カンパニュラの花言葉 六月


六月

 また怪盗団が現れた。予告状の相手は日本画家の斑目一流斎。渋谷で開かれていた個展の会場に鴨志田先生のときとほとんど同じデザインの予告状が貼り出されたのだ。そして数日後には盗作や弟子への虐待を突如告白。テレビでも放送された大号での会見はかなり話題になった。
 秀尽学園は怪盗の話題で持ちきりだ。今度は学外の出来事なのに鴨志田先生のときより加熱している気がする。あのときの怪盗団が再び現れたこと、同じような自白が二回続いたことで信憑性に乏しかった怪盗団の存在が一気に現実味を増したのだ。それを考えればこの過熱ぶりも無理ないだろう。
 渋谷全体が浮ついた空気の中、わたしはひとりセントラル街に買い物に来ていた。ドラッグストアと服屋を見て回った後、ブチ公前でなんの気なしにスマホをいじる。見ているのは最近話題の怪盗お願いチャンネルだ。ここに悪事の内容と相手の名前を書き込むと怪盗団が相手を改心させてくれるとか。実際秀尽のいじめの犯人が突如被害者に謝罪し、いじめをやめたという話も聞いた。
 怪盗団は何者なのだろう。最初は鴨志田先生の被害者が復讐としてやっているのではと思っていたけれど、斑目や怪盗お願いチャンネルの件を考えると、本当に虐げられている誰かのために動く正義のヒーローなのかもしれない。
 掲示板の書き込みを眺めながらそんなことを考えていると、模型電車のあたりが妙に騒がしいことに気づいた。ここからでは雑踏で声は聞こえないけれど、どうやら男女が揉めている。様子から察するに男性が女性をナンパしているようだけれど、女性側の表情は心底迷惑そうだ。
 どうしよう、気づいてしまったからにはなにか声をかけるべきだろうか。でもなんて言えばいいのだろう。
 迷っていると女性側のほうに見知った人影が近づいていく。くんだ。くんが女性に何か声をかけると、ナンパ男はあっさりとその場から離れていった。
 あまりに自然な流れにぽかんと口を開けていると、くんはわたしに気づいたようでこちらへやってきた。
「誰かと待ち合わせ?」
「ううん、買い物してたの。くんこそ、今の女の人知り合い?」
「いや、全然。でも困ってたみたいだから」
 くんのあまりにさらっとした言い方に、また口を開けてしまう。自分の部屋にゴミがあったから拾っておいた、とでも言うかのような、ごく当たり前のことだと言わんばかりの口調だ。いや、確かに当然のことと言えばそうかもしれないけれど、見て見ぬ振りをする人も多いし、今のわたしみたいにやらなくちゃと思ってもなかなか行動に移せない人間もいるだろう。
くんって、困ってる人放っておけないタイプ?」
「そう見える?」
「うん」
 今のこと、そして四月にわたしを助けてくれたときのこと。それだけでそう断言するには十分な出来事と思う。「あんまり自覚ないんだけど」とくんは首を傾げているけれど。
「優しいんだね」
 本人に自覚がないのならなおのことそう思う。くんはきっと、他人によく思われたいとか見返りがほしいとか、そういうことを考えていないのだろう。
 くんのことを知れば知るほど噂の人とは思えない。わたしがこの二ヶ月で知ったくんは今みたいに困っている人を放っておけない優しい人で、クールだけれどちょっとお茶目なところがある人だ。
「あんまり言われると照れるな」
「でも本当に思ってるよ」
「……さんも優しいよね」
「え? わたし?」
「うん」
「どこが……?」
 思い返してもくんに優しいと言われるようなことをした覚えはない。現に今だって、困っている女の人を前に躊躇して動けずにいたのだから。
「秘密」
 くんは唇を弧に描き意地悪な表情を見せる。眼鏡の奥の瞳がやたらと鋭くて、その視線に射抜かれたわたしの心臓は大きく跳ねた。そんな顔をされたらこれ以上聞けるはずもない。
「え、えっと……そうだ、くんは買い物?」
 話題を変えるべくそう聞くと、くんは自身の腕時計に視線を落とした。
「いや、これからファミレスで竜司と会う約束してて。そろそろ時間だ」
 竜司というのは坂本くんのことだろう。同じクラスの高巻さんも加えた三人でよく一緒にいるのを見るし、仲いいんだなあ。
「そっか。じゃあまた学校でね」
「ああ、また。最近渋谷も治安悪いみたいだから気をつけて」
