カンパニュラの花言葉
大学生 冬
「授業少し延びたから家に帰るのいつもより遅くなる。先に部屋入ってて」
先ほどくんから届いたチャットを確認し、鞄の中からくんの部屋の鍵を取り出した。扉を開けると部屋の中は真っ暗。モルガナちゃんもいなようだ。くんと一緒か、どこかにお出かけ中だろうか。
このくんの部屋に来るのももう何度目だろう。春にくんが引っ越して早々に合い鍵を渡されて驚いたけれど、この部屋の鍵を開けるのもすっかり慣れてしまった。
コートとマフラーをハンガーにかけ、エアコンのスイッチを入れる。けれども真冬の今、エアコンが部屋全体に効くまでの時間がもどかしい。
「う、寒……」
部屋が暖まるまでコートを着ていようかと思ったけれど、少し前まで雨が降っていたからコートの裾や肩がまだ少し濡れている。部屋の中で濡れたコートを着るわけにはいかない。ほかに防寒になる上着も目に入る範囲にはないので、くんのベッドの上の毛布にくるまることにした。ふわふわの毛布は肌触りも防寒も完璧だ。ぬくぬくと体全体が温まっていく。それに、この掛け布団はくんのにおいがする。毛布にくるまるだけでくんに包まれているような安心感、なんて思ったり。
そろそろエアコンも効いてきた。部屋全体も暖まって心地いい。穏やかな空気になんだか、眠く……。
「……んん」
「起きた?」
「あ、れ」
鼻腔を刺激するコーヒーのにおいで目を覚ます。
コーヒー、ということはくんが帰ってきたのだ。慌てて起き上がるとやはり隣にくんが座っている。
「ご、ごめん寝ちゃった」
「気持ちよさそうだった」
「うう……」
「そんなに寒かった? 毛布くるまって」
「なかなかエアコン効かなくて……あれっ」
気づくとやたらとお腹のあたりが暖かく、ずっしりと重い。毛布をめくるとお腹の上でモルガナちゃんが丸まっていた。
「もしかして温めてくれてた? ありがとうね」
「どういたしまして、だって」
モルガナちゃんは高い声で鳴き、ひょいとベッドの端っこでまた丸まった。エアコンの一番当たる場所、モルガナちゃんの冬場のお気に入りの場所らしい。
「寝不足? ずいぶん寝入ってたけど」
「うーん。昨日結構寝たんだけど……なんか、布団かぶってたらくんのにおいがして安心しちゃって」
温まったことと安心したことが合わさって、どうにもあらがえない眠気が襲ってきた。覚えていないけれど幸せな夢を見たように思う。
「……くさい?」
「ち、違うよ。こう……コーヒーのにおいと、あとなんていうんだろう……安心するにおい」
「そう?」
くんはわたしの肩を抱き寄せると、自分の胸にわたしを飛び込ませる。ふわりと香るのはくんのにおい。
「安心する?」
「うん、とっても。それにちょっとドキドキする」
毛布からではなく直接感じるくんのにおいは心を溶かすように甘い。安心感とときめきが同時に全身に広がっていく。わたしからもくんの背中に手を回した。
「のにおい、するな」
「えっ、くさい!?」
「なんでそうなる」
くすくす笑いながらくんは指でわたしの髪を梳く。そのまま髪の毛にキスをした。
「甘くていいにおい。安心して、ドキドキする」
くんの唇がわたしの唇に触れる。コーヒーのにおいの中に感じる優しくて甘いにおい。くんのこのにおいが、わたしは大好き。
「でも毛布だけじゃなくて、この部屋はくんのにおいがして大好きだよ」
「そう? 自分じゃわかんないな」
「わたしはわかるよ。入った瞬間くんのにおいだーって。自分の部屋みたいに安心しちゃう」
くんのにおいのするくんの部屋。世界で一番好きな場所だ。
「高校のとき……ファミレス行ったときだったかな。くんからコーヒーのにおいするなあって思ったの。懐かしいな」
「ああ、たまに言われたな。コーヒーのにおいするって」
「ルブランに住んでたら染み着いちゃうよね。くんの部屋にコーヒーの豆袋たくさんあったし」
「住んですぐの頃コーヒーの夢見た。コーヒー飲む夢もだけど、コーヒー豆に襲われる夢とか」
「ふふ、そうなの?」
「最初はね。いいにおいなんだけど、寝ても覚めてもコーヒーのにおいがするから。でもずっと住んでるとだんだん慣れてきて、自分がコーヒーのにおいするって言われてもわからなくなる」
そう話すくんの横顔は少し寂しげだ。ルブランで暮らしていたあの日々を懐かしんでいるのだろうか。
「においに慣れちゃうなら、いつかくんのにおいもわからなくなるのかな」
すんと鼻をきかせながらぼんやりと思う。このくんの部屋には何度も来ているし、くんが東京に再び来てからは長い時間を共に過ごしている。あの一年でくんがルブランのにおいに慣れたというのなら、わたしもそろそろくんのにおいに慣れてもおかしくない。
「ちょっと寂しいなあ……」
慣れてしまうとこの部屋に訪れたときやくんに抱きしめられたとき、香るくんのにおいに胸を高鳴らせることもなくなるのだろうか。それは少し寂しいと思う。
「そう? 俺は嬉しいけど。それだけ一緒にいるってことだから」
「あ……」
「でも慣れはしないと思う。鼻でわかるにおいだけじゃなくて、もっとこう……感覚的っていうかさ」
「あ、わかる!」
くんの言葉に思わず大きな声で頷いた。そう、くんのにおいと言っても鼻で感じるにおいだけではない。ロマンチックな言い回しになるけれど心の奥で感じるにおいというのが一番近いように思う。
「そう。だからきっと、どんなに一緒にいてもわかるよ」
くんはわたしの髪に顔を寄せる。わたしがくんのにおいを感じるとときめくように、くんもわたしのにおいで胸を高鳴らせていると思うと心の奥がくすぐったくなる。今この瞬間もくんはドキドキして、安心しているのかな。
「、夕飯ルブランに行かない? 話してたら行きたくなってきた」
「あ、行きたい!」
くんの言葉にすぐに同意した。わたしもルブランの話題が出てあのカレーの味が懐かしくなったところだ。と言っても、大学に入ってからもちょくちょくルブランに顔を出しているのだけれど。
ハンガーに掛けたコートに袖を通して、マフラーを巻いた。二年前のクリスマスイブ、くんがプレゼントしてくれたマフラーだ。そしてくんが巻いているのも同じ日にわたしが贈ったマフラーだ。
くんは巻いたわたしのマフラーを少し直すと、満足そうな微笑みを見せる。きっとわたしもくんと同じ顔をしているだろう。
「モルガナも行くぞ」
モルガナちゃんはくんの鞄に飛び込んで、鞄の口から顔を出した。その姿は何度見ても可愛らしい。
「じゃあ行こうか」
「うん」
くんと手を繋ぎ、歩き出す。今日は寒いから身を寄せ合って。繋いだ手から、触れた体からくんの体温が伝わってくる。
幸せな冬の夜の、はじまりだ。