カンパニュラの花言葉 八月
八月
夏休みが始まって十日がたった。夏休みの宿題をこなしながら地元のファミリーレストランでアルバイトの日々だったけれど、明日は予定がない。友人にチャットで誘いをかけてみたけれど、全員家族旅行やアルバイト、彼氏とのデートで忙しいらしい。
チャットの友達一欄の画面を眺めて、「」の文字を見つめる。
学校がある間、クラスメイトであるくんとはほとんど毎日顔を合わせていた。会うたび長くおしゃべりをするというわけではなかったけれど、朝昇降口や教室で顔を合わせて挨拶をしたり、ときには一緒に帰ったりもしていた。夏休みは、それらが全部なくなるのだ。
「寂しい、な」
ぽつり、そんな言葉がこぼれ落ちた。
うん、寂しい。わたし、くんに会えなくて寂しいんだ。それって、きっと。
「わっ!?」
ぼんやりと考えていると、その相手であるくんから突然チャットが届いた。
「突然だけど明日の午後って空いてる? スカイタワーのペアチケットもらったんだけど」
明日、スカイタワー、ペアチケット。たったふたつの文なのに、今のわたしにはすぐに処理できない情報量だ。
ええと、これは、もしかしなくても、明日会えるということ? しかも、くんから誘われて?
明日は空いている、というかむしろ暇だからと友達を誘っていたぐらいだ。いや待って、もしかしたら勘違いだったかもしれない。念のためスマホのスケジュールを開いて明日の予定を確認する。大丈夫、何もない。
「明日は空いてるよ。行きたい!」
両手を使ってそう打った後、この短い文面の中におかしいところがないか何度も何度も確認して送信ボタンを押した。
「よかった。二時に渋谷駅でいい? 日時指定があるチケットだから」
「大丈夫! 楽しみにしてるね」
「俺も」
チャットのやり取りを終え、何度何度もトークの画面を確認した。わたしの幻ではない。明日、くんとスカイタワーに行くんだ。どうしよう。明日が来るのが待ちきれない。
八月五日金曜日、午後一時五十分。待ち合わせの渋谷駅地下鉄ホームに行く前に、女子トイレの姿鏡の前で何度も自分の姿を確認する。髪型も服装も問題ない……はず。服を買いに行く暇などなかったから手持ちの服の中で一張羅のワンピースを着てきたけれど、おかしくないだろうか。変な皺とかゴミとかついていないだろうか。何度も確認しても不安が止まらない。けれどそうこうしているうちに、もう待ち合わせの時間になってしまう。
待ち合わせ五分前、駅のホームに着くとくんからチャットが届く。
「着いたよ。三号車のあたりにいる」
「今向かってる!」
「あ、見えた」
くんからのメッセージに顔を上げてあたりを見渡すと、前にくんの姿が見える。慌てて駆け寄ると「久しぶり」と声をかけてくれた。
「待たせちゃってごめんね」
「いや、まだ時間前だし」
くんは腕時計とホームの電光掲示板を確認し「でもちょうどいいな」と呟く。その直後にスカイタワー方面へと向かう電車がやってきた。空いている座席に並んで座って、ふうと息を吐いた。
「今日は誘ってくれてありがとう」
「どういたしまして。佐倉さんが常連さんからもらったって招待券くれて」
「佐倉さんは行かなくてよかったの?」
「せっかく夏休みなんだから女の子でも誘ってどっか行けってさ」
「ふふ」
そういえば初めてルブランに行ったとき佐倉さんに「彼女?」なんて聞かれたっけ。今のくんの話といい、佐倉さんはそういう性格の人のようだ。
「昨日もらったんだけどよく見ると日時指定のやつだったし、慌ててさん誘ったんだけど、予定空いててよかった」
「え……」
くんの言葉に、トクンと心臓が小さく跳ねた。
わたしはてっきりほかに誰か誘って駄目だったからわたしにお鉢が回ってきたのかと思っていたけれど、今の言い方だと違うのかな。わたしを最初に、誘ってくれたのかな。
「どうしたの?」
