カンパニュラの花言葉 四月
新しいクラスにも慣れてきた四月下旬。大きく深呼吸をして自身のクラスである二年D組のドアを開ける。教室の真ん中あたりにある自分の席を通り過ぎ、向かったのは窓際後ろから二番目、転入生、が座る席だ。
「くん、おはよう」
言葉を発したと同時に教室全体がざわついた。当然だ、だってわたしが話しかけた彼――は、転入する前から「前歴持ちの犯罪者」と噂をされている人物なのだから。
「おはよう」
くんはそんな周囲の騒音を気にもせず――少なくとも外から見た上では――頬杖を解きわたしの挨拶に応えてくれた。
「あの……えっと、昨日の……」
詰まりながらも昨日のことを話そうとすると、タイミング悪くチャイムが鳴り響く。それとほぼ同時に担任の川上先生が教室へ入ってきた。
「ごめん、また後で」
「ああ」
小走りで自分の席へと戻ると、前の席の女子生徒が小声で話しかけてくる。
「さん、くんとなにがあったの!?」
「なにがって……」
「絶対関わらない方がいいって。なにされるかわかんないよ」
それは彼女なりの助言のつもりだったのだろう。たいして親しくもないわたしにわざわざそんなことを言ってくるぐらいには、彼女はくんを危険な存在だと認識しているようだ。
厚意だとはわかっている。それでも、今のわたしはその言葉を受け流せなかった。
「くん、きっとそんなに悪い人じゃないよ」
反射的に口から出たのはそんな言葉だった。はっとして前の席の彼女を見ると、目を丸くしてぽかんとこちらを見ていた。
「には近づかない方がいい」「喧嘩相手をボコボコにして傷害罪で逮捕されたらしい」「酒も煙草も万引きも常習犯」全部くんが転入して来る前、そして今でも耳にする噂話だ。わたしもいくらなんでもそこまでではないだろうと思いつつ、その噂を半分信じていたし、くんにはできるだけ近づかないようにしていた。昨日、渋谷でくんと偶然会うまでは。
放課後、セントラル街で買い物をしていたときのこと。友人からのチャットの返信をしようと道路の隅でスマホを操作していると、ひとりの中年男性が話しかけてきた。
「きみ、イルカちゃんだよね?」
イルカちゃん? 誰のこと? 目を白黒させていると男性は早口で言葉を続ける。
「チャットした道玄だよ。ああ、会えてよかった」
「え……人違いだと思いますけど……?」
どうやらこの人はその「イルカちゃん」と待ち合わせをしているらしい。素直に人違いであることを告げると、男性は突然わたしの腕を掴んできた。
「ここで待ち合わせって言ってたし、秀尽の制服だし、髪型も鞄のマスコットも連絡もらったとおりだろ」
「え? あの、本当に違います。わたしただ買い物してただけで」
腕を払おうとするけれど男性の力は強くて振り払えない。それどころか引っ張られてバランスを崩してしまう。
「いやいや、別に怖いことしないからさ。嘘つかなくていいよ」
「だから人違いですって!」
そう叫んでも男性の目は据わっていて、話を聞いてくれる様子はない。
どうしよう、怖い。なにを言っても離してくれないし、力でも敵わないし、どうすればいい? 周囲の人たちはちらりとこちらを見ても、何事もなかったように手の中のスマホに視線を落として歩き去っていく。誰も助けてくれる様子はない。
「ほら、行こう」
「や、やだ……っ」
男性はわたしの腕を掴んだまま歩き出す。引っ張られてわたしの足が一歩出てしまうけれど、ぐっと右足に力を込めて踏みとどまる。
「あっ!?」
けれど、成人男性の力に敵うはずもない。路地裏のほうへじりじりと引きずられる。背中に冷たいものが走っていく。助けを求めたくてもうまく声が出せない。恐怖で体が動かない。怖い。
「や……っ」
「すみません」
セントラル街のほうから男性が話しかけてくる。もしかして誰かが気づいて助けに来てくれたのだろうか。それとも道でも聞きたいのか。別に後者でもいい。藁にもすがる思いで顔を上げると、そこにいたのは意外な人物だった。
「くん……?」
くん。新学期が始まってすぐ転入してきた、ただの一度も話したことのないクラスメイト。傷害で逮捕され前の学校を退学になったらしいという、噂の人物だ。なんで彼がここに? どうしてわたしに話しかけてきたの? 頭の中に疑問符が浮かぶと同時に、くんが再び口を開く。
