後輩他校生/1
黒髪のくせっ毛、大きな黒縁の眼鏡に隠れた真っ直ぐな瞳。あれからずっと、あの人のことばかり考えている。
教室の窓から新緑生い茂る校庭の木々を見つめて、ため息をひとつ。そんなわたしの姿を見て、友人がため息をひとつ。
「まーたあの人のこと考えてるの?」
「うん……」
「引きずるねえ」
友人のからからとした笑い声を聞きながら、わたしはまたあの人のことを思い出す。名前も知らない、あの人のことを。あれはそう、二週間前の出来事だった。
連休直前の渋谷の町は心なしか町全体が浮き足立っているように見える。そんな空気の中で見知らぬ男性に声をかけられ返事をしてしまったのが失敗だった。
「ねえ、いいじゃんちょっとぐらいさ」
「あの、わたし急いでて……」
「暇そうにしてたじゃん」
声をかけてきた男性はただのナンパ男で、しかもかなりしつこい。「忙しい」「人を待っている」等々言ってみたけれど引いてくれない。
「あの、わたし本当に……」
「ちょっと遊ぶだけだからさ、ね?」
ついに男性はわたしの右手を掴んでくる。不快感より恐怖が強まり、一気に血の気が引いていく。
「やめてください……っ」
必死に叫ぶけれど嗄れた声は響かない。必死に手をふりほどこうとした、そのとき。
「わっ!?」
今度は左腕を誰かに掴まれた。今度はなに、恐怖を感じながらそちらに顔を向けると、そこには見知らぬ同年代の男性が立っている。黒縁の大きな眼鏡が印象的だ。
「待たせてごめん、行こう」
「へっ」
「いいから」
眼鏡の男性の言葉に一瞬戸惑ったけれど、すぐに彼の思惑を理解した。この人はわたしを助けようとしてくれているのだ。
「は、はい!」
「なにあんた、この子の何?」
「彼氏です」
「えっ」
その言葉に一瞬戸惑ったけれど、ここは話を合わせなくては。裏返ってしまったけれど、どうにかこうにか声を出した。
「えっ、あ、そうです彼氏です!」
「ち……っ、なんだつまんねーな」
ナンパ男はそう吐き捨てると、あっさりとセントラル街の奥の方へ去って行った。姿が見えなくなるのを確認して、わたしは眼鏡の男性の方へ向き直す。
「あの、ありがとうございました」
「いや、別に。こっちこそ、咄嗟とは言え変なこと言ってごめん」
「変なこと……あっ」
彼の言う「変なこと」は彼氏と言ったことだろう。わたしはすぐに首を横に振った。
「そんな、助かりました。本当にありがとうございました」
「たいしたことじゃない。じゃあ、気をつけて」
「あ……はい」
男性は小さく微笑むと、急いだ様子で駅の方へと向かう。もしかしたら用事があったのだろうか。それなのに、わたしを助けてくれたのか。
彼の微笑んだ顔が、瞼の裏から消えなかった。
「その話、もう百回ぐらい聞いた」
この二週間繰り返し話したあの出来事。幾度も聞かされた友人は呆れ顔だけれど、わたしにとっては大事な大事な思い出なのだ。
「だって……」
「わかってるって。探したいんでしょ、その人」
「うん」
もう一度、助けてくれたあの人に会いたい。会ってきちんとお礼を言いたい。けれど、あまりに手がかりがなさすぎる。黒髪のくせっ毛、大きな黒縁眼鏡、黒と赤のチェックの制服。手がかりはたったのそれだけ。渋谷のセントラル街を歩き回って探したことも一度や二度じゃない。しかし渋谷の雑踏の中で見つけることはできなかった。
「あ……そういえば、ニュース見た?」
「ニュース? なんの?」
「金メダリストの体育教師が体罰とセクハラで捕まったってニュース。そのインタビューで出てたのがの言ってたその人の制服っぽかったけど」
「えっ!?」
「ほらこれ」
友人がそう言って見せてきたのはそのニュースの動画だ。確かにインタビューを受けている生徒の制服はこの間の男性と同じもの。
「これどこの学校!?」
「ニュースには学校名出てなかったけど……確か秀尽じゃなかったっけ。ネットに出てた」
「シュウジン……」
友人に漢字を教えてもらいネットで検索をかける。関連ワードに「鴨志田」「セクハラ事件」なんて出てきたのでここがニュースの学校なのは間違いないだろう。トップに出てくる関連ニュースを飛ばし学校の公式サイトを見ると、やはりそこに載っている制服はあのときの男性のものと一致している。
「場所は……蒼山一丁目!」