けれどまさかそんなことを聞くわけにもいかず、わたしは下を向いて話題を変えた。
「ええと……モルガナちゃんは? 全然動かないね」
「今日は連れてきてない。モルガナ、結構そういうとこ気遣うんだ」
「気……? あ、そういえばこの間喜多川くんと会ったときも一緒にいなかったもんね」
くんが人と会うときはモルガナちゃんもお出かけするのかな。なるほどモルガナちゃんは本当に賢いし気遣いさんだ。
「そういうことじゃないんだけど」
くんはふっと笑いながら空いた車内で足を組む。
何が「そういうことじゃない」のだろう。首を傾げるわたしを見てくんは「いつか教えるよ」とまた小さく微笑んだ。
スカイタワーの最寄り駅に着き、すぐにスカイタワーへ入った。展望台から見える景色は圧巻だ。
「うわ、高い……」
「すごいな。こっちはガラスの床だって」
「へえ……」
くんに誘われ床がガラス張りになっているエリアに向かう。ガラスの床に足を踏み入れた瞬間、心臓がひゅんっと縮こまるのを感じた。
「さん?」
「…………」
「もしかして怖い?」
「い、いや、そういうわけじゃ……ひゃっ!?」
隣にいたくんが突然つんと指先でわたしをつつくから大きな声を出してしまった。あわてて口をおさえたけれどもう遅い。
「怖いんだ」
「う……」
くんの言うとおり、ガラスの床は怖い。展望台のように遠くを見渡せるところは平気だけれど、真下が見えるところは恐怖心が勝る。
くんの問いに小さく頷くと、彼はクスクスと意地悪な笑みを浮かべる。
「いいこと聞いたな」
「い、いいことって!」
「冗談だよ。怖いならやめよう」
くんに促されガラス床エリアから抜ける。ほっと安心していると、「展望台は平気?」と聞かれたので頷いた。
「なら景色見ながらお茶しようか」
くんに連れられて来たのは小さなカフェコーナー。ちょうどタイミング良く席が空いたのでコーヒーと紅茶を買ってそこに座った。
「天気良くてよかったね。いい眺め」
「うん。遠くまで見える」
夏の晴れ間は気温ばかり高くて嫌になるけれど、今日は太陽に感謝だ。スカイタワーの中はクーラーがきいてるし雲のない空で富士山まで見渡せそうだ。
「スカイタワー、初めて来たけどいいところだね」
「あ、さんも初めてなんだ」
「うん、だってこういうところってデートとかで来るイメージ……あっ」
はっとして慌てて口をつぐんだ。デートって、そんな、言ってしまった。
「よ、夜はね、デートで来る人多いよね! 夜景はロマンチックだろうし!」
「今も多い」
くんの言うとおり、今もそこかしこにカップルが目立つ。スカイタワーは有名なデートスポットなのだ。
「そ、そうだね……」
「デートって思われるのは嫌?」
くんはわたしを見る。その目はいつになく真っ直ぐだ。
「い、嫌じゃない……です」
わたしもくんを真っ直ぐ見据えて答えた。恥ずかしいけれど、くんの目を見てちゃんと。
嫌じゃない。嫌なわけがない。嫌だったら今日ここに来てはいない。
「よかった」
くんがふっと微笑むから、わたしの心臓はきゅっと締めつけられる。
前から思っていたけれど、くんの目は力強い。普段は大きな眼鏡に隠れているけれど、時折見せる鋭い視線はいつだってわたしの心臓に突き刺さり大きな痕を残していく。
「夏休み、毎日どうしてる?」
「えっと……お盆は旅行に行くけど、それ以外はほとんどバイト。夏休みじゃないとあんまりシフト入れられないし。くんは?」
「俺もバイト結構入れてるな。あとは竜司や祐介が突然ルブランに来るから、一日だらだらしたり」
「バイトってどこでしてるの?」
「渋谷の花屋」
花屋。意外な言葉に紅茶を飲む手が止まる。
「お花屋さん?」
「うん。結構給料もいいんだ」
「へえ……」
最初は意外と思ったけれど、お花屋さんは力仕事も多いと聞く。くんはよく気もつくしお花屋さんは向いていそうだ。
