カンパニュラの花言葉 三月


三月

 春のにおいが近づいてきた今日この頃。わたしとくんはわたしの地元の神社に来ていた。
「初詣って言っていいのかな」
 くんもわたしも、今年になってからまだ一度もお参りに来ていない。これが初詣にあたるのかもしれないけれど、三月になってから初詣というのは少々抵抗がある。
「言ったら怒られそうだ」
「じゃあ、普通のお参りってことで」
 くんと手水舎で手と口を洗い境内へ向かう。それなりの大きさの神社だけれど、ただの日曜日なので人はあまりおらず静かで穏やかな雰囲気だ。
 今回の願いはひとつ。ずっとずっとこれから先も、くんと同じ道を歩いていけますように。一度離れることにはなるけれど心はずっと寄り添っていたい。これからずっと。
「ね、お守り買わない?」
「お守りか。なにがあるんだっけ」
 社務所で売られているお守りの種類は様々だ。その中でわたしは赤いものをひとつ手に取った。
「学業成就?」
「もうすぐ受験生だし、ふたりとも大学受からないと」
 くんは来年こちらの大学を受けるつもりだと言う。受かればまた近い距離で一緒にいられることになる。わたしは地元がここだからもし落ちてもここにはいるけれど、受かってすっきりとした気持ちで同じ時間を過ごしたい。
「でもくん、前の期末学年トップだったもんね。大丈夫そう」
 本当に不思議なのだけれど、十一月の終わりから学校に来ていなかったにも関わらずくんは復学早々のテストで一位を取っていた。くん曰く「怪盗団の役に立つこともあるから勉強もちゃんとしていた」とのことだけれど、それにしたってトップはすごい。
も大丈夫だよ」
「そうだといいなあ」
 学業成就のお守りをふたつ買って、神社に備え付けられたベンチへ座った。まだ肌寒い日が続くけれど、風が少し暖かくなってきた。春はもうすぐだ。
「一年か……」
 くんがわたしの手を握ってぽつりと呟いた。
 一年間離れ離れだけれど、きっと大丈夫。くんが春になったら帰ってしまうのは元々わかっていたし、それにくんの無罪が万が一証明できなかった場合、くんが一年少年院に入っていても待っているつもりだった。少年院と違って少し距離が離れるだけ。電話もできるしその気になれば会いにだって行ける。
「とりあえずゴールデンウィークはこっち来るよ。あと夏休みも。佐倉さんがルブランの二階はそのままにしておくからいつでも来いって言ってくれてる」
「うん」
「ンニャ」
 くんの鞄の中からモルガナちゃんが顔を出す。くん曰く「ワガハイも来るからな」と言っているらしい。
「モルガナちゃんのことも待ってるね」
 指の背でモルガナちゃんの額を撫でる。ふわふわとした毛がくすぐったい。
 モルガナちゃんももちろんくんと共に行く。寂しいけれどしばらくの間お別れだ。
「にゃ」
 鳴きながらモルガナちゃんは鞄から抜け出しわたしの膝の上に座った。甘えるような声が可愛らしい。
「ふふ」
 モルガナちゃんの喉のあたりを撫でると、モルガナちゃんは気持ちよさそうに膝の上で溶けていく。くんだけでなく、モルガナちゃんとこうやって過ごせるのもあと僅か。
 デートのときいつもモルガナちゃんは気を遣っていなくなろうとしてしまう。けれど残り僅かなモルガナちゃんとの時間を過ごしたくて、こうやってモルガナちゃんを連れてきて問題ないような場所では来てもらうことにしている。
「今日はいっぱい撫でさせてくれるね」
「少し早いけどホワイトデーのお返しだって」
 即座にくんがモルガナちゃんの言葉を教えてくれる。確かにもうすぐホワイトデーだ。バレンタインにあげた猫缶のお礼ということなのだろう。
「そんなの気にしないでいいのに。でも嬉しいよ、ありがとう」
「にゃ」
「猫缶、おいしかったってさ」
「よかった」
 モルガナちゃんは完全に丸まって寝てしまいそうな格好になる。まだお昼前だし、しばらくここでのんびりする予定だから寝てしまっても全然構わないのだけれど。
「ここって夏に来たところ?」
