カンパニュラの花言葉 九月


九月

 いよいよ二学期の始まりだ。いつもは憂鬱な始業式が楽しみでたまらない。だってまた毎日くんに会えるのだから。
 しかし早々にその高揚感に陰が差す。鴨志田先生の体罰やセクハラの件を学校ぐるみで隠蔽していたと週刊誌に取り上げられ、学校にまた警察の捜査が入ったのだ。通学路でも五月のあのときのようにジロジロと見られることが多くなった。
 けれどこれもハワイに行けば忘れられるだろう。少なくとも向こうで秀尽の生徒だからと言って注目を浴びることはないはずだ。
 九月に入ってすぐハワイの準備を始めた。パスポートに着替え、お金、水着……は、どうしよう。友達と回ることしか考えていなかったからずっと持っていた適当な水着を持って行く予定だった。くんと回るならちゃんとしたものを買った方がいいのだろうか。でもあまりに気合いを入れすぎていると引かれそうだ。
 うんうんと悩んだ結果、一緒に浴衣を買いに行った友達に再び相談することにした。
「ビキニは?」
「び、ビキニはちょっと……」
「別にちっちゃいビキニじゃなくても、タンクトップとかフレアのやつとかあるでしょ? ふわっとしたのならそんなに恥ずかしくないんじゃない?」
 なるほど……確かにワンピースタイプは余計に体型が目立つこともあるし、そこまで露出が多くないのであればビキニタイプの方がいいのだろうか。
くんがどういうのが好きなのかわからないけどさ、せっかくハワイの空の下だよ? 多少露出して攻めないと」
「せ、攻めるって」
「だってくん押しに弱そうだし」
「いや……弱くはないんじゃないかな」
 むしろ今までのくんを思うに、押しに弱いという印象はない。どちらかというと頑固だし、優しいけれど押してくるタイプの印象だ。
「へえ……そうなんだ」
 友人はクリアランスセールの水着を物色しながら呟く。
が最初くんと仲良くなり始めたときはびっくりしたけどさ、が好きになるぐらいなんだから、いい人なんだよね」
 わたしがくんと話すようになった四月、友人たちから「くんと話して大丈夫なの?」と聞かれたことが多々あった。そのたびにくんはいい人だよ、優しい人だよと訴え続けた甲斐もあり、今では友人からそんな言葉を聞くこともなくなった。
「優しい人だよ」
 くんは、優しい人。優しくて強い、素敵な人だ。
「そっか、頑張ってね。ハワイで決めてこいよ」
「決めてって……」 
「この水着なんかいいんじゃない?」
「それマイクロビキニじゃない!?」
 そんなふうに盛り上がってハワイの計画を立てていれば、あっという間に出発当日。しばしの間日本とお別れだ。
 ハワイにいる間は基本的に自由行動だ。海に入ったり、町で買い物をしたり……海は特に綺麗で、この青い海を見ただけで修学旅行に来てよかったと思える。
 そしてついに来た自由行動最後の日。約束の時間、友達に送り出されてくんとの待ち合わせ場所の海辺へと向かう。これまでの五日間でくんと話したのは街を歩いているときだけ。遠くで見かけたりはしたけれど、水着でちゃんと会うのは初めてだ。
 緊張しながら待ち合わせ場所に着くと、くんはすでにそこにいる。後ろを向いていてまだわたしには気づいていないようだ。
 立ち止まって深呼吸をひとつ、ふたつ、みっつ。……うん、よし、大丈夫。
くん」
 震える唇で名前を呼ぶと、くんがゆっくりと振り向く。くんの瞳にわたしが映った瞬間に、くんはふいと下を向いてしまう。
「ど、どうしたの?」
「……水着だと、可愛いって言ったらまずい?」
「えっ、あ……う、うれしい、です」
 結局選んだ水着は細かい花柄でトップにもボトムにもフリルがついたもの。ビキニだけれど露出面積はそう多くない。……うん、この水着でよかった。
「うん、可愛い」
「あ、ありがとう。くんも……眼鏡外すと雰囲気変わるね」
「そう?」
 くんがいつもかけている眼鏡は縁が太くレンズも大きいものだから、眼鏡がないとずいぶんと雰囲気が変わる。前々から綺麗な顔立ちだと思っていたけれど、眼鏡がないとそれが際だつ。それに……。
さん?」
「あ……」
 くん、思ったより鍛えているんだな、着痩せするタイプなんだな、なんてことを思ってしまった。な、何考えてるの、わたし。
「水着だとなんか……変な感じだなって」
「まあ……そうだね」
 少しの間、わたしたちの間に沈黙が流れる。ど、どうしよう。お互い水着だといつもと勝手が違う。
「……少し歩こうか」
「う、うん」
 海には何度も入ったし、青い海を眺めながらのんびりビーチを歩くのも楽しいだろう。くんの言葉に頷きふたりで散歩することにした。
さん、ハワイ来たことあった?」
「ううん、初めて。くんは?」
「俺も初めて。どんな感じかと思ったけどやっぱり海、綺麗だな」