「花束作ったりもするの?」
「まあ……注文が入れば」
「すごいね」
「別にすごくないよ。色とかイメージは大体指定してくれるから、予算内でおさめるよう作るだけ」
「それがすごいんだよ」
お客さんの注文を聞いて、お店にあるお花の種類から組み合わせて、しかも予算まで考えて……というのはわたしにはとても難しいことのように思う。
「コーヒーもおいしいし、くんなんでもできるね」
「なんでもって」
「なんでもだよ。お花も詳しくて、コーヒーもおいしくて、人のことも助ける優しさと勇気があって、わたしの話もいつも真っ直ぐ聞いてくれて……」
右手で指折り数えながらくんの美点を話していく。くんって本当に素敵な人だ。そんなくんだから、わたしはきっと。
「くんはね、すごく素敵な人だよ」
「いつの間にか俺の長所の話になってる」
「あ、あれ?」
くんはコーヒーカップを手に口元に笑みを浮かべる。確かにいつの間にか何かができるという話ではなくくんのいいところを語り始めていた。
「さんも」
くんは折ったわたしの指にそっと触れて、深い瞳でわたしを見つめた。
「こうやって人のいいところを見つけるところ、それを全部素直に伝えてくれるところ。さんのいいところだ」
くんの声はとても優しく、そして真摯だ。心に響く芯の通った声。
「わたしは、そんな」
「さんが自分のことをどう思ってても、俺はさんのことそう思ってるよ」
優しい芯の通ったくんの声が、じんと心に沁み入っていく。甘い棘のようにわたしの心を締めつけていく。
「ん、ありがとう」
言葉とともに涙がこぼれそうになるのを必死にこらえた。わたしはそんなに大した人間ではないと思うけれど、それでもくんがそう思ってくれること、それがとても嬉しい。
「それに……」
くんはひとつ息をおいて、小さく口を開いた。
「その服、似合ってる。可愛いと思う」
「えっ」
「会ったときに言えばよかったって、ずっと思ってた」
今度はかあっと頬に熱が集まってくる。う、わ。どうしよう。嬉しい。頑張って選んだ甲斐があった。
「あ、ありがとう……」
「……ん」
それから少しの間、くんもわたしもなにも言えずに景色を眺めていた。時折ちらりとくんの顔を見るけれど、少し頬が染まって見えたのは気のせいだろうか。
「……そろそろ行く? 他の階も楽しそう」
「う、うん」
そうしてカフェから出て、しばらくスカイタワーの中をふたりで見て回った。昔と今の景色が見比べられるコーナーやフォトスポット、一番高い展望台。それはとても楽しいひとときで、時間があっという間に過ぎていった。
段々と沈む陽を見ていると気分まで沈んでしまう。そろそろ帰らなくてはいけないのだろうか。
「さん、夕飯カレー食べない?」
スカイタワーを出る際のくんの言葉にぱっと顔を上げた。
「食べたい!」
「よかった。じゃ、もうちょっと付き合って」
カレーと言えばルブランだ。くんとともに電車に乗って四軒茶屋へと向かった。ルブランの前に着くと銭湯の看板の後ろからモルガナちゃんがやってきた。
「モルガナちゃん! あ、あれ……」
久しぶりに見るモルガナちゃんの姿に思わず歓喜の声をあげたけれど、モルガナちゃんはふいと来た道を戻ってしまう。
「ええ……!」
「モルガナ、さんが寂しいってさ」
くんの言葉を聞いてか、モルガナちゃんがおそるおそる戻ってきた。にゃあ、と何度か鳴くとくんは「いいんだよ」とモルガナちゃんに向かって話しかける。
「ほら、入ろう」
「あ、でも……もしかして、もう閉店してる?」
よく見るとルブランはすでに閉店しているようだ。もちろんくんは鍵を持っているから入れるだろうけれど、カレーはもう食べられないだろう。
「そうだね。でも大丈夫、俺がカレー作るから」
「えっ、くんが?」
「この間教えてもらったんだ。佐倉さんほどうまくないとは思うけど」
