カンパニュラの花言葉 七月
七月
憂鬱だった梅雨が明けたと思ったら、今度は次の憂鬱の種、期末テストが目の前にやってきた。中間テストより範囲も科目も多いため、入念に準備をしなくては。
そんなテスト二日前。今朝くんから「今回も教えてくれる?」とチャットが届いた。もちろんわたしはその誘いを快諾。ファミレスで勉強した後、今はブチ公前の広場でモルガナちゃんを撫でさせてもらっている。
「はあ……かわいい」
モルガナちゃんはわたしの手の甲へ顔を寄せる。香箱座りにこの仕草、四月のときと比べてずいぶん甘えるようになってくれた。
「毛、暑くない?」
隣に座るくんは手うちわで顔を仰ぎながらそう言った。額にはじんわり汗が滲んでいる。
「暑いけどかわいいよ」
「好かれてるな、モルガナ」
くんの言葉にモルガナちゃんはナアと鳴いて返事をする。その声もとても可愛らしい。
「そういえば、モルガナちゃんって地元にいるときから一緒だったの?」
「いや、こっち来てから。拾った……とは違うか」
こっちに来てからということはまだ出会って三ヶ月ほどのはず。それなのにくんとモルガナちゃんは随分と仲がいい。出会って間もないはずの四月の時点でもすでにモルガナちゃんを学校に連れてきていたし、お互いの言いたいこともわかっているようだった。
「……いいな」
ぽつりとこぼれた言葉に、自分が一番驚いた。いいなって、誰が?
「なにが?」
「え、えーと……なんだろ」
「なにそれ」
くんはおかしそうにクスクスと笑う。
本当に、なんだろう。何に対してわたしはいいなって言ったのだろう。
「あ、そういえば……渋谷の犯罪グループ、捕まったんだってね」
話題を変えるべく最近校内でも持ちきりの話を振ると、くんは「うん」と頷きながら前髪をいじる。
「また怪盗団だって。すごいね」
「らしいね」
「中学の友達からもよくチャット来るの。怪盗団が最初に出たの秀尽なんでしょって。すごいねって言われたり怖いねって言われたり」
渋谷で個展を開いていた画家の斑目、主に渋谷で犯罪を行っていたグループのボス。このふたりが続けて怪盗団の予告状の後に捕まった。渋谷近辺の縁のある人のほとんどは怪盗団に関してなにかしらの興味を抱いている。
鴨志田先生のときはニュースで取り上げるのは鴨志田先生の犯した体罰や性犯罪についての報道がメインで怪盗団のことを取り上げることはほぼなかった。おそらく先生が金メダリストだったことが大きかったのだろう。しかし今はニュースでも怪盗団のことがメインになっているほど。正義のヒーローとしての扱いが大きいけれど、ときには怪盗団の手法や存在そのものを否定する人もいる。
「さんは怪盗団支持派?」
「うーん……熱狂的なファンってほどじゃないけど、そうかなあ。犯罪グループのボスが捕まったって聞いたときは安心したし……秀尽でも被害に遭ってた子、結構いるみたいだし」
わたしや友人たちに犯罪グループの被害者はいなかったけれど、同年代にゆすられた子たちがいるとは聞いている。その子たちも今回の逮捕で助かったらしい。
怪盗団の手法を批判する人たちの気持ちもわからなくはない。実際どうやっているかはわからないけれど、心を自在に操って自白させているのならそれは正しい方法とは決して言えないだろう。けれど、それで助かった人がたくさんいるのは事実なのだ。
「怪盗団がいなかったらバレー部とか、あの画家の弟子とか……今も被害に遭ってたんだろうから、怪盗団がいてよかったなって思うよ」
「そっか」
「くんも支持派でしょ?」
六月に社会科見学でテレビ局に行ったとき、番組観覧でくんは怪盗団について話を振られ怪盗団を肯定していた。あの番組は同年代である高校生探偵の明智くんも出ていたからよく覚えている。
「意外?」
「ううん、全然」
四月であればくんが怪盗団を支持していることを意外に思ったかもしれないけれど、くんと親しくなった今はむしろ納得しかない。顔も名前も出していない怪盗団。売名行為をするわけでもなく、被害の声を上げられない人たちをただ助ける彼らはまるで。
「だって怪盗団って、くんみたい」
見返りを求めずに困っている人を放っておけないからと助けるくんは、わたしの想像する怪盗団像と少しかぶるものがある。
「……そう?」
「うん。怪盗団が本当はどんな人かわからないけどね、でもくんみたいな優しい人なのかなあって」