「ね」
 底が見えそうなほどに青い海は、ハワイに着いて三日目の今日も飽きない。それどころか明日も明後日も見ていたいと思うほど。
「あ、そういえばモルガナちゃんはお留守番?」
「さすがにね。連れて来れなかったからおみやげ買って帰らないと」
「そっか。寂しがってるかもね、モルガナちゃん」
「んー……どうだろ」
 くんは視線を上にして首を傾げる。あれだけ毎日一緒にいるなら少し離れていただけでも寂しくなりそうなものだけれど、違うのかな。
「佐倉さんも双葉もいるし、結構ケロっとしてるんじゃないかな」
「ふたば?」
「ああ、ごめん。佐倉さんの……娘さん」
「佐倉さん、お子さんいるんだ。ちょっと意外かも」
 外見やお客さんとのやり取りを聞くに佐倉さんはひとりを謳歌しているのかと思っていた。けれど素敵な人だし、家庭があってもおかしくはない。
「いいお父さんだよ、佐倉さん」 
 そう話すくんの表情はほんの少し子供っぽく見えた。くんも保護司を引き受けてくれた佐倉さんに親のような感情を抱いているのだろうか。
「じゃあモルガナちゃんがいなくて寂しいのはくん?」
「俺は……別に?」
「そう? わたしはモルガナちゃんに会えないと寂しいけどなあ。帰ったらまた撫でさせてくれる?」
「モルガナがいいって言えばいくらでも。モルガナもさん気に入ってるみたいだし」
「本当? 嬉しいな」
 大好きなモルガナちゃん。モルガナちゃんもわたしを好いてくれているのならこんなに嬉しいことはない。
さん、本当にモルガナ好きだね」
「うん、可愛いしいい子だし」
「……ちょっと妬けるな」
 ぽつり、くんが呟いた一言にわたしは耳を疑った。
 妬ける? 誰が、誰に? くんが、モルガナちゃんに?
「え……」
 それはどういう意味なのだろう。わたしがモルガナちゃんを好きなことに、妬けるって、それは。もしかしたらわたしの都合のいい幻聴? いや、そんなことはない。わたしはこの耳で確かに聞いた。
 くんの目が、じっとわたしを見つめている。鋭い瞳はわたしをとらえて離さない。沈黙に耐えられなくなった、そのとき。
「ヘーイ! そこのキミたちニッポンジン?」
 抜けるような高い声がビーチに響く。振り向くと露店の男性がこちらに向かって手を振っていた。
「あ……わたしたちかな?」
「……みたいだ」
「えっと……行ってみようか。食べ物屋さんみたい」
「……そうだね」
 くんはふっと微笑むと露店の方へと歩き出す。彼の後ろを歩きながら、わたしは内心安堵していた。
「ニッポンジンならおまけするよ! カイトウの国だからね」
 そう言って露店のお兄さんたちはたいへん大盛りのガーリックシュリンプを用意してくれた。これは……ふたりで食べきれるかな。
「カイトウって怪盗団のことかな」
「だろうね。メジエドは海外でも有名だからこっちでもニュースになったらしい」
「すごいなあ……最初がうちの学校だなんて信じられない」
 そんな話をしながらふたりでベンチに座り早速食べ始めるけれど、食べても食べても終わらない。
「これ……すごく多くない?」
「多い」
「……食べきれる?」
「行ける」
 完全に手が止まったわたしと違い、くんはずっと同じペースで食べ続けている。お皿の上にあんなにあったエビはひょいひょいとくんの口へと運ばれ、あっという間になくなっていた。
くん……意外と大食漢?」
「普段はそんなに食べないけど、食べようと思えばいける」
「ね、あれやったことある? ビッグバンバーガーのビッグバンチャレンジ。三十分以内に食べきれば特典もらえるよってキャンペーンなんだけど」
「聞いたことはあるけどやったことないな。今度やってみるか」
 くんは無事に完食すると、舌でペロリと唇をなめた。
 実は友人が夜はワンコインだしと遊び半分でやったのだけれど三分の一で断念、ふたりで食べてようやく完食するほどだったのだけれど、くんなら成功しそうだ。
 ……うん。こういう「なんでもない会話」のほうが落ち着く。日本にいるときと変わらない会話が心地いい。
「……陽、だいぶ沈んできたね」
 いつの間にか陽は傾きはじめ空が赤らむ。青かった海もオレンジ色に染まり、水面に光が反射してきらきらと輝いている。
 幻想的な光景に目を奪われていると、くんが「綺麗だね」と呟いた。
「うん」
 そう話すくんの瞳もオレンジ色に染まっている。波が揺れるたびにくんの瞳も揺れる。ゆらゆら、きらきら。くんの頬がいつもより赤らんでいるのは、夕焼けのせいなのかな。わたしの頬が熱いのは、夕焼けのせいだけではないのだけれど。
 きゅっと胸の奥に甘い痛みが走る。この景色をくんと見られてよかった。今日一緒に過ごせてよかった。くんの隣にいられること、この上なく幸せだと思う。
