ルブラン常連を助ける話/1
六月に入り、雨の日が多くなってきた。足元が悪いと客足も伸び悩む。惣治郎が外を眺めため息をついているのを、が隣で聞くのは一度や二度ではない。
カラン、とルブランのドアのベルが鳴る。視線をテレビから入り口に移せば、見慣れた女性が立っている。
「こんにちは」
彼女は以前からよくルブランに来ている常連客だ。ルブランを訪問する人間の中ではかなり若く、おそらく自分より少し上ぐらいだろうとは思っていた。
淡いブルーの傘を畳みながら、彼女はカウンター席へと座る。
「ブレンドとカレーください」
「はいよ」
彼女はいつもひとりでルブランへやってくる。注文はブレンドのみか、カレーをセットにするかの二択だ。常連客の多くは惣治郎と親しげに会話しているが、彼女はひっそりと端のカウンター席でカレーとコーヒーを味わうだけ。
ルブランにおいて珍しいタイプである彼女の顔を、はすっかり覚えてしまった。
「なあなあ、いいモノ買えたか?」
「それなり」
学校帰りにセントラル街で買い物を終えたは、小声でモルガナと会話をしながら渋谷駅までの道を歩く。梅雨のつかの間の晴れ間のためか渋谷は人が多く、人と人との間を器用にすり抜けながらは渋谷駅までの道を歩いていく。
駅前広場まで来た辺りで、ブチ公前が騒がしいことに気づく。喧噪にあふれる渋谷の中でも目立つ嫌なざわつきを、は無視できない。ブチ公前に目をやれば、一人の女性と複数の男が揉めている様子が見えた。女性はこちらに背を向ける格好になっているが、後ろ姿でもわかるほど女性は困惑している様子だ。漏れ聞こえる声からおそらくナンパの類だろう。
「おい、、あれ」
「ああ」
は考えるより前に走り出す。男たちと女性の間に入れば、へらへらしていた彼らは表情をあきれたものに変える。
「なんだ、つまんね」
大きなため息をつきながら男たちはあっさりと去って行く。簡単に引き下がったことに安堵しつつ、女性の様子を確かめようと振り向いて、は目を丸くした。
「あれ……」
「あなた、ルブランの!」
振り向いた先にいたのは、ルブランによく訪れるあの若い女性だった。女性はの顔を見て「ルブランの……」と言った後、続く言葉が見つからないようでぽかんと口を開けたままだ。
「あの……ルブランのバイト? の方ですよね?」
「バイトとはちょっと違うけど、似たようなもの」
「あ……そうなんだ。あ、えっと、わたしルブランによく行ってて」
彼女ははっとしたような顔をして、焦った声で自己紹介を始める。が自分を覚えていないと思ったのだろう。
「大丈夫、わかってる。よくルブランに一人で来てる」
「あ、覚えててくれたんだ……。あの、助けてくれてありがとうございます」
女性はに向かって深々とお辞儀する。顔を上げたとき、表情は穏やかなものになっていた。
「別にたいしたことじゃない。ナンパ?」
「そうみたい。大学帰りにぼーっと歩いてたら声かけられちゃって、しつこくて困ってたの」
彼女は苦い顔をしながらため息をつく。の制服を見て年下とわかったためか、敬語を外して話し始める。
「助かったよ、ありがとう。あの……わたし、って言うの。あなたは?」
「」
くん、とは小さな声で呟く。
「本当にありがとう。また、ルブランで」
「ああ」
は小さく手を振ると、渋谷の雑踏に消えていく。ピンと背筋を伸ばした綺麗な歩き方は、渋谷の人混みの中でも目を引いた。
その週の日曜日。がルブランの店内で昼食のカレーを食べていたときのこと。カランとベルが鳴りルブランのドアが開く。店の手伝いの最中ならばもこの音が鳴れば入り口を見て「いらっしゃいませ」などと多少の愛想をこめて言うのだが、今はただの食事中だ。気にせずそのままカレーを食べ進めようとしたが、目の端に映った人物に手を止めた。
「くん、だよね?」
「えっと……さん」
は微笑みながらの方へとやってくる。視線の先が自分の隣の席だと気づいたは、そこに置いたモルガナの入った鞄を自身の膝の上へと置いた。
「ぶへっ」
「静かに」
急に動かしたせいか、鞄の中のモルガナは声をあげる。はそっと鞄に手を入れモルガナをなだめた。
「ありがと。くん、いてよかった。毎日いるわけじゃないみたいだから」
は空いたの隣席へと座る。その様子を見た惣治郎はカウンター越しに首を傾げた。
「あれ、なに知り合いだったっけ?」
「この間、渋谷で絡まれてるところをくんに助けてもらったんです」
「へえ、こいつに?」
あごに手を当て驚いた様子を見せる惣治郎に、は明るい笑顔で「はい」と答えた。
「あのときはありがとうね」
はに改めてお礼を言うと、カレーとコーヒーを惣治郎に注文する。膝の上に両手を乗せて行儀良く待つを横目で見ながら、はカレーの残りを食べきった。
「くんはこのあたりに住んでるの?」
食後のコーヒーを飲んでいると、隣のが話しかけてくる。カップをソーサーに置いて、は答えた。
