カンパニュラの花言葉 五月
五月
連休直前の五月二日、突然の全校集会の最中に鴨志田先生がバレー部員への体罰やセクハラを告白した。壇上で土下座し「警察を呼んでくれ」と自ら発言する事態に、全校生徒が驚いた。ついこの間鴨志田先生へ向けた怪盗団からの予告状なるものが校内に貼られたばかり。あれは本物だったのか? と校内は騒然となっている。
それは連休が明けた今も同じ。校内や蒼山一丁目駅、秀尽生徒の多くが利用する渋谷駅でも怪盗団や鴨志田先生の話題が聞こえてくる。
「怪盗団、かあ」
先日張り出された怪盗団の予告状、たまたま拾った一枚を学校帰りの渋谷の空に透かしてみる。特殊な細工は見当たらない。
「さん」
「わっ」
予告状を眺めていると、突然くんが視界に入ってくる。わたしは慌てて予告状を鞄にしまった。
「それ、この間貼られてたやつ?」
「うん。落ちてたのたまたま拾って……捨てようかと思ってたらあんなことになったから、捨てにくくて」
「呪われるとかそういう?」
くんはわたしの隣の縁石に寄りかかる。
「呪われる……とは思ってないけど。結構な大事だったし捨てるのもなんかなって」
「なるほど」
「くんは寄り道?」
「うん。ファミレスで勉強しようかと思って。中間近いし」
「あ、偶然。わたしも」
いくら鴨志田先生のことが話題になっているとは言え、みな目の前に近づいた定期テストのことは無視できないようだ。いつもは空いている図書室の自習コーナーは、放課後わたしが行ったときにはすでに満員だった。
「よかったら一緒に勉強する? 去年からの先生なら問題の傾向とか教えられるかも」
「いいの? ならお願いしようかな」
「任せて!」
自分がくんに教えられるほどの成績かどうかはわからないけれど、先生たちの問題の傾向ならそれなりに把握している自信がある。それに先月助けてもらったお礼もちゃんとしたい。くんはモルガナちゃんのことを秘密にすることでいいと言っていたけれど、それではわたしの気が済まない。
ファミレスの中はそれなりに混んでいて、わたしたち以外にも何組か勉強をしている学生たちの姿も見えた。一番奥のテーブル席に通されたわたしたちは向かい合うように座り、それぞれ鞄から教科書を出す。
「あ」
くんが鞄を開いたとき、中にモルガナちゃんの姿が見えないことに気づく。
「モルガナちゃん、今日は連れてきてないの?」
「いや、今は一人でぶらぶらしてる。帰る時間になったら渋谷駅まで来るから大丈夫」
「へえ……」
この間屋上で話したときも思ったけれど、モルガナちゃんは随分賢いようだ。こちらの言葉も完全に理解しているようだし、帰る時間に駅に来るなんて普通の猫ではできないだろう。
「期待外れだった? モルガナいなくて」
「えっ、別にそんな」
「猫好きだって言ってたから」
確かに猫が好きだと話したけれど、今日誘ったのはモルガナちゃん目当てというわけではない。くんの役に立てることがあるのなら、という気持ちだ。
「違うよ、今日は純粋に勉強!」
「そっか、じゃあ始めようか」
その言葉のすぐ後に注文した飲み物が運ばれてきた。わたしは紅茶、くんはコーヒーだ。カップに口を運びながら、それぞれ勉強したい教科のノートを開く。お互いに違う科目を復習していると、くんに「ちょっと聞いていい?」と聞かれたのでずいと体を乗り出した。
「英語なんだけど、ここがうまく訳せない」
「あ、そこはね、この動詞はこっちの単語にかかってるんじゃなくて……」
くんのノートの単語を指さすけれど、反対側ではどうにもやりにくい。日本語ならまだしも英語を逆さまに読むことは難しい。
「……そっち行っていい?」
「うん」
くんが奥にひとつ詰めて開けてくれたスペースに座る。するとくんからすんとコーヒーのにおいが漂った。ファミレスのコーヒーとは違う、もっと深い味わいの香り。
「さん?」
「あ、ごめん。えっとね……」
いけない、今は勉強中なのだからほかのことに気を取られていては駄目だ。気を取り直してくんに先ほどの説明の続きを話した。
「……よし、これで合った。ありがとう」
「どういたしまして。蝶野先生、結構基礎の問題出すこと多いから文法とか単語はしっかり覚えておいたほうがいいよ」
「へえ……なるほど」