「えっ、!?」
最寄り駅を確認し、わたしは鞄をひっつかんで校舎を出た。目指すのはもちろん、秀尽学園高校だ。
渋谷で電車を乗り継ぎ、目的地に着いたのは学校を出た三十分後だった。秀尽学園高校の校門前で、わたしはひとり黙って立っている。二週間前、助けてくれたあの人に会えるかもしれないという望みを抱いて。
とは言え、放課後からもう三十分以上過ぎている今、校門前を通る生徒の数ももうまばらだ。たまに聞こえてくる「あの子、どこの高校?」「誰かの彼女?」なんていう言葉も痛い。
けれど、あの人に会えるかもしれない。あと少し、あと少しだけ待てば、もしかしたら。そんな期待が消えなくて、わたしは帰ることができずにいる。
あの人に、もう一度会いたい。あれからずっとあの人のことばかり考えている。黒髪のくせっ毛に、大きな黒縁眼鏡に隠れた真っ直ぐな瞳、そして最後に見せてくれた綺麗な微笑み。この二週間、何度も何度も思い出してきたあの人のこと。もう一度、もう一度だけでいいから、あの人に会いたい。
しかし、校門前で待ち始めてからもう三十分が経過した。さすがに今日はもう諦めるべきだろうか。明日授業が終わると同時にここへ来れば今日より会える可能性は高いだろう。……とりあえず今日はあと十分だけ待ってみて、見つけられなかったらまた明日来よう。そう決意した、そのとき。
「え……っ」
ふっと目の前を通ったのは黒髪のくせっ毛、黒縁の眼鏡の男子生徒だ。間違いない、二週間前にわたしを助けてくれたあの人だ。わたしは走ってその人を追いかけた。
「あ、あの!」
大きな声で呼び止めると、その人と隣にいた金髪の男性、ブロンドのツインテールの女性も振り返る。三者ともぽかんと驚いた表情だ。
ああ、本当にあの人だ。この二週間、ずっと想っていた人が目の前にいる。
「の知り合い?」
「いや……」
「あ、あの……わたし、二週間前に渋谷で絡まれてるところ助けてもらって」
「助けて……? ああ、あのときの」
「そ、それであの」
しどろもどろ必死に言葉を紡いでいく。あのとき助けてもらったこと、あれからずっとお礼を言いたいと思っていたこと。ちゃんと目の前にいる人に伝えなくては。
「助けてもらってから、ずっと……」
ずっと、そう。ずっと、わたしは、
「好き、です!」
………………。………………あれ?
「へっ、あっ、ええっ!?」
違う、違う! わたしはお礼を言いたかったのであって、好きだなんて、言うつもりはなかったのに!
「えっ、あの、ち、違くて!」
「なんだよ、いいじゃん付き合っちゃえよ!」
ぽかんとした彼に、軽い口調で声をかけたのは金髪の男性だ。
「結構可愛いしよ、チャンスじゃん」
「いや……そういうのは」
「あ、あの、本当にそういうのじゃなくて! 今日はあのときのお礼を言いにきただけで……」
「でも好きって言うのは本当なんでしょ?」
追い打ちをかけるような言葉をかけてきたのはブロンドの女性だ。う、それは……きっとそう。ずっと、目の前にいる人のことを考えてきた。お礼を言いたかった。もう一度、会いたかった。
「い、いやあの、ただお礼をって、本当にそれだけで!」
「連絡先だけでも交換しとけって、な!」
金髪の彼はそう言って彼を促す。こそこそ話しているつもりのようだけれど、わたしには丸聞こえでなんだか恥ずかしい。
「まあ……連絡先ぐらいなら」
「えっ!? でもその」
そんなことは恐れ多い、そう思い断ろうとしたけれど、その先は声が詰まってしまった。お礼を言いに会いに来た今、ここで何もしなかったらわたしとこの人の関係はそこで終わる。もう二度と会うことはないだろう。
「あ、あの! 友達からとか……そういうのは」
「いいよ」
眼鏡の彼はあっさり承諾するとポケットの中からスマホを取り出した。わたしも慌てて鞄からスマホを取り出してチャットのIDを交換する。
「、……」
画面に表示された彼の名前をなぞる。、。。ずっと知りたかった彼の名前だ。どうやら二年生らしいので、わたしの一つ上だ。
「その、今度……改めてお礼がしたいので、どこか誘ってもいいですか?」
「うん。時間が合えば」
「あっ、ありがとうございます!」
「ただごめん、今日はもう行かないと」
「は、はい。引き留めてすみません」
「じゃあ、また」