 そう言ってくんはセントラル街のほうへと歩いていく。途中、鞄がもぞりと動いたのが見えたからどうやら中にモルガナちゃんがいるらしい。
 治安が悪い、か。わたしも少し耳にしたことがある。高校生を狙って違法なバイトを持ちかける犯罪グループがいるとかいないとか。詳しいことは知らないし真偽のほどもわからないけれど、今日は早めに家に帰ろう。
 くんが見えなくなるのを確認して、わたしはブチ公像にもたれかかった。ふうと息を吐いて熱いままの頬を落ち着ける。
 先ほどのくんの意地悪な微笑みが、瞼から消えない。




 六月も半分が過ぎ、雨の日が多くなってきた。雨の日は嫌いではないけれど、こうも続くと憂鬱だ。洗濯物は乾かないし、髪は毎朝爆発するし、お気に入りの靴は雨でぐちゃぐちゃ。
 今日も窓の外はしとしとと雨が降っていて、授業中にも関わらずため息が漏れてしまう。歴史の乾先生にちらりと目線でたしなめられて、口を左手で覆った。
 放課後になってもまだ雨のまま。けれど予報では夜には雨は上がると言っていたはず。だったら図書室で時間を潰そうか。そう思い図書室へ向かうと、扉の前にくんがいる。
さん」
くん、勉強しにきたの?」
「いや、本返しに来た」
 くんの手の中にあるのは大怪盗アルセーヌ。昔わたしもよく読んでいた冒険小説だ。
「本好きなの?」
「割とね。渋谷の本屋も行くんだけど、図書室も面白くていいな」
「へえ……今度おすすめの本教えてほしいな」
「いいよ。そういうさんは勉強?」
「うん、雨あがるまで課題やってようかなって」
「なるほど、確かにいいかも。俺もそうしようかな」
「じゃあ一緒にやる? って言っても私語禁止だから教え合ったりできないけど」
「わからないことあったら筆談で」
「ふふ、そうだね」
 言いながらわたしは図書室のドアを開けた。自習コーナーはテスト前でもないし空いている。一番奥の席に座ると、さっさと本の返却を済ませたくんが隣に座った。
 さて、今日出ている課題は数学だ。明日までと言うわけではないけれど、早めに済ませて悪いことはないしできれば今日中に終わらせたい。気合いを入れて問題集の該当のページを開いてシャーペンを取った、そのとき。
「……あいつ、転入生だろ」
「傷害事件起こしたってやつだろ? なんで図書室なんか来るんだよ……」
 ひそひそとした、そんな言葉が耳に入ってきた。考えなくてもわかる。全部くんのことだ。
「真面目ぶってどうするつもり?」「ナイフ持ってるんでしょ?」「目が合ったら殴られるって」
 聞きたくなくても聞こえてくる言葉たち。最近は怪盗団の話で持ちきりだったから随分久し振りに聞いたような気がする。自分に向けられた言葉でもないのに、ちくちくと全身に言葉が刺さる。
 全部全部、わたしの知ってるくんとほど遠い言葉ばかりだ。くんはナイフなんか持ってないし、目が合ったって殴ってなんか来ない。それどころか困っている人を放っておけない優しい人だ。少なくとも、わたしの知っているくんはそんな人。
 ぎゅっと、シャーペンの持つ手に力がこもる。こんなのおかしい。くんのこと大して知りもしない人たちが、勝手な噂でくんを中傷するなんて。
 ちらりと隣を見るけれど、くんは涼しい表情で問題集に向き合っている。この声が聞こえていないはずがないのに。
「早く出ていってくれないかな、犯罪者」
 その言葉が聞こえてきたとき、わたしの中の何かが切れる。両手で机を叩きイスを乱暴に引いて立ち上がった。ガタンと大きな音を立ててイスが後ろに倒れた。みなその音に驚いたのか、図書室は静まりかえる。
「……図書室ではお静かに」
 カウンターの図書委員が冷たい声でそう言った。なんでさっき、それを言ってくれなかったの。くんの話をしている人たちには、言ってくれなかったの。
 ぎゅっと唇を結んだ。じわりと舌に血が滲む。震える唇を、必死にこじ開けた。
「そうですよね! 図書室では静かにしなきゃいけないから、根も葉もない人の最低な噂話なんかしてちゃいけませんよね!」
 言った。言ってしまった。自分でも想像以上に大きな声で言ってしまった。
 図書室にいる全員が、今わたしを見ている。ぽかんと口を開けたり、あからさまに引いた表情だったり様々だ。
「……座ってください」
