奥さん
純喫茶ルブラン。四軒茶屋から徒歩一分の、今は少なくなった昭和のにおいを残す名店だ。
このコーヒーとカレーが自慢の喫茶店に僕が通い始めてから十年以上がたつ。マスターは二代目となっているが、彼も先代から変わらぬ味を守り続けてくれている。
「いらっしゃい」
「カレーとブレンドお願い」
「はい」
いつもの席に座りいつもの注文をすれば、マスターもいつもの通りクールな調子で返事をする。無愛想というほどではないがおべっかというほどでもないこの具合が心地いい。先代マスターからあまり変わらない。
先代のマスター……名は確か佐倉と言ったはず。彼が勇退したのは数年前だ。譲った理由は体を悪くしたとか、ましてや亡くなったという話ではない。譲った今でも彼はときどきルブランに顔を出している。以前ここで彼と顔を合わせたとき、「まだ若くて元気なのに、どうして引退したんだい」と聞いたことがある。すると彼は「もう若かねえよ。それに、いい跡継ぎも見つかったしな」とからからと笑いながらカウンターで作業する若いマスターを見やった。
今のマスターの名は、年はこういった純喫茶の店長としては若く三十代前半……もしくは二十代にも見える。先代マスターの肉親というわけでもなく、ただ「縁があって」跡を継いだらしい。今から十年ほど前だったか、まだ前のマスターがここを経営していたとき、一年ほどの間だけ若い高校生のアルバイトがひとり入っていたが、それが今のマスターなのだろう。
「お、今日はこいつもいるんだな」
足下を歩くのは一匹の黒猫だ。……と言っても、こいつを猫と呼ぶと威嚇されるのだが。
どうやらこの猫は今のマスターの飼い猫らしい。毎日毎日店にいるわけではなく、たまに店内をうろついては客を和ませている。なかなか気まぐれで早々撫でさせてはくれないのが残念だ。
ルブランは猫のいる喫茶店として情報誌に載ったこともあるし、以前人気モデルが雑誌の中で紹介したこともある。そのおかげか先代マスターの時代より繁盛しているように見える。もっとも、先代マスターは「常連だけで十分だ」と言ってほぼ宣伝をしていなかったようだから当然と言えば当然だが。
前のマスターも、今のマスターも基本はひとりでこの喫茶店を切り盛りしている。しかし、前のマスターに今のマスターが手伝いとしていたように、今のマスターにもそのような存在がいる。
「ただいま」
その声とともに、からんからんと高いベルの音が鳴り、ルブランのドアが開く。そこにいるのはひとりの女性、今のマスターの奥さんだ。
「いらっしゃいませ」
彼女は僕の姿を見るとにこりと笑いかけてくる。クールなマスターと違い彼女は愛想がいい。にこやかな笑顔は僕をはじめとした常連客の癒しになっている。
彼女はマスターと喫茶店を共同で経営しているわけではなく、他に仕事を持っていると聞く。休日の空いた時間に旦那の手伝いをしているそうだ。
「キッチンペーパー買ってきたよ」
「ありがと。いつの間にか在庫切らしちゃって」
「カレーもうできた? 持ってくね」
「よろしく」
彼女は調理場でカレーを盛りつけると僕の方へと持ってきてくれる。「いつもありがとうございます」という言葉と、満天の笑顔を添えて。
「今日はお仕事お休み?」
「はい」
「大変だねえ、平日は仕事して、休みの日は旦那さんの手伝いなんて」
「いえ、それほどでも」
「ああ、忙しくても旦那さんと一緒にいられるほうがいいんだっけ?」
からかうようにそう言うと、彼女はお盆で顔を隠しながら照れ笑いを浮かべた。
彼女とマスターが結婚したのは随分前と聞く。都心としては珍しく二十歳そこそこで籍を入れたとか。もう新婚と言える期間はとうの昔に過ぎただろうに、いつまでも仲がいい。
彼女は豆の補充をしに軽やかな足取りで二階への階段を上がる。彼女の姿が見えなくなったところで、マスターが口を開いた。
「あんまりからかわないでやって。すぐ照れるから」
「本当だねえ。十代みたいな照れ方だ」
「ああ、可愛いと思う」
「ひゅう」
マスターは臆面もなく自分の配偶者の惚気話をする。とびきり柔和で優しい笑顔を浮かべながら。別に人の惚気話が好きなわけではないが、このふたりの場合は悪くないなんて思ってしまう。
マスターは愛想がない割に、奥さんの話をするときはやたらと甘い顔をする。特に奥さんに語りかけるときの表情は格別だ。
「なあ、マスター。いつもそういう顔してればもっと繁盛するんじゃないか?」
「そういう顔って?」
「奥さんに向ける顔だよ」
ルブランはそれなりに繁盛しているとは言え、決して連日連夜の大混雑というほどではない。コーヒーもカレーもうまく、マスターもこの顔なのだから愛想さえよければ今以上に人気店になりそうなものだが、と思ってしまう。
「これ以上混んだら手に負えない。それに」
「それに?」
「あの顔はだけの特別」
口角を上げた妖しい笑みを浮かべるマスターは、男の自分さえドキリとするような色っぽさを醸し出していた。
「……ま、こっちもあんまり混むと困るな」
「だろ?」
「にしても奥さん、幸せ者だねえ」
「幸せ者は俺のほう」
マスターはそう言って彼女が上がった二階への階段を見つめる。その瞳はやはり愛情に満ちていて、まったくこちらが当てられそうになってしまう。
「ごちそうさま」
「コーヒーとどっちがうまい?」
「甲乙つけがたいな」
そんな話をしているうちに、奥さんがコーヒーの豆袋を持ってぱたぱたと階段を下りてくる。「ありがと」とお礼を言って彼女から豆を受け取るマスターの表情はやはり甘く、カレーの味もコーヒーの苦みもどこかに飛んでしまった。