カンパニュラの花言葉 二月
二月
くんが少年院に送られて一ヶ月がたつ。事態はまだ好転したとは言えない状況だ。あと一歩、状況を打破できるなにかがほしい。
「やっぱり事件のときに絡まれてたっていう女性を探すのが一番確実よね」
新島先輩は事件の状況を整理したファイルを見ながら、急くように指で机をとんとんと叩く。
「前にも聞いたけど、さんもから女の人の特徴とかは聞いていないのよね?」
「はい。あまり覚えていないって言ってて……」
「もうずっと前のことだものね。突然の逮捕のショックもあっただろうし。でもその人を見つけられればきっと正しい証言してくれるはずよ。獅童も捕まったんだから」
顎に手を当てそう話す新島先輩は、学校の演説や総会のときに見た表情よりずっと険しい。
「やっぱりまた現場に行くべきかしら……捜査は足でっていうし」
「お姉さんからのアドバイスですか?」
新島先輩のお姉さんは検事さんだ。今回のくんのことについても協力してくれているのでわたしも会ったことがある。
「いいえ、父の言葉よ。警察官だったから」
「そうなんですか。正義感が強いのはお父さん譲りなんですね」
「そんな。正義感って言ったらの方がよっぽどよ」
あなたのほうが詳しいでしょう。そう言って新島先輩は微笑んだ。先ほどまでの張り詰めた表情と打って変わって先輩の優しさが伝わってくる。
わたしはくんについて詳しい、のかな。どうなのだろう。怪盗団の人たちの方が、よっぽど。
「あ、杏から」
俯いていると新島先輩のスマホが震えた。高巻さんからチャットが来たようだ。
「えっ!?」
新島先輩はスマホを確認すると、口を手で押さえて立ち上がった。珍しく慌てた様子に、わたしのほうが驚いてしまった。
「どうしたんですか?」
「これ見て!」
新島先輩に見せられた高巻さんからのチャットにはこう書いてあった。
「志帆があの事件の女の人見つけたかもしれないって!」
高巻さんのメッセージに、わたしも新島先輩と同じぐらい大きな声をあげてしまった。
「本当ですか!?」
「ええ。明日話を聞きに行ってくれるみたいよ。見つけた人が本人なら、きっと……」
新島先輩は興奮が抑えきれない様子でスマホを操作する。わたしのほうも気づけば手が震えていた。
「結果が出たらまた連絡してくれるって。杏からもあなたに連絡が行くと思うから気にしてて」
「はい」
本当に、本当に見つかったのだろうか。突然の出来事に心臓が大きく鼓動を打っている。
どうか、どうか本人でありますように。そして、くんの冤罪を晴らしてくれますように。心の中で強く願った。
次の日、高巻さんからチャットが届いた。鈴井さんが見つけた人は事件の張本人で、くんの無実を証言してくれると言っているらしい。その文章を読んだとき、床にへたりこんでしまった。やっと、やっとだ。やっとくんの無実を証明できる。一ヶ月……いや、一年がたってしまったけれど、ようやく。
それからはとんとん拍子に話が進んだ。例の事件のくんの無実が無事証明され、少年院から出所することが決まった。あまりに早い展開になにか裏があるのではと疑ってしまうほどだったけれど、すぐに出所が決まった理由は新島先輩のお姉さんの検事さんが尽力してくれたことが大きいようだ。そして、保護司である佐倉さんの証言や川上先生が主導で出した学校からの抗議書、三島くんが集めた署名も一因だったという。わたしもくんを助けるのに少しは役に立てたようだ。それが嬉しかった。
そしてくんの出所の日にちが決まった。二月十三日月曜日だ。カレンダーのその日に印をつけ、終わった日にはバツ印を書き込んで行く。出所日は佐倉さんが車で迎えに行き、怪盗団のメンバーはルブランで出迎える予定だという。
「……邪魔しない方が、いいかな」
この一年、苦楽を共にしたであろう怪盗団。積もる話もきっとあるだろう。わたしはみんながいなくなった後に行った方がいいかもしれない。
……いや。本音を言うとくんに会うのが怖いのだ。イブの日にあの言葉を言ってしまったこと、今もまだ気が差している。
あの件についてずっとくんに謝りたいと思っていた。けれど謝りたいという感情自体、自分勝手なことなのかもしれない。