「さんってすごくストレートだ」
「えっ?」
「本人の目の前でそんなに優しいって何回も言う人いないよ、あんまり」
「そうかもしれないけど、本当に思ってるから。それにちゃんと言いたいの」
怪盗団の話題ばかりになりだいぶ下火になったけれど、まだくんに対する例の噂は根深い。クラスでもくんに話しかけるのは高巻さんと三島くん、わたしぐらいなものだ。
「くんは気にしてないかもしれないけど、変な噂に負けないぐらい、わたしはくんに思ってること伝えたいよ」
くんは優しい、素敵な人だ。強い人だから噂に負けるようなことはないのかもしれないけれど、わたしはくんの美点をちゃんとくんに伝えたい。
「本当にストレートだ」
「そう、かな。あっ、嫌だったらやめるよ!」
「嫌じゃないよ」
くんはふっと頬を緩める。その笑顔があまりにも綺麗で、わたしはぱっと俯いてしまった。くんはクールであまり大笑いする人ではないけれど、時折見せる微笑みはいつも綺麗だ。
「そろそろ帰ろうか」
「……うん、そうだね」
そう言ってわたしたちは同じ電車に乗って家路につく。渋谷から四軒茶屋はあっという間で、おしゃべりできる時間はほんの少しだけ。
「また明日」
「うん、勉強がんばろうね」
いつからだろう。くんの「また明日」の言葉に胸の痛みを感じるようになったのは。電車の窓ガラス越しに見えるくんの背中を見送りながら、痛みの正体を探った。
期末テストが終わった次の日、わたしの足は自然とルブランに向かっていた。「たまにカレー食べにルブランへ来て」というのがくんとの約束があったからというのもあるけれど、純粋にあのカレーがまた食べたくなった。
からんと高いベルの音を鳴らしてドアを開けると、すぐに佐倉さんが「いらっしゃい」と声をかけてくれた。
「さんだったよな」
「はい。この間はどうもありがとうございました」
佐倉さんはたった一度来てくれたわたしのことを覚えてくれていたようだ。さすが客商売、名前まで覚えていてくれるなんて。
「なら出かけてるぞ」
「あ……いえ。くんじゃなくて、カレー食べに来たんです。おいしかったので」
「へえ、ありがとうな。ちょっと待っててくれ」
空いてるしテーブル席にどうぞと言われたので、素直に手前のテーブル席に座った。一番奥では中年の男性が本を読んでいる。
こういう喫茶店にひとりで来るのは初めてだ。どうにも落ち着かなくて店内を見渡してしまう。カウンターの中に並ぶコーヒーカップや黄色の公衆電話が絶妙な雰囲気を作っている。机に置かれた手作りと思われるメニュー表を見ると、カレーのほかにナポリタンやオムライス、朝はモーニングメニューもやっているらしい。佐倉さんひとりでやっているようなのに、随分と細やかなメニューだ。
きょろきょろしている間に奥に座っていた男性が「お勘定置いとくよ」と言って店を後にした。店内にはわたしと佐倉さんだけになる。
「なあ、さん。あいつ……の地元での話とか知ってるのかい?」
佐倉さんはカレーのお鍋をかき混ぜながら、おもむろに問いかける。
「……はい」
「そうか。それで仲良くしてくれてるなんて嬉しいねえ」
「そんな……わたしのほうこそいろいろ気をかけてもらってて」
「結構友達もいるみてえだしよかったよ。このまま何事もなく一年終わってくれたら俺も楽だしな」
最後の言葉こそぶっきらぼうな物言いだけれど、佐倉さんの声には優しさが滲んでいる。
六月にルブランに来た後、保護司について少しだけ調べてみた。基本的にボランティアで報酬のような制度はないらしい。くんとは親戚関係でもないらしいのにこうやって住むところまで貸してくれるなんて、佐倉さんも優しい人のようだ。
そんな話をしているとまたルブランの扉が開く。からんと音を立てた先を見てみると、そこにはくんと背の高い細身の同年代と思われる男子が立っている。
「さん、来てたの?」
「うん、カレー食べにきたの」
「本当に来てくれたんだ。ありがとう」
「の友達か?」
くんは青い服の男性に「クラスの友達」と紹介してくれる。
「です」
「俺は洸星高校二年の喜多川祐介だ。よろしく」
「洸星高校?」
「高校がどうかしたのか?」
「くん、四月に来たばかりなのに他校にも友達いるんだってびっくりして」
「まあ、いろいろあってな」
言いながら喜多川くんは当然のようにわたしの前に座った。両肘を机に置きどこか期待したような瞳でわたしを見つめる。