 図書委員の少し揺れた声に従い、わたしはイスを直して席に座る。周囲の生徒たちも動揺した面もちでそれぞれ本やノートに視線を戻し始める。もう噂話をする人たちはいない。
 あんなこと言って、よかったのかな。今更ながらに不安が心をよぎる。
 今噂をする人たちはいなくなったのだから、きっとよかった。それはきっと間違いない。でも肝心のくんはどう思っているのだろう。下手に注目を集められて迷惑と思われたかもしれない。
 でも、どうしても言わずにはいられなかった。くんが悪く言われることにどうしても耐えられなかった。だっておかしいと思ったから。四月のあのときわたしを助けてくれたくんへの暴言を放っておいたら、きっとずっと後悔すると思った。
 シャーペンも握らずに俯いていると、机にルーズリーフの切れ端が置かれた。くんからだ。そこに書かれた五文字に、わたしの視界は歪んでしまった。
「ありがとう」
 丁寧に書かれたその文字が、ぎゅっと心に沁み入っていく。
 よかった。言ってよかったんだ。わたしのしたことは、間違ってはいなかった。
 ルーズリーフをぎゅっと握っていると、くんからもう一枚メモが渡された。
「課題終わった後時間ある? 帰り付き合って欲しい」
 疑問系のその言葉に、わたしはすぐに「大丈夫」と書いて答えた。
「三十分あれば課題終わる?」
「うん」
「じゃあ、終わったら」
 そのメモをもらったところでようやくくんの顔を見た。ずっと怖くて見られなかったから。
 くんはわたしと目が合うと、優しい微笑みを見せてくれた。

 それから三十分、周りの視線がわたしたちに向いているのはわかっていたけれど、あまり気にならなかった。早々に課題を終わらせわたしたちは一緒に図書室を出た。
さん、カレー好き?」
 図書室から出てくんが開口一番そんなことを聞いてきた。
「え? 好きだけど……」
 まさかそんなことを聞かれるとは思っていなかったわたしは、ぽかんとしつつ頷く。
「よかった」
 言いながらくんはどんどんと歩いていく。蒼山一丁目駅から銀坐線に乗って渋谷で降りる。「どこ行くの?」と聞いたら「おすすめの喫茶店」と言われた。
「おいしいカレーがあるところ。今日のお礼にご馳走するよ」
「え……そんな」
「いいから」
 そんなのいいのにと言おうとしたら、くんに押されてしまった。ここはお言葉に甘えることにしよう。
 くんのおすすめの喫茶店、どんなお店なのだろう。

 連れられてやってきたのは四軒茶屋から歩いてすぐの、少し古風な喫茶店。駅前にあるようなおしゃれなチェーン店ではなく雰囲気のある純喫茶だ。
「ルブラン……?」
「うん、そう」
 くんがドアを開けるとからんからんと乾いたベルの音が静かな空気に響く。中はあまり広くなく、テーブルが三つにカウンター席がほんの少しだけ。カウンターの中には細身の中年の男性が立っている。おそらくこの喫茶店のマスターだろう。
「よう、おかえり」
 マスターがくんを見て放った一言に、わたしは目を見開いた。おかえり!?
「え、ここくんのおうち!?」
 おすすめの喫茶店と言うからてっきりくんお気に入りのお店かと思ったら、まさかのくんの家らしい。こんな形で訪問することになるなんて。
「家って言うか……まあ、家か」
「なんだ、友達連れてきたのか」
「あ、は、はい! こんにちは……あれ、こんばんは? あの、えっと、お世話になってます」
 お家の人に会うなんて思っていなかったので挨拶なんて全然考えていない。いや、普通に挨拶すればいいのはわかっているけれど、慌ててしまってうまく言葉が出てこない。
「別にこいつの親じゃねえんだ。そんな固くならなくていい」
 マスターの言葉に、「えっ」と声を上げてしまった。ここがくんの家だというので、このマスターがくんのお父さんかと思っていたのだけれど。
「……そのあたりの話も後でするから、とりあえず座って。着替えてくる」
 くんはマスターに「カレーください、お金は俺が払うんで」と言って階段を上がって行ってしまった。
 残されたわたしは一番奥のテーブル席へ腰掛けた。まだちょっと頭が混乱してる。図書室であんなことを言ってしまって? 喫茶店に連れてきてもらったと思っていたらここはくんの家で? でもそこにいる男性はくんのお父さんではなくて?
