甘い仕返し


「ただいま。……あれ?」
 お昼の買い出しを終えて家に帰った日曜日。いつも「おかえり」と言ってくれるくんの声が聞こえずに玄関先で首を傾げる。
くん?」
 別にお互いが帰ったときに迎えることを義務としているわけではないけれど、いつもの出迎えの声がないのは単純に不思議だ。お手洗いかな、と思いつつリビングのドアを開けるとソファの肘掛けの部分に、特徴的なくんの癖毛がはみ出しているのが見えた。
くん、ただい……」
 小走りでソファに寝ころんでいるくんのもとへ駆け寄ると、くんが瞼を閉じていることに気づく。どうやらうたた寝しているらしい。
「珍しい……」
 わたしはくんと一緒にいるとき……隣に座ってテレビを見ているときとか、遠出したデートの帰りの電車の中とか、くんがそばにいることに安心してふっと眠ってしまうことがある。だけれどくんがこうやって寝落ちてしまっているのを見た覚えはあまりない。気の抜けた表情で眠るくんは少し可愛らしいとも思う。
「最近忙しかったからかな」
 大学の課題にアルバイト、それに高校時代からの知り合いからの頼まれ事で最近のくんは随分忙しそうだった。ソファでうたた寝するほど疲れてしたのかもしれない。お昼ご飯ができるまで寝かせて置いた方がいいだろう。
「あ、写真……撮っていいかな」
 隠し撮りのようで気が引けるけれど、少し欲が湧いてしまった。一緒に住んでいるのだから毎日寝顔は見られるけれど、それとこれとは別。お昼寝のくんは貴重なのだ。
「……いいと思う?」
「ナア~」
 足下で気ままに過ごしているモルガナちゃんに聞いてみると、首を縦に振ってくれた。よ、よし。モルガナちゃんの許しも出たし、こっそりと、ちょっとだけ、一枚だけ、起こさないようにするから。わたし以外は見ないから。
 鞄からスマホを出して、カメラを起動。ピントを合わせて、ぱしゃり。画面に映ったくんの寝顔に、胸がきゅんと鳴る。
「保護しておこ……」
 間違えて消してしまったらたいへんだ。寝顔写真にロックかけて、再び画面ではなく本物のくんに目を向ける。どうやらスマホを弄っている間に眠ってしまったようで、手にはスマホが握られている。肘掛けにバランス悪く置かれた頭は少しばかり寝苦しそうにも見える。
「おでこ……」
 くんの長めの前髪から、珍しく額が覗いている。いつもはあまり見えることのないくんのおでこ。普段隠されている場所だからなのか、なぜか無性にときめいてしまう。わたしは引き寄せられるようにそこに触れた。つんつんと指先で触れたり、指の腹で撫でてみたり。くんのおでこが見えるときなんて、普段だとお風呂上がりに髪をかきあげるときぐらい。無防備に晒された額に、なぜか妙にそそられる。
「あっ」
 額に触れていると、くんの瞼が動いた。起きてしまう、そう思い額に触れた指を引っ込めようとしたけれど、覚醒したくんにあえなく捕らえられてしまう。
「なにしてたの」
「お、おでこ……触っただけ」
「こら」
 上半身だけ起き上がったくんは、右手をすっとわたしへと伸ばす。くんの大きな手が、わたしの額へと迫る。
「痛っ」
 瞬間、額に小さな痛みが走る。えっ、今、デコピンされた!?
「悪戯禁止」
「ご、ごめん……でもおでこ触っただけだよ」
「本当?」
「ほ、本当……」
 おでこを少し触っただけ。それだけ。唇を尖らせながらその主張を通そうとしたけれど、くんがじっとこちらを見つめてくるからなんだか胸が苦しくなってくる。すべてを見透かすようなくんの瞳が、ちくちく胸に刺さる。
「う……写真も撮りました」
「写真?」
 寝顔を撮ったこと、言わなければきっとわからなかっただろうに言ってしまった。くんの鋭い瞳に見つめられると、どうしたって本当のことを言わざるを得ない。
 写真撮ったの、怒られるかな。消してって言われてしまうかな。消したくないな。スマホを握りしめながらそう思っていると、くんが再びわたしへと手を伸ばす。またデコピンされる。手加減してくれているらしく先ほどのデコピンもそこまで痛くはなかったけれど、やはりビクリとしてしまう。思わず目をぎゅっと閉じた。
 しかし、額に痛みを感じることなく、代わりに感じたのは唇に優しい感触。
「仕返し」
 瞼を開くと妖しく笑うくんの姿が視界に入る。自分の頬がかあっと熱くなるのを感じた。
「……仕返し?」
「うん」
 そう言ってくんはわたしを抱き寄せると、もう一度キスをする。悪戯の仕返し、愛情のお返し。それならばとわたしからもキスをひとつ。
 こんな仕返しなら、いくらでも。