「、どうした? ぼーっとして」
「そこに座る? 普通」
「の友達なんだろ。それともは一緒にカレー食べたくないのか?」
「そういうわけじゃないけど……」
はあとため息をつきながらくんは喜多川くんの隣に座る。
「なんかごめん」
「ううん、全然大丈夫。みんなで食べる方が楽しそうだよ」
わたしも喜多川くんが同じテーブルについたときは少しびっくりしたけれど、ここで別のテーブルでカレーを食べるのもきっと寂しかっただろう。
「はい、お待ちどおさん。そっちはちょっと待っててな」
佐倉さんは先に用意していたであろうわたしの分のカレーを運んできてくれる。熱いうちにどうぞ、とくんが促してくれたのでお先にいただくことにした。やはりルブランのカレーは一際おいしい。
「俺も早く食べたいものだ」
喜多川くんは身を乗り出して目をきらきらと輝かせている。澄ました外見とは裏腹になかなか面白い人のようだ。
「喜多川くんもよくルブランに来るの?」
「ああ、コーヒーもカレーもうまい。それにサユリもあるしな」
喜多川くんの視線の先には、入り口近くに掛けられた絵画がある。あれがおそらく「サユリ」なのだろう。
「あの絵、綺麗だよね」
「ああ、美しい」
サユリをじっと見つめる喜多川くんの視線は優しいけれど、どこか悲しげだ。どうしてそんな目をするのか気になったけれど、会ってすぐに踏み込んでいい領域とは思えない。わたしは口をつぐんでカレーを食べ進めた。
ほどなくして佐倉さんがくんと喜多川くんのカレーを運んでくる。喜多川くんはいただきますと言ってすぐにカレーを食べ始めた。少しがっついたようなその仕草は、外見からは想像できない。
「本当にくん、いろんな友達いるね。最近新島先輩ともよく一緒にいるし」
同じ学校で同い年の坂本くんや高巻さんはともかく、年上である新島先輩や他校の喜多川くんとはいったいどうやって仲良くなったのだろう。部活に所属しているわけでもないし、アルバイト仲間というわけでもなさそうだ。
「どういうきっかけで知り合ったの?」
「祐介は杏をモデルに絵を描きたいって突然言ってきたんだ」
「喜多川くん、絵描くんだ」
「ああ、美術科だからな」
カレーを食べながらふたりの話に耳を傾ける。坂本くんや高巻さんと一緒にいたときに喜多川くんが高巻さんの絵を描きたいと申し出て、それから四人でよく会うようになったとのこと。今は新島先輩もそこに加わっているらしい。三人で渋谷にいるときに新島先輩をちょっとしたトラブルから助けたのが始まりとか。
きっと四月のわたしだったら、噂のくんや去年問題を起こした坂本くんが生徒会長で優等生の新島先輩と仲がいいなんて信じられなかっただろう。けれど今はそんな疑問は抱かない。くんが噂のような人間でなかったように、坂本くんや新島先輩もわたしのイメージとは違う一面のある人なのだろう。
カレーを食べ終えると、喜多川くんが「コーヒーが飲みたい気分だな」と期待の面持ちでくんを見つめた。くんは「わかったわかった」と言ってカウンターの中へと移動する。
「さんも飲むだろ?」
「あ……お願いしていいかな」
「もちろん」
くんは喜多川くんにはブラックコーヒーを、わたしには前と同じカフェオレを淹れてくれた。ミルクと砂糖の甘みが体に沁みていく。
「む、さんのは特別仕様だな」
「特別って……カフェオレだけど、祐介もそっちのほうがよかった?」
「いや、俺はブラックが好きだな」
喜多川くんはそう言ってブラックコーヒーに口をつける。随分自由人に見えるけれど、なんだか憎めない人だ。
くんが自分の分のコーヒーを持って席に戻ってきたとき、店内のテレビが天気予報を告げた。
「しばらくは大気の状態が不安定です。ゲリラ豪雨にご注意ください」
豪雨という言葉に思わずため息が出てしまう。この数年ですっかり夏の代名詞となってしまったゲリラ豪雨、ただでさえ憂鬱な天気なのに明日は花火大会なのだ。
「明日は花火大会なのに」
ぽつりと呟いた言葉が、くんとかぶった。
「花火大会、さんも行くの?」
「うん、学校の友達と。くんも?」
「ああ、祐介たちと」
な、と言ってくんと喜多川くんは目を合わせて頷き会う。祐介たち、ということは坂本くんや高巻さん、新島先輩も一緒なのかな。なんだか胸がチクっとした。
……ん? チク?