くんは先ほどの問題に線を引くと、残っていたコーヒーに口をつける。わたしの方も説明が終わった今隣にいるのもおかしな話なので、自分の席へと戻ってすでに温くなった紅茶を口に含む。気づけばファミレスに入ってからそれなりの時間がたっているので、小休止するにはいい時間だろう。
ファミレスの中には秀尽の生徒も多いようで、そこかしこから「怪盗団」や「鴨志田先生」と言ったワードが聞こえてくる。
「みんな怪盗団の話ばっかりだね」
「うん」
怪盗団に対して支持する声もあれば、質の悪い悪戯とする声もある。賛否は様々だけれど学校の話題をさらうにはあの予告状はあまりにもインパクトが大きかった。
「そういうわたしたちも、さっき怪盗団の話してたんだけど」
「まあね」
「鴨志田先生のことはニュースにもなったし……うちの制服、結構特徴的だから気づく人も多いみたいだね」
ニュースで流れたインタビュー映像で生徒の顔にはモザイクがかかっていたけれど制服はしっかりと映っていた。見る人が見ればすぐにわかる制服だ。たとえば通学中の電車の中、学校の前、至る所で学外からの興味本位の視線を感じる。仕方ないとは言え、気持ちのいいものではない。
「……鴨志田先生、本当に悪い人だったんだ」
紅茶のカップを両手で握って、ゆらゆら揺れる水面を見ていたらそんな言葉が出てきた。
「うん」
生徒からも保護者からも評判のよかった鴨志田先生は悪人だった。わたしが一年生のときに感じた恐怖は勘違いではなく本物だったのだろう。
「……変な感じ。みんないい先生だって言ってたのにね」
「みんな怖くて言えなかったのかもしれない」
鴨志田先生の自白の後、バレー部員以外も鴨志田先生からの被害を口々に話し始めた。それらは決してでっち上げではなく、くんの言うとおり同調圧力で言えなかった人たちが声に出せるようになったのだろう。
「うん……そうだね」
思えばわたしもそうだった。一度鴨志田先生が怖いと話をしたら「そんなわけがない」と言われてそれからずっと口をつぐんできた。あのとき、ほぼ初対面のくんに話せた理由はわからないけれど。
「怪盗団がいなかったら、ずっとそのままだったのかな。みんな何も言えないままで、脅えるばっかりで」
「そうかもしれない」
「うん……よかった」
よかったなんて、本当は簡単に言えるものではないかもしれない。未遂で終わったとは言え鴨志田先生の件で自殺を図る生徒までいたのだから。それでも、これから鴨志田先生による被害が増えることがないこと、そして被害に遭った人たちの心がこれで少しでも救われることは、よかったと思う。
「なんか湿っぽくなっちゃったね、ごめん」
「いや、真面目に怪盗のことなかったから面白かったよ」
「ありがと。そろそろ続きやろっか」
そう言ってわたしたちはまた机の上の教科書へと集中を戻した。時折お互いに教え合いながら勉強を進めていけば、あっという間に日の沈む時間だ。ファミレスを出てくんと渋谷駅へ向かうと、どこからともなくモルガナちゃんがやってきた。
「すごいね、本当に来るんだ」
「うん。ほら、モルガナ」
くんの呼びかけに応えるようにモルガナちゃんはひょいと彼の鞄の中に入っていく。
「にゃ」
鞄から顔だけ出すモルガナちゃん。その姿が可愛くて可愛くて、可愛くて仕方ない。
「あの、くん」
「ん?」
「また、撫でさせてもらってもいい……?」
あまりに可愛いモルガナちゃんの姿を見ていると、撫でたい欲が抑えきれない。うう、可愛い。本当に可愛い。
「いいってさ」
「ありがとう!」
どうやらモルガナちゃんのお許しが出たようだ。わたしたちは駅前広場の花壇のほうへと移動して、高い縁石に腰掛ける。モルガナちゃんはくんの鞄から出てきてわたしの膝の上に乗った。スカート越しにモルガナちゃんの温もりが伝わってくる。
「かわいい……」
モルガナちゃんの温かな背中に手のひらを置いて、そっと毛並みにあわせて撫でていく。そっと人差し指で額に触れると、モルガナちゃんは気持ちよさそうに鳴く。よかった、嫌じゃないみたいだ。
「はあ……ありがとう」
ひとしきり撫でたところでモルガナちゃんから手を離す。本当はもっと撫でていたいところだけれど、このままでは永遠に撫でてしまいそう。
「さんに撫でられるの気に入ったみたい。気持ちいいってさ」
「そうなの? よかった」
わたしの我が儘で撫でさせてもらっていたけれど、モルガナちゃんも喜んでくれているのならこんなに嬉しいことはない。