「うん、お祭りやってたところだよ」
「昼間だと雰囲気変わるな」
 確かに夜、特にお祭りのときは少し神秘的な雰囲気だったけれど、昼間の今は荘厳な雰囲気の中に穏やかな優しい時間が流れている。
 くんと一緒に行ったお祭りももう懐かしい。あのとき髪を結ってもらったときの胸の高鳴りを、今でもはっきりと覚えている。
「お祭り、もう半年前かあ……」
「あのときの浴衣、すごく可愛かった」
 あまりにストレートな言葉に、わたしの頬に熱が集まっていく。くんはあまりぺらぺらと喋るほうではないけれど、言葉はいつも真っ直ぐだ。
「あ、ありがとう……。わたしも次はくんの浴衣見てみたいな」
「浴衣か……持ってないな。今年はさすがに受験だし、来年かな」
くん、きっと浴衣似合うよ。あんまり派手なのじゃなくてシンプルなほうがいいかなあ。色も薄いよりは濃い色……ううんどっちも似合いそう」
 くんの浴衣姿なんて想像が膨らむ。鬼が笑いそうだけれどすでに来年が楽しみだ。
の方が俺の浴衣決めるの悩みそうだ」
「悩むに決まってるよ。くんなんでも似合いそうだし」
「そうかな」
「だってくん、かっこいいから」
 くんはかっこいい。大きな眼鏡に隠れがちだけれどとても整った顔で、見ているといつも心臓が大きく早く鼓動を打つ。
 そのくんの顔に小さな微笑みが宿る。ほんの少し目尻が下がって、口角がきゅっと上がったくんの微笑みが、わたしは大好き。
「ありがと」
 くんはわたしの手に自分の手を重ねた。わたしの手はくんの大きな手にすっぽりと収まってしまう。
「次はどこに行こうか」
「暖かくなってきたら井の頭公園のボート乗りたいな。この間は動物園だけだったから」
「そうだね。池袋のプラネタリウムはこの間学校帰りに行ったし」
「あとは……ルブランでゆっくりしたいね」
 くんといろいろなところに行きたい。けれど、どこかに行かずともただ一緒にいられるだけでも十分だ。ルブランのレトロな雰囲気の中、ふたりでする他愛もないおしゃべりは至上の時間だ。
「ルブランなら人目気にせずに済むしね」
 そう言ったくんの顔には、含みを持たせた笑みが浮かんでいる。その笑みに見える言葉の真意に気づいてしまったわたしはじっとしていられず、繋いでいない方の手でモルガナちゃんを撫でた。
「……それは、そうだけど」
 わたしは本当にルブランでのおしゃべりが好きだからルブランで、と言ったはず。けれど、くんが思う通りこういう場所では満足にキスもできないのは、ほんの少しだけ寂しいとも思う。
 手持ちぶさたなわたしを見て、くんは繋いだ手を解いてわたしの肩をそっと抱いた。
「十四日はルブランに来て。そこだけは行き先約束」
 どうして、なんて聞かずともわかる。三月十四日はホワイトデーだ。
「うん、わかった。じゃあ来週の日曜は井の頭公園ね、これも決定」
「了解」
「楽しみにしてるね」
 自分の顔をくんの肩に寄せる。額にくんの髪が当たってくすぐったい。
 くんが地元に帰る日まで、あと二週間。


 ホワイトデー。学校帰り、くんと一緒にルブランへ入ると、佐倉さんが「店閉めるか」なんて冗談めかした口調で言ってくるので慌てて首を横に振った。
「そ、そんな、まだ早い時間ですし」
「いいって。遠慮すんなよ。……っと、その前に。先月はありがとうな。つまんねえもんだがお礼だ」
 そう言って佐倉さんがわたしに渡してきたのは包装された小さな箱だ。先月、ということはホワイトデーのお返しだろう。
「そんなわざわざ……ありがとうございます」
「じゃ、本当に退散するよ。ごゆっくり」
 佐倉さんは手をひらりと振ってルブランから去っていく。モルガナちゃんも四茶駅に着いたところで「散歩」と言っていなくなったし、みんなに気を遣わせてしまったようで申し訳ない。
「着替えてくる。少し待ってて」
 いつものように上でくんが着替えている間に、わたしは真ん中のテーブル席へ座り佐倉さんからのプレゼントを開けた。中に入っていたのは手作りと思われる二粒のトリュフチョコレートだ。家に帰ったら食べよう。そう思いながら箱をしまっているとくんが降りてきた。