「彼女と待ち合わせしてるんですけど、何か用ですか」
「えっ」
くんはわたしを指しながらそう言った。当然わたしは彼と待ち合わせなどしていない。わたしの腕を掴む見知らぬ男性と、突然話しかけてきた噂の前歴持ちのクラスメイト。この状況にまったく頭がついていかない。
「な、なんだきみは、僕が彼女と」
思わぬ第三者の出現に男性は明らかに戸惑いを隠せない様子だ。男性に追い打ちをかけるように、くんはレンズの奥の瞳を光らせた。
「なんの用ですか」
「な……っ」
男性が怯んだ隙に、くんがわたしの腕を取る。
「走って」
「えっ」
「いいから」
突然のくんの「走って」という言葉。それに頷く間もなく、わたしはくんに引っ張られて駅の方角へと走った。
駅前の広場に着いたところで、くんは後ろを振り向き男性が追いかけてきていないことを確かめてから歩を緩める。息を切らしながら膝に手をつくわたしを見て、くんは握っていたわたしの腕を放した。
「はあ、はあ……」
ここまできてようやく状況に頭が追いついてきた。くんはわたしがあの男性に絡まれているところを助けるため「彼女と待ち合わせをしている」なんて嘘をついたのだ。
正直、くんが助けてくれるなんて思っていなかった。だって彼は「前歴持ちの犯罪者」という噂の人なのだ。誰かに絡むことはあっても誰かを助けるなんて、そんなことあるはずがないと思っていた。
「ごめん、速すぎた?」
わたしの心の内とは裏腹に、くんはしれっとした声で問いかけてくる。
「いや、それは……大丈夫……」
むしろ速く走らなければ例の男性が追いかけてきたかもしれない。おそらくひとりではまともに走れなかっただろうから、引っ張ってもらってよかったとすら思う。
「くん、本当にありがとう」
呼吸が落ち着いてきたところで、顔をあげてくんにお礼を言った。彼は変わらずクールな表情を崩さない。
「別にたいしたことじゃない。それより早く帰ったほうがいいよ。今は見えないけど、もしかしたら追いかけてきてるかも」
「えっ!?」
「何線?」
「田苑都市線だけど……あ!」
「あ、いる」
横断歩道の向こうに先ほどの男性らしき人物が見えて、思わず声をあげてしまった。追いかけてきたのか、ただ諦めて帰ろうとして駅にきたのかはわからないけれど、ここでまた顔を合わせたくはない。
「ほら早く。気づかれないうちに」
「え、でもくんは」
「何かあったら足止めしておくから」
それではくんが危ないのでは。そう言いたいけれど信号も青に変わってしまった。二人揃っていれば目に付きやすいだろうし、ここで問答している暇もない。
「う、うん。ありがとう」
くんに再びお礼を言って走って駅へ走る。改札を抜けて、発車ベルの鳴る電車に飛び乗った。空いていた一番端の席に座ってようやく息を吐く。
くんはどうしているだろうか。あの男性と鉢合わせになって変な言いがかりをつけられてないだろうか。確認しようにもくんの連絡先など知らない。……というか、今まで話したこともないのだから知るはずもない。
どうしてくんは、わたしを助けてくれたのだろう。一度も話したことがないというのに。
ガタンゴトンと揺れる電車の窓を見る。地下区間だから景色は見えず、暗いトンネルが映るだけ。
「……くん、大丈夫かな」
自然とそんな言葉が口をついて出た。鞄の上に置いた拳に力がこもる。
授業中、そんな昨日の出来事を思い出しながら、くんの席を見やる。くんの噂は本当なのだろうか。数ある噂のどこまでが本当? もし本当だとしたら、昨日わたしを助けたのはどうして? 噂通りの人ならばただのクラスメイトを助けたりはしないだろう。それとも助けたことをネタにゆするつもり? いや、昨日と今朝の雰囲気から言ってそんな様子は見られない。
もしかして、もしかしたら、噂とは違いくんは優しい人なのかもしれない。
様々な考えが浮かんでは消え、浮かんでは消え。あっという間にお昼休みの時間になってしまった。
席で友人たちと昼食をとっている間もくんのことが気になって仕方ない。彼は自席でひとり購買のパンを食べている。今、昨日の話をしに行くのは食事の邪魔だろう。だからまた後で、うん、食事が終わったら。ちらちら横目でくんを確認しながらではどうにも食事が進まない。わたしがお弁当を半分食べ終わったところで、くんはさっと机の上を片づけて立ち上がる。あ、どこかに行ってしまう。わたしは慌てて半分残ったままお弁当に蓋をして席を立つ。