「さんも行くならあっちで会うかもね」
「いや、難しいんじゃないかな……毎年すごい混雑だから」
「そっか、残念」
「……うん」
去年や一昨年の混雑具合を思うに、会場でお目当ての人と会うなど難しいだろう。またチクリと胸が痛む。
その後も少し雑談を続け、のんびりとくんの淹れてくれたコーヒーを楽しんだ。そうしている間にもうすっかりいい時間だ。コーヒーとカレーの代金を払ってお暇しようとしたら、佐倉さんにカレーのお金だけでいいと言われてしまった。
「でも……」
「まだのコーヒーで金取るわけにゃいかねえよ」
「練習で淹れてるだけだから気にしないで」
「……そう? じゃあ、お言葉に甘えて。でも練習なんて思えないほどおいしいよ」
「それは俺も同意だな」
テーブル席で足を組む喜多川くんも同意すると、くんは「ありがと」と言って照れくさそうに首に触れる。
くんが駅まで送ってくれると言うので、駅までの短い道を三人で歩いた。道すがら喜多川くんに家を聞くと洸星高校の寮に住んでいると言う。寮も渋谷方面らしいので喜多川くんとはホームまで行ってお別れかなと思っていたら、駅前まで来たところで彼は「金がないので渋谷まで歩いていく」と言い出した。
「じゃあな、二人とも」
「う、うん。大丈夫なの?」
「いつものことだから気にするな」
そう言われるとますます気になってしまう……。夜の闇に消えていく喜多川くんの後ろ姿を見ながらそわそわしていると、くんがおもむろに口を開く。
「祐介、ついつい画材やモチーフ買っちゃうらしい。だからいつも金欠」
「それって大丈夫なの……?」
「大丈夫じゃないけど、言ってどうにかなるようなものじゃないから、祐介の絵に対する情熱は」
そう話すくんは少し誇らしげにも見える。その表情だけで、くんと喜多川くんの仲が窺えた。
「ホームまで送ってくよ」
「え、そんな……」
「いいから」
くんはそう言って先に駅の中へと入って行ってしまう。先に中に行かれてしまってはどうしようもない。わたしも慌ててくんの後を追う。
ホームに着くとどうやら電車は行ったばかりのようで、次の電車が来るまで少し時間がある。わたしたちは自然にホームに備え付けられたベンチに座った。
「さん、テストどうだった?」
「んー、まあまあかな。結構頑張れたと思う。くんは?」
「俺も。順位上がってるといいな」
「きっと上がってるよ」
お世辞ではなく、一緒に勉強しているときのくんの様子を見ての実感だ。くんは「教えてほしいから」と言って期末前にテスト勉強に誘ってくれたけれど、実際は教えることなどほとんどなかったように思う。
「だといいな。上がってたら前よりグレードの高いモルガナの写真送るよ」
「ふふ、なんか闇取引みたい」
「確かに」
そんな話をしていると、ホームにわたしの乗る電車がやってくる。今日もまたお別れの時間だ。
「じゃあ、また明日……じゃなくて明後日だね」
「うん。花火大会、楽しんで」
「くんも」
発車ベルが鳴り終わり、ドアが閉まる。電車が動いてくんが見えなくなるまで、わたしはドアの前に立っていた。
くんと話したとおり、期末テストの順位は悪くなかった。なにより一緒に勉強したくんの順位が大幅に上がったことが嬉しかった。「今回のお礼」という言葉とともにくんから送られてきたのはモルガナちゃんのご飯中の写真だ。幸せそうな表情でご飯を食べるモルガナちゃんはとっても可愛い。今回は寝顔ではないのでモルガナちゃんに無断ではないのだろう。
テストが終われば気持ちは一気に夏休みに向かう。今年は鴨志田先生や怪盗団の件があり夏休み初日に緊急集会が行われたため、実質二十五日が一学期の最終日だ。「緊急集会なんてあり得ない」と文句がそこかしこから聞こえるけれど、わたしは内心学校に行く日が一日増えることが嬉しかった。
集会が終わるとみな早々に学校を後にする。くんはどこだろう。ぱっと教室を見渡すけれど見当たらない。もう帰ってしまったのだろうか。慌てて向かった昇降口に、彼はいた。
「くん!」
大きな声で呼びかけると、くんは驚いた表情で振り向く。
「さん、どうしたの?」
「あ……えっと」
どうしたのって、本当にわたし、どうしたんだろう。別にくんに話したいことがあったわけでもない。どうしてくんを探して、呼びかけてしまったのだろう。
「あの……夏休みって地元帰ったりするの?」
「いや、ずっとこっちにいる予定」
「そっか……」
会話が途切れたところで、向こうにいる坂本くんが「おい、早く行こうぜ」とくんに呼びかけた。
「ごめん、もう行かないと」
「ううん、わたしこそ引き留めちゃってごめんね」
「夏休みもよければルブランに来て。待ってる」
そう言ってくんは坂本くんの方へと駆けて行く。
また明日、ではないんだ。夏休みは一ヶ月強、しばらくくんに会うことはない。
くんの小さくなっていく後ろ姿が、寂しい。