「あいつの友達かい」
 マスターはお冷やをテーブルに置きながら、わたしにそう問いかけた。
「は、はい。クラスメイトで……」
「彼女じゃないの?」
「えっ!? ち、違います!」
 まさかの問いに慌てて否定すると、マスターは残念そうに「なんだ」と息を吐いた。
「さっきも言ったが俺はあいつの親ってわけでもねえ。が、まあ保護者みたいなもんだからな。仲良くしてやってくれ」
「はい……」
 親ではないけれど保護者、ということは複雑な事情でもあるのだろうか。くんが秀尽に転入してきたことや例の噂と関係あるのかもしれない。あれこれ考えそうになったけれど、先ほど「後で話すから」とくんが言ってくれた。下手に考えるより彼の言葉を待った方がいいだろう。
「ごめん、お待たせ」
 トントントンと軽やかな足音とともにくんが二階から下りてくる。白いシャツに黒いインナー、制服とは少し違った装いだ。
「さっきはありがとう」
 くんはわたしの前に座ると、改めてそう言った。
「そんな……なんか、かえって迷惑だったかもしれないし」
「そんなことないよ」
 くんはわたしの言葉を遮るように首を振る。あ、どうしよう。また泣きそうだ。
「お礼に自分の家連れてくるのも変かなって思ったけど、カレー本当においしいから。期待してていいよ」
「うん、ありがとう」
 確かに自分の家に連れてこられるのは予想外だったけれど、こんな素敵な喫茶店に連れてきてもらえて嬉しいと思う。それに夕飯までご馳走してもらえるのだから、それだけで十分だ。
「お待たせ」
 ほどなくしてマスターがふたつカレーを持ってきてくれた。お皿からは深みのあるいいにおいが漂ってくる。いただきますと手を合わせてからスプーンでカレーを口に運ぶ。ピリッとした辛さの中に、深いコクのある味わいが広がっている。
「おいしい!」
 くんが「期待してていい」と言ったとおり、とてもおいしい。こんなにおいしいカレー、初めて食べた。
「気に入ってくれた?」
「うん!」
「よかった」
 店内のボードを見るとカレーは八百円らしいけれど、この味この量でその値段は随分お得だ。今日はくんに連れてきてもらったけれど、後日ひとりでも来たいと思えるほど。あっという間に食べて終え、お皿を下げに来たマスターに味の感想を伝えると「ありがとうな」と笑顔で返された。
「上、来てくれる? さっき話、するから」
「うん」
 くんの言葉に応じてわたしは彼の後をついて階段を上る。年季の入った階段は、段板を踏むと少し軋んだ音がする。
「お邪魔します……」
 階段を上がりきったそこは、二階というより屋根裏部屋と言った様相だ。斜めの屋根の形が天井にそのまま出ていて、少し蒸している。
 くんに促されテレビの隣のソファに座った。これまた部屋と同じく古めかしい。ソファに座ると視線の先には大きな棚があり、ラーメンの模型が飾られていた。
「気になるものでもあった?」
「あ……きょろきょろしちゃってごめんね。ラーメンの模型なんてあるんだなって」
「いいよ、見られて困るもの置いてないから。模型、面白いなって思って飾ってる」
 言いながらくんはわたしの隣に座る。ふわりとコーヒーのにおいが漂った。くんからときどき香っていたコーヒーのにおいは、この喫茶店のものだったらしい。
「そういえばモルガナちゃんは?」
 部屋の中にモルガナちゃんの姿は見えないし、机に置かれた鞄の中は平らで中に入っているとも思えない。帰りの電車では時折鞄から顔を出していたのに。
「さっき着替えてるときに窓から出ていった。夜になったら戻ってくるから」
「そっか」
「……さっきの話なんだけど」
 いよいよ本題だ。ぴんと背筋を伸ばしてくんの言葉に耳を傾けた。
「俺の噂、さんもいろいろ聞いてると思うけど」
「……うん」
「ほとんどがでたらめだけど、俺が去年傷害事件起こして保護観察中って言うのだけは本当だよ。裁判所で転校と転居って命令が出たから四月からこっちに来たんだ。佐倉さん……下にいたマスターは俺の保護司を引き受けてくれたんだ。だから佐倉さんのやってる喫茶店の二階に住んでる」
 さらっとした言い方に、わたしの思考は止まってしまった。傷害? くんが? 本当に? 