わたしは、くんに会いたい。会ってまた他愛もないおしゃべりをしたい。けれどくんは? あんなことを言ってあんな態度を取ったわたしに会いたいと思っているかなんてわからない。
思い悩みながら、クリスマスにくんからもらったマフラーを手に取った。あの日から毎日つけている。
くんの出所日は、もう明日だ。
二月十三日、月曜日。高巻さんは学校に来ていない。坂本くんも同じらしい。きっとくんが出所してすぐに出迎えるためだろう。
わたしは、どうするべきだろう。くんに会いに行きたい。けれど、会うのが怖い。放課後になっても考えはまとまらない。自席でただ机の上を眺めるだけの時間をどれだけ過ごしただろう。
考え込んでいると、ふと窓から眩しい日の光が射し込んでくる。窓の外を見れば鮮やかな赤い夕陽が佇んでいる。ハワイで見たような赤い夕焼けだ。
なぜかはわからないけれど、真っ赤な夕陽はくんを思わせた。おそるおそるスマホを取り出しクリスマスの朝にくんからもらったチャットを開いた。丁寧な文章で綴られたメッセージは優しさがにじみ出るよう。あんなことを言った後に、くんはこのメッセージを送ってくれた。
くんに、会いに行こう。大きく息を吸って吐いて、そしてもう一度深呼吸をする。わたしは心を決めて立ち上がった。
人身事故があったようで四軒茶屋に着く頃にはすっかり陽は沈みきっていた。駅から走ってルブランへと急ぐ。ガラス張りの扉から見える店内は明るいけれど人影は見当たらない。くんは上だろうか。それともくんは怪盗団のみんなとどこかに行っていて、佐倉さんが店内にいるのかもしれない。
おそるおそるドアノブに触れる。開くかわからないけれど力をこめた、そのとき。
「やっぱり、だ」
「あ……」
わたしが開けるより早く、内側から扉が開いた。そこにいたのはくんだ。
ずっとずっと会いたかったくん。一ヶ月半ぶりに姿を見る。たった一ヶ月半、されど先の見えないあの時間は驚くほどに長かった。
わたしを出迎えてくれたくんの表情は、以前と変わらない。優しい目でわたしを見ている。
「……っ」
くんの顔を見た瞬間、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。拭っても拭っても溢れてしまって止まらない。
「」
ふっと、くんの手がわたしの背に触れる。
「中入って。寒いだろ」
くんに促されルブランの中へと入っていく。店内には誰もいない。やはり怪盗団の人たちはすでに解散したようだ。
「、サプライズ」
「え?」
くんは「少し待ってて」と言うと、一度二階へ上がる。再び店内に降りてきたくんを見て、わたしは目を丸くした。
「モルガナちゃん!?」
くんの腕の中にはモルガナちゃんがいる。黒い毛の中にハチワレのような形で白い模様が入った、靴下の猫の姿。間違いない。モルガナちゃんだ。
「消えたのは異世界のモルガナだけで、こっちのモルガナは残ってたんだって。さっき俺たちのところに帰ってきた」
「うそ……」
本当にモルガナちゃん? 未だ信じられずに震える手で猫の姿をした子の額に触れると、するりとわたしのほうへと飛び込んできた。
「ナア~」
「心配かけて悪かったな、ってさ」
「モルガナちゃん……」
本当に、本当にこの子はモルガナちゃんなんだ。もう二度と会えないと思っていた。今日はなんて日だろう。くんの冤罪が晴れて、その上モルガナちゃんも帰ってくるなんて。
「よかった……」
せっかく落ち着いてきたのに、また涙が溢れてしまう。目の前にくんがいて、腕の中にはモルガナちゃんがいる。幸せな事実に、心にほんのり花が咲く。
モルガナちゃんの温かな体温を感じていると、腕の中でモルガナちゃんが鳴き始める。するりとわたしの腕の中を抜けるとルブランの扉の方へと歩き始めた。
「ごゆっくり、ってさ」
「あっ、待ってモルガナちゃん、いいの」
歩くモルガナちゃんを慌てて抱き上げた。心なしかモルガナちゃんは訝しげな表情をしているように見える。
「今日はね、顔見に来ただけだから」
「そうなの?」
「うん。くん出てきたばっかりで疲れてるでしょ? 今日は早めに休んで」
「まだ明日は学校行かないし大丈夫だよ」