「ううん! くんならきっとおいしいよ!」
両手をぐっと握ってそう言うと、くんは「あんまり期待しすぎないで」と笑う。
カランと高いベルの音と共にルブランの扉が開く。中は当然真っ暗で人の気配はない。今ルブランに入ったらくんとふたりきりだ。
あ、どうしよう。ああ言ってしまった上に今さらだけれど、本当に入ってもいいのだろうか。
「さん?」
「あ……」
別にくんがどうこうというわけではない。くんは優しい人だと思っているから。けれど深夜帯ではないけれど夜は夜だし、男の人とふたりきりなんて、いいのだろうか。
「心配しなくてもなにもしないよ」
「え……っ」
心を読まれたかのようなくんの言葉に大きく心臓が跳ねた。
「それにモルガナもいるから。さんになにかしようとしたらモルガナが俺に襲いかかってくる」
くんの言葉に、足下のモルガナちゃんは笑ったような顔で「にゃ」と答えてみせる。そのポーズが可愛くて、ふっとわたしの心は緩んだ。
「入って」
くんに促されルブランに足を踏み入れる。真ん中のテーブルに座るとモルガナちゃんも横に座った。
「あの、ごめんねくん。くんのこと信じてないわけじゃなくて……」
「わかってる。嫌な事件も多いし、警戒するのは悪いことじゃない」
くんの言葉にほっと胸を撫で下ろす。嫌な気持ちにさせてしまったかなと思ったけれどどうやら大丈夫そうだ。
カウンターに入ったくんはてきぱきと作業を進めていく。なにか手伝おうかと申し出たけれど「大丈夫」と言われてしまったので、今は隣のモルガナちゃんを撫でている。
段々とカレーのいいにおいがしてきた。つんと鼻孔を刺激するスパイスの香り。佐倉さんのオリジナルの配合なのだろう。
「できた」
くんは言葉と共にカレーを二皿運んできてくれる。くんが作ってくれたカレーだ。いただきますと両手をあわせて、ドキドキしながら一口スプーンで掬う。
「おいしい!」
飲み込む前にそんな言葉が出てしまって、慌てて手で口をおさえた。いけない、お行儀が悪い。けれど、すぐにそう言ってしまうほどおいしいと思ったのだ。
「ありがと」
「本当においしいよ!」
「練習した甲斐があったかな。前に作ったときは辛すぎて大変だったんだけど」
くんは苦笑しながら自身もカレーを口に運ぶ。ごくんと飲み込むのどの動きに、目を奪われてしまった。
「さん?」
「あ、冷める前に食べないとね!」
まさか見惚れていたなんて言えるはずもなく、わたしはカレー皿に視線を向けた。くんの作ったカレーは本当においしくて、あっという間に食べ終えてしまった。
さすがにもう遅いからということで食後のコーヒーはなしにしようという話になり、カレーを食べ終えた後はすぐに解散になった。いつものようにくんは駅のホームまで送ってくれる。
「今日はありがとう」
「こちらこそ」
電車が来るまであと一分。その時間がどうしようもなく惜しい。明日も明後日も来週も学校はない。またくんに会えない日々が続くのだ。
「くん、あの……」
「ん?」
「夏休み、また会えるかな」
勇気を振り絞って、その言葉を紡いだ。次に会うのが一ヶ月後なんて寂しい。夏休みの間にもう一度会いたい。
「ああ、また誘うよ」
くんの言葉が胸をぎゅっと締めつける。また会いたい。会えたら嬉しい。その気持ちが、くんも同じだったらいいな。
「またね」
「うん、また」
来てしまった電車に乗って最後に手を振った。電車のガラス越しにくんをずっとずっと見ていた。
ねえ、くん。さっきのカレーも、いつも淹れてくれるカフェオレも、きっとわたし以外の人なら佐倉さんの方がおいしいって言うのかもしれない。でも、わたしにはくんが淹れてくれるカフェオレが、作ってくれるカレーが大好きだよ。だって、わたしは、くんのことが好きだから。
お盆のある日、くんからチャットが届いた。「金曜か土曜、会えない?」と。けれどその日はあいにくまだ旅行中、泣く泣く「まだ旅行中で」と断る羽目になってしまった。