先輩はほかのふたりとともに、蒼山一丁目駅の方へと歩いていく。その光景を見ながら、一気に力の抜けたわたしは塀へともたれかかった。
改めて、とんでもないことをしたなと思う。ただお礼を言えればと思っていたはずなのに、うっかり告白して連絡先も交換してしまった。一生分の勇気を使い果たした気がする。
「先輩……」
もう一度スマホに表示された彼の名前をなぞる。胸が、熱い。
その週の日曜日、わたしは先輩と会うことになった。あの日帰ってすぐに「映画見に行きませんか? お礼なのでお金は出します」とチャットを送り、了承を得たのだ。一生分の勇気を使い果たしたと思っていたけれど、わたしにはまだ勇気が残っていたらしい。
日曜日、朝の十時半。精一杯のおしゃれをして、セントラル街の映画館の前で先輩を待つ。ただ待っているだけなのに、心臓がうるさいぐらいに鼓動を打っている。先輩の顔を雑踏の中に見つけた瞬間、その鼓動はピークに達した。
「ごめん、待たせた?」
「い、いえ、そんなことないです!」
わたしのほうが待たせるわけにはいかないからとかなり早めに来ていたのだ。首を横にぶんぶんと振ると、先輩はふっと笑う。
「渋谷の人混み、まだ慣れなくて。ギリギリになった」
「渋谷、あまり来ないんですか?」
「来ないって言うか……四月から東京に越してきたから。渋谷はよく来る方だけど、人混みはなかなか」
「そうだったんですか。あ、チケット、ネットで取ってあるので……これです」
「ありがと。今日はお言葉に甘えて」
「どんと甘えてください! お礼ですから! あっ飲み物飲みます?」
「そうだな、コーヒーでも飲むか」
カウンターの列に並びながら、わたしたちは会話を続ける。
「あの、あのときはありがとうございました。その……覚えていないかもしれませんけど」
この間は結局告白なんてしまって肝心のお礼を言えていなかった。改めて頭を下げて先輩にあのときのお礼を言う。
「いや、覚えてるよ。セントラル街でナンパされてた。でもお礼はあのとき言ってなかった?」
「言いましたけどあのときは慌ててしまってましたし……ちゃんと言いたくて」
「ん、どういたしまして」
「でも、その……学校まで追いかけたりしたのはすみません……」
改めて考えると、学校に出待ちなんて引かれたっておかしくない。よくこうやってもう一度会ってくれたと思う。
「別にいいよ。びっくりはしたけど」
「ですよね……」
「お礼がほしくて助けたわけじゃないけど、こうやってお礼を言ってもらえるのは嬉しいよ」
先輩はふっと微笑む。その笑顔にわたしの胸はいっそう締め付けられた。
「学校、よくわかったね。あのとき制服は着てたけど」
「あっ、えーと……それは……」
学校がわかったのは例の事件のニュースがきっかけだけれど、それを言うのは憚られた。先輩がその事件に関係しているかはわからないけれど、もし被害者のひとりだったら口にも出したくないだろうし、無関係だとしてもいい思いはしていないだろう。
「ああ、例の事件か」
「えっ、いや」
「別に隠さなくていいよ。バレー部でもないし体罰されたわけじゃないから」
「……そうですか? でも、大変ですよね。学校であんな事件……」
「まあ、それなりに。でも一番大変なのは被害者だから」
先輩はきっぱりとそう言い切った。確かにあの事件の被害はひどかったようで、特にセクハラは「セクハラ」という言葉で片づけられるものではなかった、なんてことも耳にした。けれど、直接の被害がなくとも先輩も嫌な思いはしただろうに、そんな言葉が出てくるなんて、やはり先輩はあのときわたしを助けてくれた人なのだ。
コーヒーを買って指定の劇場に入ると、すでに予告が始まっている。そろそろ本編も始まる時間だろう。
「始まるな」
指定の席に座り、劇場内が暗転する。そろそろ先輩が見たかったという映画が始まる。
「おもしろかったですね!」
映画が終わってすぐ、わたしは興奮気味に隣の先輩に声をかけた。
「ああ、アクションものだけど気に入ってくれてよかった」
「すごくわくわくしました! 最後のアクションシーンも大迫力でしたし!」
「わかる。お昼でも食べながら少し話そうか」
「はい! ……へっ」
勢いで返事をしてしまったけれど、お昼ご飯? わたしと先輩が、一緒に?