それにしてもくんは本当にモルガナちゃんの言葉を理解しているかのような言い方だ。モルガナちゃんは猫と言われると怒るけれど、本当に猫じゃなかったりして。……なんてね。
「そろそろ帰ろうか」
「うん」
気づけばもうすでに日が沈みきってる。時計を見ると午後六時半、家に帰る頃には七時近くなっているだろう。
聞けばくんも同じ田苑都市線らしい。降りる駅もわたしの二つ前、ごく自然にわたしたちは同じ電車に乗るべくホームで待つことになった。
「家、四軒茶屋なんだ。いいところだよね」
「うん。学校までの満員電車がきついけど」
「あはは、わかる。電車で体浮かない?」
「浮く。上半身と下半身別々のとこ行ったり」
「あるある」
満員電車のあるあるネタを話していると緑色の電車がやってきた。空いている座席はいくつかあったけれどすぐに降りるのでふたりとも座らず吊革に掴まった。
「あ、そうだ。さん、チャットのID教えてくれる?」
「えっ」
くんの突然の言葉に、わたしは思わず驚きの声を上げてしまう。
「家で勉強してるときわからないことあったら聞きたくて」
「あっ、そっか。うん、ちょっと待って」
鞄からスマホを取り出してチャットを起動する。モタモタしていると四軒茶屋に着いてしまうというのに、緊張してしまってうまくスマホが扱えない。震える手を押さえてどうにかIDを交換した。
「ありがと。またわからないことあったら聞くかも」
「うん、でも役に立てるかわからないけどね」
「そんなことないよ。さん教え方うまかったし」
「そう、かな? それならよかった」
そんな話をしているうちに四軒茶屋の駅に着いてしまう。くんは「また明日」と言いながら電車から降りていく。
くんの背中を見送った後、発車した電車のドアに寄りかかる。チャットの友達一覧にある「」の文字に、どうにも胸が躍ってしまう。
男子とのID交換は別に初めてではない。中学のときから遠足班や同じ委員会の男子たちと連絡用に交換したことは何度かある。それなのに、どうしてくんのときはこんなに緊張してしまったのだろう。
「、……」
画面の中の彼の名前を指でなぞる。胸の奥が、きゅっと痛んだ気がした。
その日早速くんからチャットがきた。「今日はありがとう」という内容だ。わたしはすぐに「こちらこそありがとう」と返信する。
「今日のお礼」
その言葉とともに送られてきたのはモルガナちゃんの写真だ。丸まって目を瞑っている。どうやら眠っているらしい。
「かわいい!」
「さん、喜ぶかと思って」
「うん、うれしい。ありがとう!」
「どういたしまして」
「でも寝顔撮るなんてモルガナちゃん怒らない?」
「知られたら怒られるかも。内緒にしてて」
くんのメッセージに思わず笑みがこぼれた。「了解」と返してごろんと机に突っ伏す。頭に浮かぶのは、四月に屋上で話したときのくんのこと。「モルガナのこと秘密にしてて」と言われたときのあの人差し指を立てた秘密のポーズだ。
それから何度かくんとはチャットのやりとりをした。それらすべて勉強の話だ。この教科の範囲ってどこまでだっけ? とか、この公式どうやって遣うんだっけ? とか。くんからはいろいろと質問が飛んでくるので、意外と真面目さんなんだなあと思った。くんのこと、知れば知るほど噂とはほど遠い人だと感じる。
人に教えるのは自分でもいい復習になる。今回のテストはなかなか手応えがあった。期待半分不安半分で貼り出された順位を見に行くと、今まででの最高順位だ。
「やっぱり頭いいんだ」
「わっ」
掲示板の前でひとりガッツポーズをしていると、くんが後ろからやってきた。
「た、たまたまだよ」
「そう? でもさんが言ってたところ本当に出たよ。教えてもらってなかったらもっと順位低かったと思う」
そう話すくんは中間より少し上の順位だ。みんな彼の順位が意外なのか、「ワルのくせに意外と悪くないんだね」なんて声が聞こえてくる。そんな噂話も耳に届いているだろうに、くんは涼しい顔で言葉を続ける。
「またモルガナの写真送るよ。テスト結果よかったから、お礼」
「別にお礼なんて……」
「じゃあモルガナの写真いらない?」
「う……ほしい」
お礼なんてされるほどのことをしていないと思うけれど、モルガナちゃんの写真はほしい。それはそれ、これはこれなのだ。
「了解」
くんは口角をあげて目を細める。その表情が妙に色っぽくて、わたしは思わず目を逸らしてしまった。