旅行は旅行でとても楽しかった。けれどくんに会えないこと、くんの誘いを断ざるを得なかったことだけはとても苦しかった。
帰ってきた次の日はさすがに疲れて泥のように眠ってしまい、帰宅後二日がたった二十三日。わたしの足は自然にルブランへと向かっていた。
「お、いらっしゃい」
「こんにちは」
佐倉さんに挨拶をしてカウンター席に座った。お昼時だからか店内はそこそこ賑わっている。
「あいついねえけど、いいの?」
「あ……いえ、カレー食べに来たんです」
「はいよ」
くん、いないのか。約束していないし当然と言えば当然だ。
そういえば先日くんと行ったスカイタワー、チケットをくれたのは佐倉さんだと聞いた。お礼を言った方がいいのだろう。けれどわたしがくんと一緒に行ったと、くんの保護者のような存在の佐倉さんに言ってもいいのだろうか。迷っていると佐倉さんの方から「この間とスカイタワー行ったのってさんなんだろ?」と聞かれてしまった。
「あ、はい。チケットありがとうございました」
「あいつ、さんのこと誘ったんだってな」
その問いに頷くと、佐倉さんはからかうような笑みを浮かべる。
「ペアチケットだったしどうすんのかと思って次の日聞いてみてな。相手、教えてくれねえかと思ったが意外とあっさり教えてくれてね。楽しんでくれたようでなによりだ」
「はい、楽しかったです」
「そりゃあよかった」
佐倉さんはお冷やをわたしの前に置いて、「仲良くしてくれてありがとな」と笑う。
「わたしの方こそ、くんにはいろいろ助けてもらって……いつも、優しくしてもらって」
くんは優しい人だ。あの四月のときから、ずっと。そんなくんが、わたしは大好き。
「……付き合ってんの?」
「えっ!?」
佐倉さんの問いかけにぼっと顔が熱くなった。つ、付き合って!?
「ち、違います! 違います!」
「ふうん……」
付き合って、いるように見えるのかな。恥ずかしいけれど、ちょっと嬉しい。
「なあ、さん。いらねえお節介かもしれないが、後悔しないようにな」
「え……」
「あいつがこっちにいる期間は一年だ。もう半年ちょっとしか残ってない」
「あ……」
そうだ。くんの保護観察期間は一年、来年の三月までの予定だ。期間が過ぎればくんは地元へと帰ってしまう。
「会いたいときにはちゃんと会いに行ったほうがいい。人間、いついなくなるかわかんねえからな」
浮かれた気持ちが空気の抜けたボールのようにしぼんでいく。くんと一緒にいられるのは、あとたったの半年なのだ。
「……はい」
くんと会ってからのこの五ヶ月はあっという間のことだった。これからの日々も同じようにあっという間に過ぎて行くだろう。
カレーを食べ終えたわたしはルブランを後にした。電車の中でスマホを起動しスケジュールを確認する。今日みたいな約束なしの訪問ではいないこともあるだろう。ちゃんと事前に約束を取り付けなくては。
夏休みはあと一週間。待っていたってすぐにまた毎日くんに会えるようになる日々はやってくる。けれどそれではあまりに寂しい。くんと、一日でも多く会いたい。
どうやら今週いっぱいくんは佐倉さんのおうちの事情で昼間は空かないらしい。なら、週末の夜はどうだろう。勇気を振り絞ってくんにチャットを送った。
「二十八日、夜に地元でお祭りがあるの。一緒に行かない?」
何回も何回も文面を確認して送信ボタンを押した。手を震わせながらスマホをしまうことなくずっと手の中に握っていると、ぽんとチャットの着信を示すランプが光る。
「行く」
返ってきたシンプルな二文字に胸が震える。どうしよう、嬉しい。すごく、すっごく嬉しい。ぎゅっとスマホを抱きしめて電車の壁に寄りかかる。ガラス窓に映ったわたしの顔は、だらしないほど緩んでいた。