「信じられないって顔してる」
「う、うん、だって信じられないよ」
 わたしの知っているくんは優しい人だ。とてもじゃないけれど傷害事件で逮捕されるような人とは思えない。
「……よければ、なにがあったか詳しく聞いていい?」
 どうしても目の前にいるくんと傷害という罪状が繋がらない。何かの間違いか、事情があったのでは。そう思い問いかけると、くんは目を瞑り、記憶の糸を手繰るようにぽつぽつと話し始めた。
「……地元の帰り道、もめてる声が聞こえたんだ。騒ぎのする方に行ってみたら酔っぱらいに女の人が絡まれてた。間に入ったら酔っぱらいが勝手に転んで怪我をして、訴えてやるって言われてそのまま逮捕」
「え……」
「あっという間に裁判で判決が出た。一年間の保護観察処分。その間に問題起こしたら即少年院」
「ま、待って。なにそれ」
 あまりの事実に理解が追いつかない。それが本当なら、完全に冤罪じゃない。
くんは、その男の人に何もしてないんでしょう?」
「うん、触ってもない」
「……女の人は何も言ってくれなかったの?」
「来た警察に俺が殴ったって言ってた。多分その男に脅されてたんだと思う。細かいことはあんまり覚えてないけど」
「ひどい……」
 膝の上に置いた拳に力がこもる。ひどい、こんなひどい話が本当にあるなんて。
「うん、ひどいね」
 わたしの言葉に同意するくんは、わたしと違ってけろっとした表情だ。わざと無表情を装っているのかとも思ったけれど、そうは見えない。
「……どうして、そんなに平気そうな顔できるの?」
 わたしがくんの立場だったらきっと毎日泣いていた。冤罪を押しつけられ転校を余儀なくされ、しかも転校した先では尾ひれのついた噂話が広がっている。きっと普通の人には耐えられないことだろう。
「確かに逮捕されたときは本当にショックだったし、今でもあの男のことは許せないって思ってるけど」
 くんは視線を落として自身の手のひらを見つめた。前髪に隠れて、表情はよく見えない。
「でも……そうだな。確かに冤罪とか噂はもう平気って言うか、どうでもいいかもしれない。噂があっても前歴があっても、竜司や杏みたいに仲良くしてくれる人もいる」
 坂本くんと高巻さんの名前が出てきて得心する。あのふたりもいろいろな噂を囁かれている人たちだ。だからくん、あの二人と仲がいいんだ。
「それにさんも」
「え……わたし?」
「うん。さんもこうやって話を聞いて、俺の言ってること信じてくれてる。それで十分だよ」
 くんは穏やかな優しい笑顔を向けてくれる。けれど、その笑顔はわたしには痛い。
「わたしは……」
 見ていられなくてくんから顔を逸らした。視界にある自分のスカートと拳がじわりと歪む。
「わたしは、坂本くんや高巻さんとは違うよ。だって最初、くんの噂を信じ切って、近づかないようにしようって思ってた。四月のあのときくんが助けてくれなかったら、きっと今も噂を信じて話したりなんてしていなかった。ずっとくんのこと、怖がってたままだった」
 ごめんなさい、最後の言葉とともに涙が零れ落ちた。くんはこの間わたしのことを優しいと言ってくれたけれど、優しくなんてない。本当に最低だ。くんが転入した頃、遠巻きにくんを見ながら「怖いね」なんて話をしていた。くんは、そんな人ではなかったのに。
「それでも今こうやって話してくれてるのは本当だよ」
 くんは一枚のハンカチを差し出してくる。黒のチェックのシンプルなハンカチだ。
「それに間違いは直せるって俺は思ってる」
 くんの言葉はまるで自分にも言っているかのよう。でも、くんははじめから間違ってなんかない。誰かを助けただけ。正しいことを、しただけ。
「ごめんね……」
 くんから受け取ったハンカチを握ったまま、ぽろぽろと涙がこぼれていく。何度も謝ったってくんを困らせるだけ。わかっているけれど、どうしたって負い目が消えない。
「じゃあお詫びに、たまにルブランにカレー食べに来て」
「え……」
「売り上げ貢献。佐倉さんにはお世話になってるから」
 それで許すよ、なんて軽い声でくんは言う。最初から彼は怒ってすらいなかったのに、わたしに気を遣ってくれたのだろう。