「ううん。わたしが気にするから、お願い」
くんの顔には疲れの色が滲んでいる。少年院はそれほど劣悪な環境ではないらしいけれど、それでも落ち着くような場所ではなかっただろう。久しぶりに帰ってきた自分の部屋でゆっくりしてほしい。
「……帰らないでほしいって言っても?」
「うん。ごめんね」
わたしだって本当はもっとくんと一緒にいたい。せっかく会えたのだからもっと長い時間を過ごしていたい。けれどくんに無理だけはさせたくない。
くんはわたしの目をじっと見つめる。わたしの思いが伝わったのか、彼は「……わかった」と了承してくれた。
「その代わり……明日ゆっくり話したいから、学校終わったら来てもいい?」
「もちろん。待ってる」
くんは微笑んでわたしの頬に触れる。冷たい指先が火照った頬には気持ちいい。
再会したときのくんの表情に、今のくんの言葉に、優しい指の感触に胸を撫で下ろす。あんなことを言ってしまったけれど、嫌われてはいないみたいだ。
少しくすぐったい感触に思わず目をつぶると、唇に柔らかい感触が走る。キスされた。ぱっと目を開くとくんの色気をはらんだ顔が目の前にある。
「あ、くんあの」
「ん?」
「も、モルガナちゃんが……」
わたしの腕の中でモルガナちゃんは丸まって顔を隠している。見たくないと言わんばかりの格好だ。
「あと一回だけ」
くんはモルガナちゃんの顔を手のひらで覆うと、「目、瞑って」と囁いた。甘い誘いに勝てなかったわたしは、もう一度目を瞑る。
「……また、明日」
「うん。明日、必ず来るから」
「待ってる」
くんに別れを告げて、駅への道を歩き出した。
今日、くんに会えてよかった。明日は時間がたくさんある。あのときのことをきちんと謝ろう。そして、自分の気持ちをすべて伝えよう。
そして迎えたバレンタインデー。学校も街中も色めき立つこの日、わたしは授業が終わるとすぐに教室を出た。電車に乗っている間も急いてしまって仕方ない。一度渋谷に寄って買い物をしていたら四軒茶屋に着いた頃にはもう日が沈んでいた。
四軒茶屋の駅を出て空を見上げると綺麗な星空だ。くんが少年院に入ってからはゆっくり空を眺めることもなかった。オリオン座のみっつ並んだ星が輝いている。
ルブランの前に着いて、ひとつふたつ深呼吸をする。小さく「よし」と声を出して扉を開いた。
「こんばんは」
「いらっしゃい」
くんは洗い物の手を止めてこちらを向いた。くんの緑のエプロン姿も懐かしい。
その様子を見た佐倉さんは、「へえ」と言ってニヤリと笑うとエプロンを外しカウンターから出てきた。
「ちゃんと戸締まりしておけよ」
「はい」
「えっ、あ」
佐倉さんはひらりと手を振りお店から出て行ってしまう。モルガナちゃんもその後を追いかけるようにして去って行ってしまった。
「行っちゃった……。ふたりにもチョコあったんだけど」
「そうなの?」
「うん。これが佐倉さんで、こっちがモルガナちゃん」
佐倉さんには普通のチョコレートだけれど、モルガナちゃんはチョコレートが食べられるかわからなかったから、ちょっと高級な猫缶だ。モルガナちゃんは猫ではないけれど普段は猫缶を食べているらしいので、猫缶でも怒らせはしないだろう。
「渡しておくよ」
「ありがとう。で、こっちが……」
紙袋の中から、別に包装された包みをひとつ取り出した。くんのための特別なチョコレートだ。
「くんの、チョコレートです」
「ありがとう。コーヒー淹れるよ。座ってて」
「うん」
コートとマフラーを脱いで真ん中のテーブル席に座った。目の前に置かれたチョコレートを見ていると、あれだけ悩んで買ったものなのに今更ながら不安が募っていく。手作りの方がよかっただろうかとか、ちょっと甘すぎるものではないかとか。
「苦い顔してどうしたの」
くんはわたしの前にコーヒーカップを置く。わたしは「ありがとう」とお礼を言いながら頬に触れた。
「チョコ、口に合うかなって」
「おいしそうだよ」
「買ったやつだからおいしいとは思うけど、好みに合うか不安で」
手作りも選択肢にはあったけれど何しろくんの出所が決まったのはついこの間だ。練習する暇もなかったので確実なおいしさを取ったのだけれど、今更ながらに手作りの方がよかったかなと言う不安も襲ってくる。