ついにやってきた夏祭り当日。今まで貯めたアルバイト代、今使わずにいつ使う? 友人に付き合ってもらい買った浴衣を着て待ち合わせ場所である地元駅へと向かう。白地にピンクや水色の淡い色の花が描かれた生地の浴衣を道中のガラスで何度も確認していたら時間ギリギリになってしまった。待ち合わせ場所である駅の改札前にくんの姿が見える。
「くん!」
柱に寄りかかりスマホを眺めているくんに呼びかける。顔を上げたくんは、こちらを見て一瞬驚いた表情をした。
「くん?」
「浴衣だ」
「あ……うん」
「似合ってる。可愛いよ」
くんの言葉に大きく心臓が鼓動を打った。ああ、よかった。頑張って選んだ甲斐があった。
「あ、ありがとう……」
「俺の方こそ、誘ってくれてありがとう」
神社の場所を聞かれ、わたしはくんに神社の方向を案内するべく歩き出す。
「火曜日、ルブランに来てくれたって佐倉さんから聞いて。ごめん、あの日ちょっとバタバタしてて」
「ううん、カレー食べに行っただけだから……約束してたわけじゃないし。今週忙しかったんでしょ? 佐倉さんから聞いたよ」
「ああ、まあ……」
くんは少し申し訳なさそうな表情だ。おうちの事情、ということはくんからもあまり深くは言えないのだろう。「おうちのことでって聞いてるから」と伝えると、彼は頬を緩めた。
「うん、ちょっとね。スカイタワーの日にまた誘うって言ったのにあれから忙しくなって」
「ううん、わたしも旅行とか行ってたから」
「また会えてよかった」
カランと下駄の音と同時に、くんのストレートな言葉が耳に響く。
「……わたしも」
震える唇で言葉を紡ぐ。顔がうまく見られなくて、わたしは俯いてしまった。
神社に着くとすでに多くの人で賑わっている。明治神宮のような大きい神社ではないけれどこのあたりでは大きい方の神社で、最近ではSNSで取り上げられたこともあって例年より人出が多く感じる。
「すごい人だ」
「うん……あ、境内はこっちだよ」
何はともあれ最初はお参りからだ。手水舎で手を洗い、境内でお参りの順番を待つ間にお財布から五円玉を取り出した。いつもは「成績がよくなりますように」とか「平和でありますように」とかぼんやりしたお願い事だったけれど今年は違う。
お参りの順番が来る。お賽銭を入れて願うのは「くんともっと仲良くなれますように」だ。今のわたしの、一番の願い。
目を開けるとすでに隣のくんはお参りを終えていたようで、慌てて列から外れる。
「ずいぶん熱心にお参りしてた。なにお願いしたの?」
「ひみつ!」
これはくんにだけは言えないお願いなのだ。そういうくんは? と聞き返すと「俺も秘密」と言われてしまった。
「とりあえず回ろうか。結構大きいお祭りだからいろいろあるよ」
神社の中にはたくさんの露店が並んでいる。焼きそばにお好み焼き、じゃがバターと夕飯には事欠かないだろう。
「焼きそばでも食べようか。定番だし」
「うん。じゃああっちに……わっ」
焼きそばののぼりの見える方向に行こうとしたら、人の波に押されてしまった。これは例年以上の混雑だ。
「大丈夫? 裾、掴まってていいよ」
「え、でも伸びちゃうし……」
「手の方がいい?」
「えっ!」
くんはそう言ってひらりと手を差し出してくる。
「手、わたし汗かいてるし……」
「じゃあ掴んでて。はぐれそうだ」
「う、うん……」
確かにこの人混みではすぐにはぐれてしまいそう。おそるおそるくんの白いシャツの裾を握った。人混みの中、焼きそばののぼりがあるお店まで歩いていく。くんが人混みをかき分けて、歩きやすいようわたしを先導してくれる。
お目当ての焼きそばと、隣の露店にあったたこ焼きを買って人混みを抜けた。飲食スペースはすでに満員で、わたしたちは隅の縁石に座ることにした。
「あ、おいしい」
たこ焼きをひとつ口に含むと思わずそんな言葉がこぼれた。たまたま目に付いた露店を選んだだけだったけれど、タコも大きいしなかなかの味だ。