「、お弁当途中じゃない?」
「あとで食べる!」
友人の言葉にさっと答えて、早足でくんを追いかける。くんは思いの外歩くのが早く、昼休みの人の多い廊下ではなかなか追いつけない。
くんはとんとんと階段を上っていく。三階の図書室にでも行くのだろうか。そう思ったのもつかの間、彼はさらにその上へと続く階段へ足を乗せた。
思いがけない行動に追いかける足が止まってしまう。三階の上はもう立ち入り禁止の屋上しかない。当然誰もいないはずだ。今追いかけたらくんと二人きりになってしまう。
どうしよう、行ってもいいのだろうか。もし彼が噂通りの人間だったら? 人目につかない場所で二人きりなんて何が起きるかわからない。危険すぎる気がする。
屋上へと続く階段で足踏みをしていると、ふと昨日のことが思い出される。わざわざ人混みの中、わたしを助けてくれたくん。多くの人が見て見ぬ振りをする中、声をかけてきてくれた彼。
「……よし」
小さく息を吐いて屋上へと続く階段を上り始めた。踊り場を抜けると、屋上の扉の前でくんが壁にもたれかかっていた。
「やっときた」
くんはわたしに気づくと、スマホをポケットにしまってこちらを向く。
「追いかけるの、諦めたのかと思った」
「え……気づいてたの?」
「そりゃまあ……さすがに。昨日の話だろ?」
「う、うん。そうなんだけど……」
「じゃあ中入るか、イスもあるし」
「えっ」
くんはわたしの驚きの声が聞こえないのか、聞こえても無視しているのか表情を崩さずドアノブを回す。慣れた様子で置いてあったイスに座るので、わたしも彼の前のイスにおそるおそる座った。
「あ、あの、昨日はありがとうございました」
とりあえず、なによりも先に昨日のお礼を言わなくては。わたしはそのためにくんを追いかけてきたのだから。
「どういたしまして」
「あの……それで、あの後大丈夫だった?」
二番目は、別れた後のことだ。もちろんこうやって学校に来ているのだから大事にはなっていないのだろうけれど、あの男性に気づかれて言いがかりをつけられたりはしていないだろうか。
「大丈夫。俺には気づかなかった。JL線の改札通ってたから、さんも会ってないよね?」
「うん、ちゃんと何もなく家に帰れたよ」
「そっか、よかった」
ふと、くんの顔が緩んだ。あ、きれいな顔。思わずそんなことが頭に浮かんでしまう。
「ごめんね、助けてくれたのに置いて帰ったりして」
三番目はこれ。ずっと昨日からもやもやしていた。あの状況では仕方ないことだったかもしれないけれど、助けてくれた人に満足にお礼を言わないまま帰ったこと。そして、もしかしたらその人が危険な目に遭うかもしれないのにそのまま帰ったこと。ちゃんと謝らねばとずっと思っていた。
「そんなこと」
くんは目を丸くして、首をかきながら言葉を続ける。
「むしろあそこで帰ってくれなかったら困ったよ。助けた意味がなくなる」
「それはそうだけど……」
「何もなかったし、気にしないで」
そう言われても、わたしのほうが気になってしまう。お礼とお詫びをかねて何かをしたい。
「あ、あのね。くん、甘いものとか好き?」
「甘いもの? ……普通?」
「そっか。なにか昨日のお礼にって思ったけど、お菓子とかはちょっとあれかな……」
「いいよ、別に。ありがとうって言ってもらっただけで十分」
またくんが笑顔を見せる。大きな眼鏡に隠れていた彼の素顔がほんの少し覗き見えた気がした。
なんというか、すごく意外だ。くんはもっと怖い人だと思っていたけれど、噂とは正反対の優しい普通の人に見える。
そもそもくんが転入してくる前、噂だけを聞いていたときはもっと派手な荒っぽい容姿を想像していたのだ。それがいざ転入した彼を見れば制服も真面目に着ているし髪も染めていないようだった。さらには黒縁の眼鏡、荒っぽいと言うよりむしろ野暮ったい印象すら受けた。そして昨日の出来事、今の会話での言葉や表情、とてもじゃないけど噂のような人とは思えない。
あの噂は、本当なのだろうか。心の中で浮かび上がる疑問を抱えながらくんの表情を窺っていると、彼の横に置かれた鞄がもぞもぞと動き始めた。
……鞄が、動く?
