染まる
四軒茶屋駅から徒歩一分の場所にある、赤い庇の喫茶店。この純喫茶ルブランに通うようになって半年近くがたつ。高校生にはハードルの高い、昭和のにおいが残るレトロな喫茶店にわたしが通い始めたのには理由がある。
「さん、いらっしゃい」
「くん、お邪魔します」
カウンターの中で挨拶をしてくれたのはくん。クラスメイトの彼がこのルブランに住んでいることがきっかけで、わたしはこのルブランに通うようになった。
「あれ、佐倉さんは?」
「町内会の用事。すぐ戻るって」
そんな会話をしながらわたしはカウンター席に座る。ほかにお客さんはいないようだ。
「コーヒー、淹れるね」
「お願いします!」
「いや、こちらこそ」
わたしがルブランに来るとき、いつもくんが無料でコーヒーを淹れてくれる。無料なのは同級生のよしみというのもあるけれど、くんの練習に付き合うという名目だから。いくら練習とは言え材料代も払わないのは気が引けるけれど、店主である佐倉さんからもそう言われているのでお言葉に甘えている。
カウンター席からくんがコーヒーを淹れる様子を見つめる。半年前はたどたどしかったくんの手つきも、もう今は慣れたもの。あっという間にできた温かなコーヒーを受け取り、カップに口をつける。うん、おいしい。
「ちょっと苦めのコーヒー?」
「そう。どう?」
「おいしいよ。コクもあって……深みがある感じ?」
コーヒーに詳しいわけではないけれど、ただで飲ませてもらっているのだからできるだけ詳細に感想を述べる。くんの参考になるように。
くんのコーヒーはおいしい。お世辞ではなく、本当にそう思っている。初めは苦みが強いコーヒーを敬遠していたけれど、飲んでみれば優しく深い味わいが広がる。……なんだか、まるでくんの印象そのままだ。前歴だなんだの噂で最初は怖い印象だったけれど、話してみれば優しい人。コーヒーとくんを見比べて思わず笑みを浮かべてしまう。
「くん、コーヒー淹れるのうまくなったね」
「そう?」
「うん。最初からおいしかったけど、もっとおいしくなった。手際もよくなったし……」
コーヒーの味も、それを淹れる手つきも、まるでもうこのお店のマスターのよう……なんて言ったらさすがに佐倉さんに失礼かな。でも、わたしはそれぐらいくんのコーヒーを好きだと思う。
「わたし、紅茶党だったんだけどね」
ルブランへ通う前、わたしは紅茶党だったのだ。香りのいいアールグレイやミルクを入れたアッサムなど、家で茶葉から淹れるぐらいには紅茶派だった。
「最初に来たときもそう言ってた」
「うん。ちゃんとティーポットも持ってるし」
今でも紅茶は大好きだ。時間のあるときは家でまったりティータイムを楽しんでいる。でも、今この時間が一番心地いい。
「いつの間にかコーヒー党になっちゃった」
ルブラン特製の香り豊かなコーヒー。店内に流れる穏やかな空気。そして、くんと過ごすこの時間。それらすべて含めてコーヒーが好きと思う。
「修行した甲斐がある」
「くん、最初は甘いのとか淹れてくれたよね」
「まあ……普段コーヒー飲まないって言うから、そういうほうが飲みやすいかと思って」
「ありがと」
今思うと半年前にはミルクが多めのカフェオレやウィンナーコーヒー、ブラックでも口当たりのまろやかなものが多かった。くんの小さな気遣いが見えるよう。最近になって苦めのものやコクの深いものが出されるようになったのは、わたしがコーヒーに慣れてきたのをくんも察してのことだろう。彼は本当によく人を見ている。
「ルブランに染まっちゃったかな」
ふふ、と笑いながらそう言うと、カウンターの向こうにいるくんが不敵な笑みを浮かべる。
「もっと染まってみる?」
弧を描いたくんの唇が紡いだ言葉に、わたしは目を丸くした。だって、くんの「染まる」が、わたしと違う意味に聞こえたから。
「えっと……その、ルブランに、だよね?」
無性にざわつく心臓を抑えながらそう聞くと、くんはさらに笑みを深める。
「さあ?」
妖艶なその笑みに、わたしの心臓は大きく跳ねた。一瞬で頬が熱くなって、くんのほうを見ていられなくなる。
わたしがくんに染まりきるまで、そう時間はかからない。