「さんは毎年来てるの?」
「うん、地元の友達とね」
今年も一緒に行こうと誘いがあったのだけれど、「誘いたい人がいる」と言ったらみんなに「ちゃんと何があったか報告してよ!」と言われてしまった。報告できるような何かがあるとは思えないけれど、今日の思い出はずっと大事にしておこうと思う。
その後もいくつか露店を回って焼き鳥やあんず飴を食べて回った。射的の露店もあり、せっかくだからとやってみるとくんがどんどん的を当てるのでわたしは驚いてしまう。
「くん、すごくうまいね。射撃好きなの?」
「まあ、少しね」
「あ、ガンナバウトだっけ、今流行ってるゲーム。あれ?」
「ああ……聞いたことあるけどそれじゃない。でもそっちもやってみたいな」
「へえ……あ、怪盗団のカードなんてあるんだね」
ここの射的は点数制で当てた数をもとに景品を選べるようだ。景品の中には怪盗団のカード、マークをあしらったストラップ……いくつか怪盗団をモチーフにしたグッズがある。
「すごい人気。メジエド退治から本当にブームって感じだよね」
約一週間前、また怪盗団が現れた。今度の相手は世界的ハッカーだ。相手が大物と言うこともあり、渋谷だけではなく日本全体で怪盗団ブームになっていると言っても過言ではない。
「確かに」
「ちょっとすごすぎてびっくりするなあ……」
鴨志田先生や渋谷の犯罪グループは身近な存在だったため怪盗団の活躍に心躍らせていたけれど、さすがにメジエドなんて世界的なグループ相手では少し怪盗団が遠い存在に感じてしまう。もともと近いわけがないのだけれど。
「カードいる? 選べるみたいだけど」
「いいよ、本物持ってるから」
わたしの机の中にはまだ四月のときの予告状が残っている。誰にも見せてはいないけれどまだ捨てていない。
「そっか。お菓子でいい?」
「え……くんが当てたんだから、くんの好きなものにしなよ」
「俺ひとりじゃ食べきれないよ」
「……そう? じゃあね」
そう言われてしまったら甘えるしかない。欲しいお菓子をふたつ選んで、くんにお礼を言った。
「あ、かき氷」
射的を終え歩いている中で見つけたかき氷の露店。やはり夏祭りと言えばかき氷だろう。
「何味にする?」
「うーん……どうしよう……」
コーラやマンゴーなども捨てがたいけれど、やはり定番中の定番イチゴに心惹かれる。百円玉を二枚取り出しお店の人に注文すると、くんは抹茶を頼んだ。またどこか道を外れて食べようかと話していると、後ろからどんと男の人が当たってきた。
「わっ!?」
「あ、すみません!」
どうやら彼も人波に押されてしまったようだ。転ばずに踏ん張れたこともあり「大丈夫です」と答えたけれど、ちょっと背中が痛い。
「さん、大丈夫?」
「うん」
「かんざし、取れそうになってる」
「えっ!」
くんの言葉に慌てて頭に触れる。見えないけれど確かにちょっと崩れているようだ。慣れない髪型にセットしたから少しの衝撃で崩れてしまったのだろう。
「どうしよ……」
トイレとかで直せるだろうか。櫛や鏡は持ってきているけれど、この混雑具合ではトイレも混んでいそうだ。
「とりあえず外れよっか。向こうに座れる場所あるから」
「う、うん」
ここでうだうだ言っていても仕方ない。とりあえず参道を外れて奥まった場所にあるベンチに座った。そこで手鏡を取り出し髪を確認するけれど完全に崩れてしまっている。せっかく頑張ってセットしたのに。無理しないで慣れた髪型にしておけばよかったかな。
「さんの髪型、これ?」
「え……うん、そうだよ」
くんはさっとスマホを操作してとあるページを見せてきた。そこにはわたしが髪をセットする際参考したサイトが表示されている。
「これならできそうだ。やらせてもらっていい?」
「えっ?」
やらせてもらって、って、つまりくんがわたしの髪を結ってくれるということ?