「お待たせ」
 私服姿のくんの手の中には小さな紙袋がある。白地にブラウンの文字が入ったおしゃれな袋だ。その袋を持ったまま、くんはわたしの隣に座った。
「これ、早速だけどホワイトデーのお返し」
「ありがとう」
 先月バレンタインのチョコレートを渡したとき、お返しなんて求めていなかった。ただ渡したい、受け取って欲しいという気持ちだけ。けれど実際にこうやってプレゼントをもらうと嬉しい気持ちがこみ上げてくる。
「開けていい?」
「もちろん」
 くんが頷いたのを見て、わたしはそっと紙袋の中から赤の包装紙で包まれた細長い形の箱を取り出した。丁寧に包装紙を解いた後、中に入っていたものに目を丸くした。
に似合うと思って」
 そこにあったのはネックレスだ。トップが天使の羽の形になっている。
「こ、こんなの三倍返しどころじゃないよ」
 センスのいいシンプルでおしゃれなネックレス。わたしが先月贈ったチョコレートなんて、このネックレスに到底見合うものではない。
「別に何倍なんて考えてない。に似合うと思った。渡したいと思ったからそれにした」
「う、うん……でも」
「それに、本当はこんなものじゃ足りない」
 くんはわたしの手からネックレスを取ると、わたしの首の後ろに手を回す。ネックレスをつけようとしてくれているのだろう。抱きしめられるような格好に心臓が跳ねる。
「バレンタインのお返しと、一年間のありがとうの気持ちも込めたから」
 後ろを見ず器用にネックレスをつけてくれたくんは、強い眼差しをわたしに向ける。
「……四月に、噂のことがあってもみんなの前で俺に話しかけてくれて嬉しかった。図書室で聞こえるように噂してる連中を窘めてくれて嬉しかった。十月にいろいろ……本当に、怪盗団のことでいろいろあってうまく前に進めないときに力になってくれて嬉しかった。俺の冤罪のことで動いて、助けてくれて嬉しかった。本当にありがとう」
 この一年を振り返るように話すくんの声は優しくて、わたしの心に直接届くようだ。たくさんの「ありがとう」が、わたしの中に広がっていき、涙となって溢れ出す。
「わたしのほうこそ、ありがとうってたくさん言いたい」
 はらはらとこぼれる涙を拭うこともせず、わたしは掠れた声で必死に言葉を紡いだ。
「四月のあのとき、助けてくれてありがとう。冤罪の、大変な過去を話してくれてありがとう。最初は噂のことでくんのこと避けてたのに、そんなわたしでも優しいと言ってくれて、ありがとう。わたしに、たくさんの勇気をくれてありがとう」
 この一年で、いったいどれだけのものをくんからもらっただろう。勇気も優しさも、すべてくんが教えてくれた。いくらありがとうと伝えても足りないほどに。

 くんはわたしの涙をそっと指で拭うと、両腕をわたしの背に回す。
が好きだよ。こんな小さなネックレスじゃ表せないぐらいに」
「わたしも、わたしもくんが大好き」
「離れてたって、絶対に忘れない。忘れさせない」
 くんの冷たい指が鎖骨の間に触れる。ひやりとした感触に身を縮こまらせると、くんは逃がすまいと言わんばかりに左腕でわたしの腰のあたりを強く掴んだ。
「これをつけている間は、俺のこと思ってて。マフラーは冬の間だけだけど、これは毎日つけていられる」
「……うん」
 それはなんて甘い呪いだろう。元より忘れるつもりなんてなかったというのに、その言葉できっと想いは永遠のものになった。傷跡のように、わたしの胸に深く深く刻まれた。
 絶対に忘れない。ねえ、くん。わたしたち、離れていたって大丈夫だよね。だって、こんなに好きなのだから。







 そして迎えた三月二十日月曜日。くんの帰郷の日だ。わたしは四軒茶屋駅までくんを見送りに来ていた。
 駅のホームで電車を待つ。くんが乗る電車はあと三分で到着だ。
「モルガナちゃんも元気でね」
「ニャア~」
もな、って」
 くんが通訳した言葉に、わたしは口を開ける。今、って言った?