「えっ?」
なんで鞄が動いてるの!? 驚いたのもつかの間、くんの鞄の中から一匹の猫が顔を出した。
いや、猫……猫!?
「モルガナ、出てくるなっていつも言ってるだろ」
驚くわたしをよそに、くんは眉一つ動かさず猫の頭をぽんぽんと叩いて鞄の中へ戻そうとする。
「え……ええ!?」
「ごめん、驚かせた?」
「そ、そりゃあ……」
学校で同級生の鞄から猫が出てきて驚かない人間なんていないだろう。しかもくんの「いつも」という言葉から察するに、たまに聞く「ペットが勝手についてきてしまった」という様子でもない。
「……あの、くん」
「うん?」
「……撫でてもいい?」
どうして連れてきているの? 鞄の中なんて苦しいのでは? いろいろな疑問が頭の中を駆けめぐるけれど、それより先に出てきたのはこの言葉だった。この子を撫でたい。その欲求がなにより勝る。そう、わたしは猫派なのだ。
「どう?」
くんは鞄の中の猫――どうやら名前はモルガナちゃんと言うようだ――に話しかける。
「ちょっとだけならいいってさ」
「ありがとう!」
まるで本当に会話をしているかのようなくんの言葉を不思議に思いつつも、今はモルガナちゃんを撫でられる喜びのほうでいっぱいだ。ドキドキしながらモルガナちゃんに手を伸ばす。背中の辺りにそっと手のひらを当てると、短いながらにふわふわの毛並みに指が沈んでいく。
「かわいい……」
白と黒の靴下の猫。しっぽの先も白くなっているのが珍しい。血統種というわけではなさそうだけれど、毛並みも整っているしお顔も可愛い。しかも大人しくっていい子だ。
「ふわふわ……わたし、猫好きなの」
撫でながらぽつりと呟くと、大人しかったモルガナちゃんが突然口を大きく開けて威嚇をしてくる。
「わっ!」
「あ、ごめん。猫って言われると怒るんだこいつ」
「そ、そうなんだ……ごめんね。えっと……名前、モルガナちゃんでいいんだよね?」
「うん」
「ごめんね、モルガナちゃん」
体を屈めて謝ると、モルガナちゃんは「にゃ」と小さな声で鳴いた。
「モルガナも、いくら嫌だからっていきなりあんなふうに威嚇するなよ。怖がらせるだろ」
くんの言葉にモルガナちゃんはちょっと不機嫌そうにふいと横を向いてしまった。この様子だとモルガナちゃんは完全にくんの言葉を理解していそう。随分賢い子のようだ。
「まったく……さん、モルガナのこと、秘密にしててくれる?」
「え?」
「さっきお礼したいって言ってたから。そのお礼がこれってことで」
くんは人差し指を口元に当て、秘密のポーズを取る。その仕草が妙に色っぽくて、わたしは思わず目を背けてしまった。
「う、うん。それぐらい全然……」
「ありがと」
「ううん、元々言うつもりもなかったし……。でもなんで学校に連れてきてるの?」
「モルガナが来たいって言うから」
くんのさも当然と言った具合の答えにわたしはぽかんと口を開けてしまった。……前言撤回。くん、優しい人ではあるようだけれど、普通の人とは言い難いかもしれない。
あれから一週間弱。毎日くんは放課後は忙しそうにそそくさと帰ってしまうので、話す機会もないままだ。わたしとしても助けてくれたお礼はすでに言ったので、話しかける必要性もなかった。
そんな中またくんに関する噂がひとつ増えた。ゴールデンウィーク明けに退学になるという噂だ。しかも同じクラスの三島くん、違うクラスだけれどくんと仲のいい坂本くんまで退学になるとか。
一度くんに助けてもらった身としては噂の真偽が気になるところだ。あのとき屋上で話したくんは噂のような人ではないし、退学になるような人とも思えない。もちろん、あの数分の会話だけは知り得ないことの方が多いとは思うけれど。