「いただきます」
くんは箱の真ん中にあったチョコレートを一粒手に取り口に運ぶ。緊張しながらその様子を見守っていると、くんは「おいしいよ」と言ってくれた。
「よかった。結構甘いやつみたいだから、もしかしたら苦手かなって」
「コーヒーあるしこのぐらいがいいよ」
そう言いながら、くんはもうひとつチョコを手に取りまた口に含む。その様子からして先ほどの言葉は社交辞令ではないようだ。
ほっと内心安堵しながら、くんが淹れてくれたカフェオレに口をつけた。ミルクと砂糖がたっぷり入った甘い仕上がり。ずっと飲みたかったくんのコーヒーだ。
「おいしい」
「よかった。久しぶりだから実はちょっと心配だった」
「おいしいよ、とっても」
カップを置くと、会話が途切れた。ほんの少しの沈黙の後、わたしは膝の上で指をいじりながら口を開いた。
「くん、ごめんね」
ずっと言わなくてはと思っていたこと。ずっとずっと心の中でひっかかっていたこと。言うのは今しかない。
「なんのこと?」
「……イブの日に、言ったこと」
「イブって」
「……話してくれないのを、わたしが怪盗団の仲間じゃないからって聞いたこと」
本当に最低だったと思っている。その言葉も、その後の態度も。一ヶ月半もたってしまったけれど、ようやく言えた。
「ごめんね」
「そんなの別に謝るようなことじゃない。むしろそんなふうに思わせてたんだってあのとき気づいた。俺の方こそごめん」
「……ううん。くんのせいじゃないよ。本当に、わたしが勝手に……」
唇を震わせながら、どうにか言葉を紡いでいく。ごめんねという言葉のほかに、ずっと言いたくて言えなかったことを形にしていく。
「わたし、ずっとうらやましかったの。くんたちには特別な力があって、怪盗団の人たちはくんに頼られて……わたしは何もできなくて」
くんは辿々しいわたしの言葉に、真っ直ぐ耳を傾けてくれている。その目に応えるように、わたしも思いの丈をぶつけていく。
「怪盗団のみんなには特別な絆があるんだろうなあって、すごくうらやましかった。わたしがもし怪盗団だったら、って思ったことも少しだけある」
「うん」
「本当にね、ただの自分勝手な嫉妬なの。いくら思い出してもくんは怪盗団の仲間じゃないからってわたしを蔑ろにすることなんてなかったのに。それなのにあんな態度とってごめんなさい」
改めて口に出すと本当に身勝手な話だ。付き合ってから、いや出会ってからずっとくんはいつもわたしを大切にしてくれていた。十一月のあの日まで怪盗団であることを話さなかったのはわたしを巻き込まないためでもあったし、出頭の件に関しては怪盗団の人たちにも言っていなかったと聞いた。それ以外だって、ずっとずっとくんはわたしを大事にしてくれた。
「……俺からも少し話していい?」
くんは机の上に置いた指を絡めながら、小さいけれど芯の通った声で言葉を継ぐ。
「は自分勝手って言うけど、俺はそうは思わない。妬くのって仕方ないことだと思うし、俺も言っても混乱させるだけだからっていろんなことに話さなかったから。秘密にして不安にさせて、そんなこと思わせて悪かったって思ってる。俺の方こそごめん」
「そんなこと……」
「出頭して少年院に入ったことは後悔してない。でもにちゃんと話さなかったことは、ずっと引っかかってた。あんなこと言わせて、ろくに話もしないままいなくなって、謝らないといけないって思ってた」
くんは重ねて「ごめん」と言う。なんだか鏡を見ているようだ。あのイブの最後の言葉と態度をずっと後悔していたのは、くんも同じだった。
「そ、っか」
「うん」
「じゃあ、最後に一回だけ」
「俺も」
背筋をピンと立て、手を膝の上に。真っ直ぐにくんを見る。くんも、わたしを見ている。
「ごめんね」
「俺もごめん」
お互いにそう言い合って、じっと目を見た。しばらくの沈黙の後、どちらからともなく笑みがこぼれた。
「お互い様ってことで」
「うん」
長く引っかかっていた胸のつかえがようやく取れた。くんが淹れてくれたカフェオレを飲めばすっと体に入っていく。