「えっ、うそ……」
「そんなに驚くこと?」
「いや、そこじゃなくて……モルガナちゃん、わたしのことって呼んでるの?」
「そうだけど」
「そ、そうなんだ……!」
 もしかしたらくんがと呼んでいるから通訳するときにくんがと変換したのかもと思ったけれど、本当にモルガナちゃんはわたしのことを「」と呼んでいるんだ。
「ふふ、なんだか嬉しい」
「そう?」
「だって今までどう呼ばれてるか知らなかったから」
「そういえば言ってなかったか」
「……でも、やっぱりちょっと寂しいな」
 わたしはくんを通さないとモルガナちゃんがなんと言っているかわからない。せっかく「」と呼んでもらえても、その声を聞くことはない。異世界も消えてしまったらしいから、わたしがモルガナちゃんの言葉を理解することはこれからもないのだ。
「わたしもモルガナちゃんの言葉、わかるようになりたかったなあ」
「俺が一生通訳するよ」
「……一生?」
「もちろん」
 なんでもないような口調のくんに、わたしは思わず笑みをこぼした。くんっていつもそう。まるで挨拶でもするかのような言い方で、とんでもないことを言ってしまう。
「よろしくね」
「もちろん」
 言葉の途中で、駅員さんの「まもなく電車が……」と言うアナウンスが流れた。もうすぐお別れの時間だ。
「……もう、行っちゃうんだね」
「うん。でもまたすぐに遊びに来るよ」
「わたしもそっち行くね」
「待ってる」
 くんは人目をはばかることなく、ホームの真ん中でわたしを抱き寄せた。普段は恥ずかしいけれど、今日だけはわたしもこうしていたい。
「また、ね」
「うん。また」
くん……」
 最後のときは泣かないと決めていたのに、どうしても抑えきれない涙が一筋流れた。追いかけるようにもうひとつ、今度は大きな涙の粒がこぼれる。
「好きだよ」
「わたしも」
 ホームに電車がやってきて、くんの体が離れていく。わたしは手の甲で乱暴に涙を拭った。
「……もう、行かないと」
「うん。くん、本当に、本当にありがとう」
「俺のほうこそ。また、会いに来るから」
「うん。またね」
 わたしの言葉の途中で電車の扉は閉まってしまう。ゆっくりと発車する電車の中でくんは、穏やかな微笑みをわたしに向けている。
くん、ありがとう……!」
 もうくんには聞こえないであろう言葉を、大きな大きな声で叫んだ。
 この一年間のくんとの思い出が、走馬燈のように流れ出す。六月に噂のことで思わず声をあげてしまったことも、その後に過去の話をしてくれたことも、八月に初めてデートをしたことも、十月にお付き合いを始めたことも、二月にくんが出所して再会できたことも、全部全部大切な思い出だ。
でも、その中でも一番大切なのは、四月に助けてもらったこと。あのときからすべてが始まった。きっとわたしはあのときから、くんに恋をしていた。
 くん、本当に本当に、ありがとう。ずっとずっと、大好きだよ。