「え、いいの……?」
「さんさえよければ」
くんの表情はいつも通りで、冗談の類で聞いているふうではない。
「じゃあ……お願いしてもいい?」
髪を結ってもらうなんて少し恥ずかしいけれど、きっとこんな機会二度とない。わたしは決心してくんにかんざしと櫛を渡した。
「もちろん」
よろしくお願いします、そう言ってわたしはくんに背を向けた。くんの指が、わたしの髪に触れる。髪を梳く優しい感触が心地いい。
「痛くない?」
「うん、大丈夫」
わたしの髪を整えるくんの指先はとても甘やかだ。壊れ物に触れるかのような優しい感触。緊張と恥じらいと、もうひとつ胸の奥が疼くような欲が、トクントクンと心臓を高鳴らせる。
「ひゃっ!?」
安心しきって身を委ねていると、突然うなじに冷たい感覚が走る。くんの指先が触れたようだ。
「……ごめん、手が滑った」
「う、ううん。大丈夫」
あ、まずい。もしかしたら耳や首まで真っ赤になっているかもしれない。
わたしのそんな不安をよそに、くんはてきぱきと手早く、そして優しくわたしの髪を整える。結ぶために引っ張られる髪の感触も決して強すぎず痛くない。くんの気遣いが指先から伝わってくるようだ。
ふと目を閉じる。お祭りの喧騒が遠くに聞こえ、くんの指の感触だけが伝わってくる。なんて甘やかな時間だろう。穏やかで優しく、夢のような時が流れていく。
「はい、できた」
「わ……すごい」
くんの声を聞き鏡を覗く。前だけしか見えないけれど自分でセットしたときより綺麗に整えられていることがわかる。
「後ろ、写真撮るね。こんな感じ」
くんが撮ってくれた写真を見てもやはり綺麗にまとまっており、そうそう崩れそうにもない。くんって本当に器用だ。
「くん、すごいね。ありがとう」
「どういたしまして。この写真いる?」
「うん、せっかくだから欲しいな」
くんにセットしてもらった髪型だ。できればずっと解かずに取っておきたい。けれどそれは無理だから写真だけでも残しておかなくては。
了解という言葉と共にくんから写真が送られてくる。……うん、とっても綺麗。わたしの髪ではないみたいだ。くんに見えないよう、こっそり写真を保存しておいた。
なんとなしに、うなじに触れた。先ほどくんの指先が触れた場所だ。先ほどまでかき氷に触れていたせいかくんの指はひんやりと冷たかったのに、触れた場所は、熱い。
それからも少しお祭りを回ると、あっという間にいい時間になってしまった。そろそろ帰らなくてはいけない。
名残惜しい思いを引きずりながら神社を出たところで、くんに「家まで送るよ」と言われた。たったの十分程度の時間でも一緒にいたい。わたしはその申し出をすぐに快諾した。
くんとふたりだといつもの道がきらきら輝いて見える。無機質な街灯もどこからか聞こえてくる掠れたラジオの音も、すべてがロマンチックな色合いだ。
「学校、始まったらすぐに修学旅行だね」
「ハワイだっけ。全然準備してないな……」
「ふふ、観光地だし忘れ物しても向こうで揃うって慣れてる子が言ってたよ」
「そっか。自由行動の予定ってもう決めてある?」
「ううん、全然」
「じゃあ、最終日予約」
「えっ」
突然聞こえてきた「予約」という言葉にぱっとくんの顔を見た。街灯に薄い灯りに照らされたくんの表情はとても甘やかだ。
「一緒に回ろう」
「も、もちろん!」
うわ、どうしよう。ただでさえ楽しみな修学旅行、くんとの約束までしてしまった。スカイタワーに誘われたあの日から、ずっと幸せなことばかりが続いている。もしかしたら全部夢なのではないかと思うほど。
どうしよう。どこに行こう。シュノーケリング? スカイダイビング? ショッピング……はくんがつまらないかな。わたしはきっと、くんと過ごせればなにをしていたって幸せだろう。
ハワイでなにをしようか相談していると、あっという間にわたしの家の前についてしまう。つかの間の夢の時間も、もう終わりだ。
「家、ここ?」
「うん、ありがとうね」
家の前まで来ていよいよお別れの時間だ。四日後にはまた学校で会えるとは言え、さよならを言わなくてはいけないのがとても寂しい。
「駅の道わかる? そこ左に曲がって真っ直ぐ行くと大通りだから、そしたら駅見えてくると思う」
「うん、地図も出しておいたし大丈夫」
「……ん。またね、バイバイ」
「うん、また」
曲がり角はすぐそこ、くんは早々に見えなくなる。次に会えるのは四日後だ。夏休みに比べれば短いけれど、それでも寂しいと思う。
くんが整えてくれた髪に触れる。できればずっと、このままでいたい。
またすぐに、くんに会いたい。