退学の噂のことを確かめたいと思いつつ、本人に「退学って本当?」とストレートに聞くのもいかがなものか。悩んでいるうちに今日も放課後になってしまった。
思案しながら昇降口へ向かう階段を下りていると、前にくんの姿が見えた。トントントンと軽やかに階段を下りるくん、そんな彼の鞄がもぞりと動いて、中からモルガナちゃんが顔を出す。
「あっ!」
まずい、このままだとくんが学校に猫を連れてきていることがみんなにバレてしまう。わたしは思わずくんに駆け寄り、慌ててモルガナちゃんを両手で隠した。
「えっ、さん? どうしたの?」
「あ、あの……モルガナちゃんが」
「ああ、なるほど」
くんは驚いた顔をしたけれど、すぐにわたしの行動を理解したようで、鞄に向かって「出てくるなってば」と語りかける。
「ごめん、ありがと。助かった」
「ううん、だい……」
大丈夫、そう言おうとしたときにふと周囲が騒がしいことに気づいた。
「うわ、ってと仲いいの?」「弱みでも握られてるんじゃないの?」「もしかしてさんもと同類?」「さん、真面目な人だと思ってたけど」「だってこの間だって屋上でなんかやってたらしいよ」
ひそひそと聞こえてきたのはそんな言葉たち。あ、そうか。よくない噂のあるくんと話すってこういうこと。わたしも、噂の対象になるということ。
急に怖くなりうつむいてしまった。周りの人の視線が、痛い。
「……じゃあ」
くんは小さな、わたしにしか聞こえないような小さな声でそう言うと、すっと身を翻して昇降口の方へと歩き出す。
あ、これ、たぶん、くんはわかっていなくなろうとしてる。わたしが周囲の視線を気にしたこと、それが自分の噂が原因だと言うこと。
だんだんくんが離れていく。わたしは今なにをした? 周りの視線ばっかり気にしてくんを怖がって、くんに気を遣わせて? この間、わたしは誰に助けてもらったの?
「あ、くん!」
考えるより先に体が動いた。くんの名前を周りにも聞こえるような大きな声で呼んで、制服の裾を掴んで引き留める。
くんも、ひそひそ話をしていた周りの生徒たちも一斉にわたしを見る。視線が全身に突き刺さってちくちくと痛む。でも、ここで言わなきゃいつ言うの。
「あのね、この間は助けてくれてありがとう!」
自分でも驚くような大声が出た。くんではない、周りの人間に伝えるために。くんが、どういう人か伝えるために。
息が止まる。空気が止まる。こそこそ陰口を言っていた人たちはみな黙ってしまい、学校に似つかわしくない静寂が走る。
「どういたしまして」
その沈黙を破ったのはくんだった。彼は優しい微笑みを浮かべ、珍しく大きめの声でそう言った。
「気遣わせたかな、ごめん」
「ううん、わたしの方こそ……ごめんね」
「なんのこと?」
くんはとぼけるように首を傾げている。優しい人だな。わたしが必要以上に気が咎めないようそう言ってくれたのだろう。だからわたしも「こっちの話」と言っておいた。
「なんだ、随分騒がしいな」
「!」
わたしたちの会話に割って入るように聞こえてきたのは威圧感のあるしゃべり方、ねっとりとした声。間違いない、鴨志田先生だ。怖くて身を縮こまらせていると、先生は大きく体を揺らしながらこちらにやってくる。
「……ああ、またか。、お前もこいつに関わらない方がいいぞ」
「え……」
思いもよらない言葉に耳を疑う。いくらおかしな噂があるからって生徒に近寄らない方がいいなんて言葉を、本人の目の前で教師が言うなんて。
「なにをされるかわかったもんじゃない」
「な……っ」