「この辺っていうか、この上」
「上?」
「そう、上」
が店の奥の階段を指さすのを見て、は目を丸くする。良く言えばレトロ、悪く言えば古くさいルブランの二階に人が住んでいるのは信じがたいのだろう。
「上……」
「まあちょっといろいろあってな。上に住まわせてんだ」
カレーとコーヒーの準備をしながら惣治郎が声をかけてくる。「いろいろあって」という言葉であまり追求しない方がいいと思ったのか、は「そうなんですね」とだけ答えた。
「上に住んでるからときどきルブランも手伝ってる」
「へえ……」
運ばれてきたカレーを食べながら小さく相づちをうつを見て、今度はから問いかける。
「そっちは? この辺に住んでる?」
「うん。ここからだとちょっと歩くけど最寄りは四茶だよ。大学までの乗り換えで渋谷使ってて」
それからもとはぽつぽつと世間話を交わした。はすでにカレーを食べ終えていたが、食後のコーヒーをゆっくりと飲みながらとの会話と楽しんだ。今日は特に予定もなかったし、たまに怪盗団や取引相手以外と会話するのも悪くないと思ったのだ。
は幼い頃から四軒茶屋に住んでいるらしい。大学二年生で、年齢はの三つ上だ。ルブランには一年ほど前に親に連れられ初めて来店し、それからは一人でも来るようになったとのこと。
「最初に一人で来たときはすっごく緊張したけどね。こういうお店ってあんまりお客さんに同年代がいないし……」
「確かに」
「でも、カレーもコーヒーもおいしいからどうしても来たくって」
は照れたように笑う。その言葉にはも同意だ。ルブランのカレーとコーヒーはそこらの名店に負けないほどおいしい。惣治郎がこの二つだけは矜持を持っているのも頷ける。
「わかる」
「ね。近くにこんなお店があって幸せ。渋谷まで行けばいろんなお店があるけど、地元にこういう雰囲気のお店があるって嬉しいな」
は食後のコーヒーを飲みながら、店内を見渡す。
ルブランは年季の入った建物のため古くさい店と言われることもある。なによりもルブランを訪れた当初はそう思っていた。しかし、慣れ親しんでみればこの古さと惣治郎の人柄、コーヒーやカレーの味すべてがルブランという店の味わい深さを形作っている。おそらくもすべてを含めてルブランを気に入っているのだろう。
「あ、わたし、そろそろ行くね。ごちそうさまでした」
はコーヒーを飲み終えると、笑顔で席を立つ。その場で会計を済ませると、の方を向いた。
「くん、またね」
思ってもみなかった言葉に、は「ああ……」と中途半端な言葉を返した。はくすりと笑うと、そのままルブランを出る。
「あの子があんなに喋るなんて珍しいな」
の食器を片づけながら、惣治郎は小さくに話す。
「来始めた頃、俺も何度か話しかけてみたけどよ、あんまり会話弾まなくてな。まあそういう客もいるから気にしてなかったが、やっぱ同年代は違うな」
確かに惣治郎は常連客とよく会話を弾ませている。こういった個人の喫茶店では店主との会話目当てに来る客も少なくない。その中ではカウンター席という話しやすい場所にいつも座っているにも関わらず、惣治郎と注文や会計以外で話しているのをは見たことがなかった。
「これからも気が向いたら話しかけてやれよ。話嫌いってわけじゃなさそうだ」
は自分の皿を片づけながら小さく頷いた。居候として世話になっている惣治郎の言葉というのもあるが、自身と話す時間が心地いいと感じたからだ。ウマが合う、とでも言えばいいだろうか。会話のテンポが自らと同じで話していて気が楽だった。
次に彼女が来るのはいつだろうか。はほんの少し自分の胸が弾むのを感じていた。
が次にに会ったのは、二週間後のことだった。
「佐倉さん、くん、こんばんは」
は大学帰りらしく、大きな鞄をイスに置いた。
「今日はカレーとブレンドで」
コーヒーの注文だけの日もあるが、今日は夕飯をここで済ませるようだ。がカレーを温め、惣治郎がコーヒーを淹れる。注文されたものを出すと、は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「いただきます」
は丁寧に手を合わせ、まずはコーヒーを一口飲む。そして次はカレーをスプーンですくう。ゆっくりと咀嚼しごくんと飲み込めば、幸せそうに息を吐いた。
「カレー好き?」
あまりにおいしそうに食べる様子を見て、は思わずそう聞いた。
「うん。ルブランのカレー、コーヒーにもよく合うし」
「わかる。絶妙な味だ」
「くんはいつも食べてるんでしょ? いいなあ」
はに羨望の眼差しを向ける。その視線がくすぐったく、は足のつま先で床を何度か軽く叩く。
「まあ……学校行く前とか」
「朝かあ……ルブラン、朝早くからやってるもんね。大学の前は……きついかな」
はコーヒーカップを両手で持ちながら、首を傾げ思案する様子を見せる。