「ファミレスでもいい?」
「は、はい!」
そうして入ったのはセントラル街のファミリーレストランだ。日曜のお昼と言うことで混んでいたけれど、運が良かったのかすぐに座ることができた。
「お昼まで付き合わせてすみません……」
映画の時間をお昼前にしたのは、先輩の見たいと言っていた映画がこの時間と夜しかなかったからだ。お昼を一緒に食べることになるなんて思っていなかった。
「俺ももう少し話してみたいと思ったから」
先輩は事も無げにそう言った。その言葉は、わたしには嬉しすぎる。
「あ、ありがとうございます……」
「この映画、おもしろかったみたいでよかった。俺の趣味で選んだんだけど」
「すごくよかったです! アクションは爽快感あるし、でもストーリーも細やかで……ラストの主人公のセリフとかぐっときちゃいました!」
映画の話を振られ身を乗り出して語り始めてしまったけれど、すぐに冷静になって身を縮こまらせる。
「す、すみません興奮しちゃって」
「どうして謝るの? 楽しそうでいいなって思ったけど」
先輩はファミレスの喧噪の中、小さく言葉を続ける。
「学校の前で会ったときもだけど、感情に素直なところがおもしろいなって。だからもう少し話してみたいと思った。変に縮こまらないでいいよ」
先輩の言葉に、心がふっと熱くなる。我ながら騒がしいと思っていたけれど、先輩がそう言ってくれると、とても嬉しい。
「じゃあ……お言葉に甘えて」
「うん。ラストのセリフ? 俺も好きだった」
「本当ですか? いいですよね、物語の中でいろんなことがあったけど、最後に全部受け止めるような言葉で……」
アクションものらしく作中主人公には様々な困難が降りかかっていたけれど、それらをすべて跳ね退けた主人公のラストのセリフは本当にかっこよかった。
それからも先輩とご飯を食べながら映画の感想をひとしきり語り合った。どちらかというとわたしが話して、先輩が相づちを打ったり話を広げてくれたり。先輩は聞き上手なのかとても話しやすく、ほぼ初対面にも関わらずわたしはすらすらと話すことができた。
先輩とのおしゃべりは楽しくて、時間があっという間に過ぎていった。お皿を下げられてなお休日のファミレスに居座れるほどの度胸はない。わたしは先輩との時間を惜しみながら、先輩とともにファミレスを出た。
「今日は本当にありがとうございました」
「いや、こちらこそ。お礼とは言え映画代出してもらって」
「そのぐらい当然です!」
そこで一度、会話が途切れる。もうお礼の映画も見終わり、映画の感想も語り合った。今日はこれで解散の流れだろう。むしろ映画だけで終わると思っていたので食事というボーナスタイムを得たのだけれど、それでも、寂しい。
「わ、わたしその、生まれも育ちも東京なんです!」
突然の言葉に、先輩は目を丸くする。
「東京の観光スポットはそれなりに詳しいつもりで、案内とかたくさんできると思います! だから、その」
ぎゅっと鞄の持ち手を握りながら、もうかつかつの勇気を振り絞る。
「また、会ってもらえますか」
ここで何も言わずにお別れしたら、きっとそれまでだ。そんなのは寂しい。ただお礼が言えればいいと思っていただけなのに、この数日でわたしはずいぶんと欲張りになってしまった。
「いいよ」
わたしの決死の想いとは裏腹に、先輩はあっさりとした声を出す。
「い、いいんですか?」
「友達からって話だったし、それに案内してもらえるのは悪くない」
先輩は表情を変えずに淡々と言葉を紡いでいく。大仰でない雰囲気がその言葉が本心であることを示しているように思えた。
「ありがとうございます! わたし、結構アクティブな方なのでいろんな場所案内できると思います! どういうとこがいいですか? 遊べるとことか、のんびりできるとことか」
「んー……とりあえずはのんびりできるとこ。最近、いろいろあったから」
「了解です! あの、考えてまた連絡しますね」
「うん。じゃあ、俺ちょっと買い物して行くから」
「はい、今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
先輩に一礼すると、先輩は路地裏のほうへ入っていった。秀尽のある蒼山一丁目から渋谷は一本だし助けてもらったのも渋谷、きっと買い物も慣れているのだろう。
先輩の後ろ姿が見えなくなった後、わたしはその場に座り込んだ。
まだ心臓がドキドキしている。先輩も楽しかったと言ってくれた。また会ってくれると言っていた。こんなに嬉しいことがあっていいのかな。もしかしたら学校へ押し掛けて以降のことは全部わたしの夢なんじゃないかな。そう思うほどに、幸運が続いてしまっている。