何を言ってるんですか、そう反論しようとするとくんに肩を掴まれた。くんのほうを振り向くとやめたほうがいいと言わんばかりに首を横に振っている。
「さっさと帰れよ。これ以上問題を起こすな」
鴨志田先生は吐き捨てるような言葉を残し、足早に体育館の方へと去っていく。それと同時にひそひそと話をしていた周囲の生徒たちも一斉に引いていった。
なんだかすごく気分が悪い。もし万が一くんが噂通りの人間だったとしても、教師があんなことを言うなんて普通ではない。
「さん、大丈夫?」
「あ、ごめん……平気。くんこそ大丈夫?」
「俺は別に……それより、鴨志田先生ってどんな人?」
「え……と。評判はいい先生だよ」
「評判、は?」
鴨志田先生は、少し思うところのある先生でもある。けれど担任でもないしそこまで関わりはないので周囲から聞く評価に留めたのだけれど、そこをピンポイントでつつかれてしまった。
「えっと……あんまり人に話したことないから、くんに言うのもなんなんだけど……」
「うん」
「わたしはちょっと、苦手、かな。いろいろあって」
「いろいろっていうのは、聞かない方がいい?」
くんの重ねての質問に、わたしは一瞬躊躇った。この先は誰にも言っていない話なのだ。
「その……大したことじゃないんだけど」
一年のとき、突然鴨志田先生に体育教官室まで呼び出されたことがあった。なんでもわたしがいじめられているという話が鴨志田先生の耳に届いたらしい。心当たりがないので「大丈夫です」と言ったのだけれど、そのときの鴨志田先生の目が怖かった。こちらをなめ回すような、いやらしい目。そう、先日渋谷で話しかけてきたあの男性と似ていた。思い出しただけで背筋が凍る。
凍るけれど、ただそれだけのこと。怖くてすぐに教官室を後にしたので何かをされたわけではない。ただそれからずっと鴨志田先生のことは苦手だ。けれど周囲では鴨志田先生は評判のいい先生だったので、誰かに言うこともできなかった。鴨志田先生のことが苦手というと「なんで?」と聞き返されてしまう。「そんなのおかしいよ、あんなにいい先生なのに」と。
「ごめん……改めて話すと本当に大したことじゃないね。自意識過剰って言うか……」
「そんなことない」
続けたわたしの言葉に、くんは遮るように強い声で言い放つ。
「さんは怖かったんだろ」
じわりと、くんの言葉が心に沁みる。そう、わたしはあのとき怖かった。怖かったのだ。
「うん……ありがとう」
いつも否定されていたあの感情に、自分でも否定していたことに初めてくんが寄り添ってくれた。ずっと心の奥にあったしこりが溶けていく。安心したのか涙が浮かびそうになるのを必死にこらえる。周りに人がいないとは言えここは学校、泣くわけにはいかない。
くんって不思議な人だ。誰にも言えなかったような言いにくいことも話せてしまう。聞き上手というのはこういう人のことなのだろう。
「ごめん。そろそろ行かないと」
「あ、うんバイバイ」
「また明日」
くんは腕時計で時間を確認すると少し早足で学校から帰って行った。
そんなくんの後ろ姿を見ながら、そういえば退学の件について聞けなかったなあと思う。
その次の日、学校の掲示板に怪盗団からの予告状とやらが貼られた。鴨志田先生を名指しで「色欲のクソ野郎」と表し、先生の歪んだ欲望を奪うという内容だ。
当然鴨志田先生は激怒。その様子が尋常ではなかったことや、先日のバレー部員の自殺未遂の件もあって学校全体が騒然となった。
「色欲の、クソ野郎……」
わたしの目の前に落ちた予告状の文面を読み上げる。
くんにあの話をした昨日の今日で「鴨志田先生を」「色欲」とは、なんてタイミングだろう。
「……まさかね」