あなたのもの
「くんくん!」
友人の家に遊びに行ったある日のこと。くんと暮らす家に帰ってきてわたしはすぐにくんに話しかけた。
「ん?」
「えい!」
大きな声と共に後ろ手に隠していたうちわをくんに見せた。百均ショップで買った素材でデコレーションされたそれには「投げキッスして!」なんて書かれている。
「投げ……?」
「ふふ、今日遊んだ子ね、アイドル好きだから。今度コンサート用に作るっていうから一緒に作ってみたの」
いわゆるファンサうちわというやつだ。初めて作ったけれどこれがなかなかおもしろい。メッセージはなににするか、目立ちたい、けれど見やすくするためにどうしたらいいかなど、考えることがなかなか多い。友達は「バーンして」なんてメッセージで作っていたっけ。
「モルガナちゃんのも作ったんだよ」
「モルガナも?」
「ニャ!」
ソファの下に座っているモルガナちゃんは、先ほどわたしが渡した「スシ!」と書かれたうちわをご機嫌な様子で前足を使い掲げている。「寿司はまた今度な」とくんに言われて一瞬でふてくされてしまったけれど。
「ね、ね、くん」
「ん?」
「ね!」
もう一度くんにうちわを見せる。「投げキッスして!」と書かれたうちわを!
「投げキッス……」
「投げキッス!」
考え込んだくんを、わたしは期待を込めてじっと見つめる。
友人とうちわを作ろうという話になったとき、友人に「誰に作るの?」と聞かれた。アイドルのために作る友人と違いわたしはアイドルのコンサートには行かない。ならば相手はくんしかいないだろう。そしてくんにはせっかくなら、せっかくならそういうのをやってみてほしい!
「こう……?」
くんは首を傾げながら口元に置いた手をふっとわたしのほうへ振る。何気ない仕草があまりにかっこよくて、そして何より少し戸惑った様子があまりに可愛くて、わたしは思わずうちわで顔を隠した。
「これでいいの……?」
「十分です!」
くんと付き合って長いけれど、投げキッスなんて初めてされた。いつもの唇と唇をあわせたキスとは違う破壊力。胸の奥がきゅんきゅんしてしまう。
「はあ……ファンサされちゃった」
友人曰く投げキッスはそれなりにレアらしい。照れ屋なアイドルだとそうそうしてくれないので「投げキッスして」なんてうちわを作る人はあまりいないとか。ほかでもないくんにしてもらえるとは、なんて幸運だろう。
「ファンじゃなくて彼女」
くんは低い声でそう言うと、わたしの顔を覆っていたうちわをそっと外させる。露わになったわたしの唇に、噛みつくようなキスをひとつ。
先ほどとはまったく違う心臓の鼓動の音が頭の中に響いている。きゅんとするなんて可愛らしいものではなく、打ち付けるような激しい鼓動は痛いぐらいだ。
「くん、ずるい……」
戸惑ったように首を傾げたくんはどこへやら。今キスをしてきたくんは豹のような鋭い目だった。こういうところ、くんって本当にずるいと思う。わざとなのか無意識なのかわからないけれど、こういうギャップにいつもどうしようもなく心臓の鼓動を高鳴らせてしまう。
「なにが?」
「そういうところ……」
くんって昔からそうなのだ。高校生のときからそう。
くんの無造作ヘアーは一見するとボサボサの天然パーマのようだから野暮ったい印象を受けがちだ。特に高校のときは大きな眼鏡をかけていたのも相俟って、見た目だけだけだと地味な草食系の男の子というイメージになる。だけれど本当のくんは気弱どころか意志を曲げない強い人だし、恋愛においても引かないどころか押してくるタイプだ。ぱっと見たときの垢抜けない少年という印象と、実際の鋭い目つきの肉食獣のような本質。そのギャップにわたしはいつも心を盗まれてしまうのだ。
「わたしの心返して……」
くんって本当に本当にかっこいい。言葉のひとつひとつが、行動のひとうひとつがいつもわたしをときめかせる。くんを好きになったあの日から、わたしの心はずっとくんに奪われっぱなしだ。奪われて盗まれ続けて、返してくれないと死んでしまいそう。
奪われたうちわの代わりに両手で顔を覆う。塞いだ視界の向こうで、くんがまた体ひとつ分近づいてくる気配がした。すっとわたしの手のひらに、くんの大きな手が触れる。あっさりと顔を覆った手は剥がされ、くん綺麗な顔が目の前に現れる。
「一生返さない」
不敵な笑みと共に放たれたくんの言葉に、わたしの顔は一気に熱くなる。全身の血が頬に集まっているのではと思うほどに熱い。熱い。熱い。
「くんって……」
「ずるい?」
口元に笑みを浮かべたままのくんは、言葉の通りずるい。その妖しい笑みも、その聞き方も、再び顔を覆わせまいとわたしの手を強く掴むその手も。
「ずるい……」
ずるい。くんは本当にずるい。ずるいけれど、わたしはそんなくんが。
「好き……」
わたしは観念したように呟いて、くんに体を寄せた。するとくんはよしよしと甘やかすようにわたしの頭を撫でてくれる。
「俺も好き」
くんの甘い声が耳元に響くから、また心臓がきゅっと締め付けられる。
毎日くんにドキドキして真っ赤になってばかりで、だけれどそんな日々が心地いい。もうずっと、心は盗まれたままでいい。
「……また投げキッスやってくれる?」
「……たまに、なら?」