キスの色

 ピリリリ、ピリリリ。スマホのアラームが朝を知らせる。瞼を閉じたままもぞもぞと枕の横へ手を動かしスマホを止めようとすると、無機質なスマホより先に温かな柔らかい感触のものが手に当たる。きっとくんの手だ。
「ふあ……」
 小さなあくびの息とともにアラームの音が止む。くんが止めたのかはたまた自然に止まったのか。どちらにせよアラームが鳴ったのだから起きなくてはいけない。……のだけれど、体はまだ寝ていたいと訴えている。
「もうちょっと……」
「ん……」
 ぽつりと呟くとくんの小さな同意も聞こえてきた。くんもまだ寝ていたいよう。その証拠にくんの腕がわたしの背中に回る。
 もう少し、もう少しだけ。あと三分でスヌーズが鳴るはずだから、それまで……。
「ニャーッ!」
「わっ!」
 うとうとしていると大きな鳴き声が部屋に響いた。同時に頭にはぺしぺしと軽くはたかれる感触が。
「も、モルガナちゃん……」
「ニャッ、ニャ!」
「わかった、起きるから」
 モルガナちゃんの猫じゃない猫パンチと、おそらく「起きろ」と言っているだろう声。くんもわたしもモルガナちゃんに起こされては起きるほかない。眠い体をどうにか動かしベッドの上で起き上がった。
「ありがとうね、モルガナちゃん」
 眠い目を擦りながらモルガナちゃんを反対の手で撫でると、モルガナちゃんは満足そうな声で鳴く。
 一緒に住み始めた当初、今みたいにわたしたちを起こすときもモルガナちゃんはくんだけを軽くはたいていたけれど、今はわたしのことも同じように起こすようになった。ぺしぺしと軽い感触は、モルガナちゃんのわたしに対する遠慮がなくなったことを表しているようでとても嬉しい。
「ふあ……」
「ふふ、眠そう」
 頭をかきながら大あくびをするくんを見て、思わずわたしの口から笑いが零れた。
「眠い……」
「朝ご飯作ってるからそれまで寝てたら?」
「いや、大丈夫。起きる」
 くんは首を回して軽く伸びをすると、わたしの後頭部に手を回す。そのままわたしを引き寄せて、触れるだけのキスをした。
「おはよ」
「おはよう、くん」
 朝一番にするおはようのキス。わたしはこのキスが大好き。このキスをするだけでこれから始まる一日がとても幸せに過ごせるような、そんな気がする。そしてきっとその思いは、くんも同じなのだろう。
「にゃあ~」
「わかったから」
「モルガナちゃん、なんて言ってるの?」
「腹減ったってさ」
「そっか。カリカリ、すぐ用意するからね」
 モルガナちゃんを抱き上げて、わたしたちは寝室を出る。リビングにはカーテンの隙間から明るい陽光が差し込んでいた。



 顔を洗って歯を磨いたら朝食の支度だ。今日の朝ご飯は目玉焼きにトースト、そしてくんの淹れたコーヒー。平日の朝はだいたい忙しいから、ぱっと作れるこのメニューがほとんどだ。
 食パンをトースターにセットし棚から取り出したカリカリをモルガナちゃんのお皿へ。モルガナちゃんもいつもわたしたちと同じテーブルでご飯を食べるからお皿はテーブルの上に。
 キッチンではくんが卵をフライパンへ落としている。片手で卵を割るくん、慣れた手つきで朝ご飯の支度をするくん……。毎日見ているはずなのにその様子を素敵だなあなんて思ってしまう。
? どうしたのぼーっとして」
くん、かっこいいなあって」
 思ったことを素直に言うと、くんは目を丸くする。照れたように頬を掻くと、「ありがと」と優しい声で返してくれた。
も可愛いよ」
 くんは柔和な微笑みと共にそんな言葉をわたしにくれる。嬉しいと思う感情と少しばかりの照れの感情が同居するけれど、わたしはくんと同じように「ありがとう」と返した。可愛いとか優しいとか、そういうふうに褒められたときにはそう返してくれるのが一番嬉しいと知っているから。
「うん、ご飯食べようか」
 くんが出来上がった目玉焼きとコーヒーをリビングのローテーブルへと運んでくれるから、わたしはトーストとジャムを。モルガナちゃんはすでにテーブルに前足をかけて早く食べたいと言わんばかりだ。
「いただきます!」
 三人の声が揃う。慌ただしい朝だけれど一緒にご飯を食べる時間は大切にしたい。
くん、今日はバイトだよね?」
「ああ。十時ぐらいになるかな」
「わかった」
 じゃあ今日の夜はひとりご飯ということだ。少し寂しいな、なんて思いながらくんの淹れてくれたコーヒーを飲む。ミルクと砂糖がたっぷり入ったコーヒーの、カカオの苦みが口の中に広がった。

「そろそろ出ないと」
 朝ご飯の片づけを終え、服も着替えると時計の針が八時を差す。今日は一限から講義があるからもう学校へ向かわないといけない。くんよりわたしのほうが大学が遠いから先に家を出なくては。
「モルガナちゃん、行ってくるね」
「にゃあ~」
「気をつけてな、ってさ」
「ありがとう」
 玄関先まで見送りに来てくれたモルガナちゃんのおでこを撫でる。今日もモルガナちゃんの毛並みはふわふわだ。
「じゃあね、行ってきます」
「ああ」
 くんは少し屈んでわたしの顎に指をかける。くいと顎を持ち上げられて、唇と唇が触れた。
 行ってきますのキス、行ってらっしゃいのキス。このキスは好きだけれど少しだけ寂しい。だってほんの少しのお別れを示しているから。
「行ってらっしゃい」
 くんとモルガナちゃんは小さく微笑んで、玄関からわたしが出るまで見送ってくれた。くんの足下で前足を振るモルガナちゃんはなんとも可愛らしい。
 三人で暮らすマンションを背に、駅の方向へと歩き出す。先ほどまで触れ合っていた唇に触れると小さく胸が躍った。
 行ってらっしゃいのキスはほんの少し寂しいけれど、好き。一秒にも満たないキスひとつで、今日一日頑張れるような、そんな気がする。



