしい」
さんはコーヒーに口をつけすぐに笑顔を見せる。彼女はよく笑うタイプで、ポーカーフェイスのとは正反対だ。ただ、そんなも彼女の隣にいると目尻を下げた柔和な笑みを浮かべるのだ。ほんの少しの表情の変化だが、が彼女を大切に思っていることが一目で伝わるほど優しい目。見ているこちらが少し恥ずかしくなるぐらいだ。
さて、コーヒーも淹れたのだから、そろそろ観念して目の前の書類にサインを書かねばならない。乾拭きしたカウンターに婚姻届を置き、愛用のボールペンを取り出した。
「ええと……」
名前に本籍、そして住所。何回も書いた文字だが、少し指が震える。俺の婚姻届ではないが、二人にとっては一生に一枚あるかないかの大切な書類だ。緊張しないわけがない。佐倉、惣治郎、住所は四軒茶屋。一文字一文字、丁寧に書いていく。
「……ほら、できたぞ」
最後に印を押し、に婚姻届を返す。二人は署名欄を確認すると嬉しそうに笑った。
「これから役所行くんだろ? 猫も連れてくの?」
「そう。一緒に行こうって言ってたから」
「にゃ~!」
さんの膝の上で猫は高い声をあげた。一緒に暮らして籍入れるときまで一緒とは、もはや猫が二人の子供のようだ。
「そろそろ行く?」
「あ、その前にお手洗い行ってくる」
さんは「借りますね」と言って階段下のトイレのドアを開けた。しん、とルブランの中に一瞬静寂が広がる。
「……なあ、」
階段の上、二階とも呼べない屋根裏部屋を思い出しながらの名前を呼ぶ。の保護司を引き受けあそこに住まわせたあの一年、助けるはずの保護司が、双葉のことでも自身のことでもに助けられてきた。助けられたのは俺だけじゃない。たくさんの人間にあいつは手を差し伸べてきた。あの激動の一年を過ごしながら。
「お前今、幸せか?」
ふと、心に浮かんだ言葉を口にした。あの冤罪の日から、何度の心は痛んだだろう。何度それを乗り越えてきたのだろう。
なあ、今、お前は幸せか?
「幸せ……」
はさんのカップを見つめ、ふっと口元に笑みを作った。
「どう見える?」
返ってきたイエスでもノーでもないその答えに、俺は思わず笑った。
「質問で質問で返すな、バカ」
「はは」
「ったく。泣かせるんじゃねえぞ」
「わかってる」
そう話している内に、トイレのドアが開く。ハンカチで手を拭きながら戻ってきたさんを見て、はまた頬を緩めた。
「そろそろ行こう」
「うん。佐倉さん、ごちそうさまです。それに、ありがとうございました」
「どういたしまして」
にこりと笑うさんの横で、は猫を鞄に入れながら表情をふっと真剣なものへと変える。
「お世話になりました」
それはいつだったかも聞いた言葉だ。ああ、あれだ。保護司を引き受けたあの年の、が地元に帰る日に聞いた言葉だ。
「……ああ」
「また来ます」
そう言って二人は腕を組み、猫を鞄から覗かせながらルブランから駅へと歩いていった。お互いを見つめる表情は優しく穏やかで、見ているこちらまで温かくなるようだ。
一人になった店内で、俺は小さく呟いた。
「幸せそうな顔しやがって」