「……うん、わかった」
 くんがくれたハンカチで涙を拭いて、精一杯の明るい声でわたしは頷く。これ以上くんを困らせてはいけない。
「なんか、泣いちゃったりしてごめんね。ハンカチ洗って返すから……」
さん、今日謝ってばっかりだ」
「う、ごめ……あ」
 指摘されたばかりなのにまたごめんなんて言ってしまった。慌てて口をつぐむとくんはおかしそうに笑う。
「少し休んでいきなよ。帰り駅まで送っていくから」
「ん……ありがとう」
「コーヒー飲める?」
「えっと……カフェオレなら」
「わかった、ちょっと待ってて」
 くんは軽やかへ下へ降りて行く。きっと飲み物を持ってきてくれるつもりなのだろう。また気を遣わせてしまったと思いながら、くんのハンカチを顔に当てる。少しだけコーヒーのにおいがする。もう喫茶店のにおいが染み着いてしまっているのだろうか。
「お待たせ」
 くんはマグカップをふたつ持って上がってくる。そのうちのひとつを手渡され、いただきますと言ってカップに口をつけた。
「あ、おいしい……」
 実はコーヒーがあまり得意ではないのだけれど、砂糖と牛乳がたっぷり入っているおかげで苦いのが苦手なわたしでもおいしく飲める味になっている。
「よかった。あの言い方だと思いっきり甘くした方がいいかなって思って大分甘くしたんだけど、やりすぎてないか心配で」
「え、これくんが淹れてくれたの?」
「そうだけど」
 くんは自分の分のコーヒーを飲みながらなんでもないような声でそう返す。あんまりおいしいから、わたしはてっきり佐倉さんが淹れてくれたものだと思っていた。
「すごくおいしいよ。ありがとう」
「どういたしまして」
 それから少しの間、くんといろんな話をした。わたしの中学時代の話や、くんが地元の地元の話。あと坂本くんや高巻さんとよく遊びに行く場所なんかも話してくれた。
「あのどんぶりの模型、竜司のおすすめのラーメン屋でもらったんだ」
「へえ……くん、いろんな場所行ってるね」
 まだ東京に来て二ヶ月強にも関わらず、くんは都内の多くのスポットに行っているようだ。原宿にお台場、上野の美術館に荻窪のラーメン屋。下手したらわたしより都内に詳しいのではと思うほど。
「どこ行くのも新鮮で楽しいから」
「そっか。井の頭公園行ったことある?」
「一回ある。ちょっと散歩しただけだけど」
「動物園とかもあるんだよ、あそこ。わたし好きなんだ」
「へえ……ボートあることぐらいしか気づかなかったな」
 そんな話をしていると、下から佐倉さんの「そろそろ店閉めるぞ」という声が聞こえてきた。
「あ、長居しちゃったね。そろそろ帰るよ」
「うん、駅まで送るよ」
 下で佐倉さんに挨拶し、くんと一緒に四軒茶屋駅まで来た。入り口まででいいと言ったけれど、くんはホームの中まで来てくれる。
「今日はありがとう」
「それは俺のセリフ」
「ん……またカレー食べに来るね」
「よろしく」
「あと……またコーヒー飲みに行ってもいい?」
 わたしの言葉にくんは目を丸くする。
「……それは俺のってこと?」
「うん。……だめかな?」
「だめじゃないけど……俺のでいいの?」
くんので、っていうか……くんのコーヒー、おいしかったから」
 社交辞令ではなく、本当にくんの淹れてくれたカフェオレはおいしかった。今まで飲んだ中で一番だと思った。
「そっか、ありがと。いつでも来て」
「ん……あ、電車来た」
 車体に赤い線の入った電車がやってくる。名残惜しいけれど今日はこれでお別れだ。
「じゃあ、またね」
「うん、また」
 電車に乗って外にいるくんに手を振る。最後にもう一度言わなくちゃいけないことがある。ドアが閉まる直前、肩にある鞄のひもを握って大きな声でその言葉を紡ぐ。
「今日は本当にありがとう!」
 ありがとうと言うのは今日だけで何度目だろう。でも、何度言ったって足りない。四月のあのとき、助けてくれてありがとう。大変な過去を話してくれてありがとう。こんなわたしを優しいと言ってくれて、ありがとう。
 ドアが閉まった後、窓ガラスの向こうのくんが優しく微笑みながら何かを言った。声は聞こえなかったけれど、わたしと同じことを言ったように思う。