「……本当はね、くんが出てきたとき振られるかもしれないって思ってた」
「そんなこと思ってたの?」
「うん。嫌われたかも、呆れられたかもって思って」
「そんなわけないのに」
くんはコーヒーを飲んでふっと笑みを浮かべた。
「でも、俺も出てきたときがなんて言うか不安だった。なにも言わないでいなくなったも同然だし、冬休みも会おうって約束も破ったし。最悪振られるかなって。実際昨日もなかなかルブランに来なかったし」
「それは……呆れられてたらどうしようって言うのと、あと、怪盗団のみんなでいるのに邪魔しちゃ悪いかなって思って、なかなか足が向かなくて」
「でも、夜に来たとき一目見て安心した。俺があげたマフラーしててくれたから」
くんはわたしの隣に置かれたチェック柄のマフラーを見やる。このマフラーを、わたしはあの日から外に出るときずっとつけている。
「嫌われてないんだなってすぐにわかった」
「ずっと、毎日つけてるよ」
くんに会えない間、このマフラーが心の支えだった。これをつけていると、寂しい気持ちが少し和らぐような気がした。
「うん。つけてくれてるの見て、すごく嬉しかった。俺もこれから毎日つけるよ。春がくるまで」
春。くんのその言葉にふと心にずんと重いものがのしかかる。
「?」
「……そっち、行っていい?」
くんが頷いたのを見て、わたしはくんの隣に座った。肩と肩が触れ合うほど近くに。
「冬休み行こうねって話してたところ、わたしまだ一個も行ってないの」
井の頭公園も池袋のプラネタリウムも、初詣すら行っていない。くんが出るときまでずっと待っていた。
「だから、これから一緒に行こうね。他にもいろんなところに行こう」
「うん」
「……春が、来るまでに」
自分で言った言葉に、じわりと涙が浮かんだ。
もうすぐ春が来る。春が来たらくんは地元に帰ってしまう。せっかくまたこうして会えたのに、お別れの日はもう近づいている。
「」
「あと一ヶ月ちょっとしか、ないけど」
「……うん」
「いっぱい、いろんなとこ行こうね。いっぱい、たくさん、一緒にいたいから」
「俺も」
くんはわたしの涙を拭うと、触れるだけのキスをする。チョコレートの甘い味の中にコーヒーのにおいがふわりと香る。いつもくんが纏っているにおいだ。
「俺も一緒にいたい」
「うん……」
くんの言葉が心の奥へ沁みていく。凛とした声は心からの言葉と思わせるには十分だった。
「……ひとつだけ、約束してほしいの」
「うん」
「向こうに行っても、わたしのこと忘れないでね」
くんが帰ってしまったらしばらくは会えない日々が続くだろう。慌ただしい日々の中で、くんの記憶からわたしが消えてしまうことだけが怖い。
「それは約束じゃない。忘れるわけないから」
くんは再びわたしの唇にキスを落とす。一度だけではない。二度、三度、何度も何度も繰り返し。
「は離れたら、俺のこと忘れる?」
「……ううん。絶対忘れない。忘れられない。だって、こんなに好きだから」
くんに体を寄せた。温かな体温と一緒に、ドクンドクンと心音が伝わってくる。音が溶け合って、どちらの心臓の音かわからなくなっていく。
「俺も同じ。こんなに好きなのこと、忘れようとしたって忘れるはずがない」
優しい言葉が、穏やかに胸の内に広がっていく。わたしがくんを好きなように、くんもわたしを好きだと言ってくれる。改めてそれがこんなにも幸せなことだと実感する。
「……、くん」
口からふと、こぼれた。くん。くん。、くん。そう呼びたいと思った。
少し驚いた表情のくんの唇にキスをした。わたしからキスをするのは、もしかしたら初めてかもしれない。いつもくんからか、どちらからともなくだったから。今は恥ずかしい気持ちなんて、どこかに消えてなくなった。
名前を呼びたいと思った。触れたいと思った。好きだという気持ちが、心の奥から溢れてしまいそう。
「」
くんがわたしの名前を呼ぶ。優しい声だ。ひとつひとつの音を大切にするような甘い声は、わたしの心を麻薬のように溶かしていく。
「好きだよ」
「わたしも」
わたしたちは、もう何度目かわからないキスをした。唇を離して、もう一度。
お互いの体温が混じり合う。長い夜が、更けていく。