 大学からの帰り道に買い出しを済ませて家へと帰る。くんがいない間にお風呂やリビングを掃除して、ひとりの夕飯は余っていたお弁当用の冷凍食品で済ませた。お風呂も上がって今は午後十時。今日はモルガナちゃんもくんと一緒だから、部屋の中にひとりきりだ。
「まだかなあ」
 ごろんとソファに寝そべってくんの帰りを待つ。「駅着いた」と連絡が来たのは十五分前。くんの足ならそろそろ家に着くはずだ。
「あっ」
 スマホのニュースを眺めながら玄関先を気にしていると、玄関から鍵が回る音がした。くんとモルガナちゃんが帰ってきたのだ。
くん、モルガナちゃん!」
 リビングから玄関へ続くドアを開けると、やはりそこには靴を脱ぐくんの姿がある。肩にかけられた鞄からはモルガナちゃんが顔を出している。
「茜、ただいま」
「おかえり!」
 思わずくんに抱きつくと、くんはぽんぽんとわたしの背中に触れる。大きくて安心する手だ。
 くんは背中に手を回したままわたしの唇にキスをする。おかえりのキス。ただいまのキス。わたしはこのキスが大好き。くんと一緒に暮らしているんだと実感できるから。
「いいにおいがする」
「お風呂入ったから」
「そっか」
 くんはわたしの首のあたりに顔を埋める。ふわふわした髪の毛が首筋に当たってくすぐったい。
くん、くすぐったい」
「うりゃ」
「ふふっ」
 くんは頭を動かし髪の毛でわたしの首元をくすぐってくる。思わず声を上げて笑うと、今度は頬にキスをされた。
「お風呂入ってくる」
「うん」
 くんの言葉と同時にモルガナちゃんがするりと鞄から出てくる。モルガナちゃんはそのまま床には着地せず、居場所を鞄の中からわたしの腕の中へと移動させた。
「モルガナちゃんもおかえり」
「にゃー」
 よしよしと額を撫でると、モルガナちゃんの嬉しそうな声がで鳴く。その様子を見たくんが「歩かないと太るぞ」なんて声をかけるのでわたしは思わず笑ってしまった。
 からかうようなくんの声とモルガナちゃんの拗ねたような声が部屋の中にに響いてる。この部屋にひとりきりは寂しい。くんとモルガナちゃんと、三人でいるのが一番だ。



 くんもお風呂から上がり今はソファの上でごろごろタイムだ。隣にくん、膝の上にモルガナちゃんというポジションでくんが前に買ってきたゲームに興じる。協力対戦でNPC相手に勝利しハイタッチ。モルガナちゃんとも手を合わせようとしたら、モルガナちゃんは香箱座りのまま大あくびだ。
「モルガナ、眠いのか?」
「ナア……」
「じゃあそろそろ寝よっか」
 明日はわたしもくんも朝遅くて大丈夫だから夜更かししようかなと思っていたけれど、モルガナちゃんが眠いのなら仕方ない。わたしもくんも寝室に行かなくては。
「おやすみ、モルガナちゃん」
「ニャア……」
 リビングにある小さなベッドで眠るモルガナちゃんにおやすみを言うと、モルガナちゃんはすぐに眠りに落ちた。丸まって眠るモルガナちゃんはなんとも可愛らしい。写真に収めたいけれど、でもすぐに電気を消して寝かせてあげなくちゃ。ぐっと我慢してくんと寝室へと入った。
「モルガナちゃん、そんなに眠かったのかな」
「な。まだそんな遅くないのに。疲れてたのかな」
 ふたりでベッドに入りながら「ゆっくり寝かせておこう」と話をする。いつもわたしたちを起こしてくれるモルガナちゃん、たまにはゆっくりさせてあげなくちゃ。
 ふたり並んで掛け布団をかぶる。くんはわたしの上に覆い被さるかたちになって、キスをひとつ。おやすみのキスだ。
「おやすみ、くん」
 おはようのキス、行ってきますと行ってらっしゃいのキス、ただいまとおかえりりのキス、そしておやすみのキス。どちらかが明確にしようと言い始めたわけではなくいつの間にか習慣づいたもの。全部好きだけれど、一番好きなのはこのおやすみのキス。このキスひとつで一日がとても素敵な一日だったと思える。明日の朝目が覚めたときも隣にくんがいてくれると思える。たったひとつのキスで幸せな気分になれる。わたしはおやすみのキスが、大好き。
「もう”おやすみ”?」
 目をつぶろうとしたそのとき、くんが親指でわたしの唇をなぞりながら小さく呟いた。灯りの消えた部屋の中、怪しい笑みを浮かべるくんの姿がいやに色っぽい。
「……くん」
 その聞き方は少し意地悪だと思う。でも、わたしはそんなくんが。
 わたしは軽く唇を尖らせながら、くんの頬に触れた。
「……まだ、寝ない」
 わたしの答えを聞いて、くんは満足そうに微笑んだ。その表情のまま、ゆっくりゆっくりベッドへと沈み込む。
 今度のキスはさっきとは違う。触れるだけではない、これから始まることを予感させる甘くて深いキス。わたしもくんの背中に腕を回した。離さないよう、強く。
 夜はまだ、長い。