「大学、朝早いの?」
「ううん、高校より遅いぐらい。ただ……わたし朝苦手で」
は恥ずかしそうに、から視線を外して笑う。その様子を見て、もくすりと笑みがこぼれた。
「俺も朝苦手」
「そうなの?」
「休みの日とか気づくと昼になってる」
「わかる!」
は少し興奮したように口を大きく開け、の言葉に同意した。
は表情がころころとよく変わる。感情が素直に出る表情は見ていて飽きない、なんては思う。
それからもはとぽつぽつと会話を続けた。が渋谷駅地下モールの花屋やセントラル街のコンビニでバイトをしていることを話せば、は大学近くのスーパーでレジのアルバイトをしていると返す。
そんななんでもない話をしていれば、いつの間にかルブランの閉店時間になっている。
「あ、そろそろ帰りますね。佐倉さん、ごちそうさまです」
「あいよ。また来てな」
の後ろ姿を見送りながら、は後片づけを始めた。が次に来るのはいつだろうか。そんなことを考えながら。
それからもは頻繁にルブランを訪れた。七月が終わりに近づいたある日、は惣治郎にテーブル席を借りてもいいかと許可を求めてきた。
「なんかあるの?」
「もうすぐ大学のテストで……よければ勉強したいなって」
は「混んできたらすぐ帰りますから」と付け加える。いつもは長居する客に文句を言う惣治郎だが、わざわざ事前に聞いてくるの姿勢が効いたのか、「いいよ」とすぐにその申し出を承諾した。
「ありがとうございます!」
は嬉しそうに笑うと、ブレンドコーヒーを一杯注文し一番奥のテーブル席に座った。プリントや教科書を広げ、真剣な眼差しでルーズリーフに書き込んでいく。
が来店し三十分ほどたったころ、惣治郎の携帯電話が鳴った。
「ああ、俺だ。……どうした? ああ、わかった。すぐ行くから待ってろ」
惣治郎は優しげな声で通話を切ると、に小声で耳打ちしてくる。
「悪い、双葉の様子見てくるわ。すぐ戻る」
惣治郎はそう言うと、慌てた様子でルブランを出た。双葉のことは心配だが、直接顔を合わせたことのない自分が行っても双葉を混乱させるだけだろう。双葉のことは惣治郎に任せ、は棚のコーヒー豆を眺めた。今客はのみ、コーヒーの練習でもしようかと思ったのだ。
惣治郎に教わったとおり、コーヒーを淹れていく。慎重に作業しながらの様子を見れば、彼女はペンをテーブルに置き伸びをしている。一段落したのだろうか。はのテーブルのカップが空なのを確認し、二杯淹れたコーヒーのうち一つをの元へ持って行った。
「コーヒー、飲む?」
「え……でも」
「俺の練習のやつだからお代はいらない。味も保証しないけど」
「そうなんだ。じゃあ、ありがたくいただきます」
はのコーヒーを一口飲むと、「おいしい」と笑う。は自分のコーヒーの腕がまだまだなことを理解しているが、お世辞としてもその言葉は嬉しいものだった。
「ちょっと休憩しよ」
は再び両手を大きく上に伸ばした。が勉強しているのは言語学なのか、テーブルの上には英語ではない外国語の教材が並んでいる。
「大学って大変?」
はカウンター席に座り、にそう問いかける。
大学生というと世間では遊び回っているというイメージもあるが、の勉強中の様子からはそんな印象は見受けられない。
「んー……。大変は大変かな。大学って高校までと違って自由だから。その分自分で管理しないといけないし。でも、自由にできるのは楽しいよ」
は少々疲れの見える顔ながら明るく笑っている。きっと心から大学生活を楽しんでいるのだろう。
「いいな。枠にはまって動くのは好きじゃない」
にとって学校という場は窮屈だ。勉強はさほど苦手ではないが、あれをしろ・これをしろ、それはだめ・これは禁止の大合唱は縛られているようで居心地が悪い。
「確かにくんはそんな感じに見えるね」
「バレてる?」
「バレバレ」
は口元を手で隠しながらくすくすと笑う。その笑顔につられ、も笑った。
「そういえば、この間渋谷駅でまたナンパされてる人助けてたね」
の突然の言葉に、は目を丸くする。この間とはいつだろう。記憶の糸をたどりながら、はようやく該当する出来事を思い出す。
「ああ……あれか。ナンパじゃなくてキャッチだったみたいだけど」
「そうなんだ。ごめん、わたしたまたま見かけちゃって」
「別にいいけど……」
見られて困る出来事でもないが、自分の知らぬ間にに目撃されていたことは少々照れくさい。は座ったまま無造作にポケットに手を入れた。
「女の人、知り合いだったの?」
「いや、知らない」
「そっか……やっぱり」
なにが「やはり」なのだろう。が首を傾げていると、は頬をほんのりと桜色に染めながら口を開く。
「くんって、優しいんだね」
はカップを両手で持ちながら、に笑顔を向ける。
「さんこそ」
前髪をいじりながらそう言ったに、はきょとんと目を丸くする。
惣治郎が帰ってくるまでの十分ほど、二人は短い会話を楽しんだ。