 友達には「決めてこい」なんて言われたけれど、そんなことまだ考えられない。くんの隣にいるだけで幸せ、くんとおしゃべりできるだけで幸せ。今はこれ以上を求める気になれない。ただひたすらに、満たされている。



 楽しかった修学旅行から帰ってきてすぐ秀尽学園に衝撃が走った。校長先生が自殺したという発表があったのだ。
 校長先生とはそれほど関わりはなかったけれど、身近な人の死、しかもその原因が自殺というのはあまりにショッキングだ。楽しかった修学旅行が嘘のよう。昨日の朝の緊急朝礼からずっと心に影が落ちている。
「はあ……」
 放課後、すぐに帰る気になれなくて自席で頬杖をついたままため息を吐いた。
 生徒の中には校長先生の死を当然の報いだという人もいる。鴨志田先生のことを隠蔽していたという噂があるからだろう。だからと言って死んで当然なんて、わたしは言えない。
「あれ……」
 ぼーっと教室の中を眺めていると、くんが足早に教室から去っていくのが見えた。肩に掛けた鞄はいつもと違って萎んでいる。中にモルガナちゃんがいる様子はない。毎日連れてきていたのに一体どうしたのだろう。いてもたってもいられなくて、急いでくんを追いかけた。
くん!」
 昇降口のところでくんに追いつき呼びかける。振り向いた彼の表情は心なしか少し暗い。
さん、どうしたの?」
くんこそ、モルガナちゃんは? いない……よね?」
 わたしの小声の問いかけに、くんは視線を落とした。
「昨日……いろいろあって、出て行ったんだ」
「え……っ」
 モルガナちゃんが出て行った? あんなに毎日くんと一緒にいたのに?
「どこに行ったか心当たりは……?」
「……わからない」
 くんは壁に寄りかかり首を横に振る。その瞳は揺れていて彼の動揺具合が窺えた。
「あ、もしかして探しに行こうとしてたの? わたしも手伝うよ」
 先ほどくんが早々に教室を出たのは探しに行こうとしていたのかもしれない。呼び止めてしまって申し訳ないと思いつつ、探すのであればわたしも手伝いたい。
「いや、家で待とうかと思ってたけど……さんがいるなら出てきてくれるかもしれない」
 くんは小さな声で呟くとポケットからスマホを取り出した。「ちょっと待ってて」と言われたので、わたしはおとなしく操作が終わるのを待つ。
「大丈夫?」
「うん。ハワイで話したろ、双葉。ルブランでモルガナのこと待とうって言われてたけど、ちょっと渋谷探してみるって連絡したから」
「いいの?」
「モルガナが帰ってきたら双葉が連絡してくれるし大丈夫。それに……今のままじゃ帰ってこない気がする」
「……モルガナちゃんと、なにかあったの?」
 くんの様子から察するに、モルガナちゃんはただ迷子になったなんてわけではなさそうだ。おそるおそる聞くと、くんは目を伏せて「ちょっと喧嘩したんだ」と呟いた。
「だから待ってても多分帰ってこない。でもさんが探してるって知ったら顔出してくれるかも」
「そうかな……わからないけど、探すの手伝うよ」
「ありがとう。とりあえず渋谷に行こう。駅前と……あとセントラル街あたり」
 くんの言葉に頷き、わたしたちは電車に乗って渋谷へと向かった。駅前広場からセントラル街、そこから少し外れた路地を見て回ったけれど、モルガナちゃんの姿はない。
「モルガナちゃーん、出てきてー」
 そんな呼びかけに一匹の猫が現れたけれどふつうの三毛猫、モルガナちゃんではない。セントラル街を抜けた先の住宅街も、駅前広場の植え込みも見た。途中「あの人たちなにしてるの?」なんてひそひそと話されたけれどそんな言葉を気にしている暇はない。モルガナちゃんは賢い子だけれど、あの小さな体ではなにがあるかわからない。事故に遭うかもしれないし、少し前には猫の変死体が渋谷周辺で見つかったという話があった。もしモルガナちゃんも……なんて思うと背筋が凍る。
 探しても探しても、モルガナちゃんは見つからない。こんなところには絶対いないだろうと思いつつ、飲食店の外にあるゴミ箱まで開けてしまった。けれど悪臭に顔をしかめただけで、収穫はない。
さん、もう今日はいいよ」
 日が傾いてきた頃、くんが沈んだ声でそう言ってきた。
「でも……」
「これだけさんが探してたらモルガナも多分気づくよ。それでも出てこないんだから、この辺りにはいないんだと思う」
「ん……」
「今日は帰ろう」
 くんに促され、ふたりで田苑都市線のホームへ降りた。帰宅ラッシュの真っ只中で、ホームは人でごった返している。
「今日、付き合わせてごめん」
 電車を待つ列の中、くんがぽつりと呟いた。
「ううん、わたしが一緒に探すって言ったんだし……」
「……昨日から元気ないみたいだった。校長先生の件?」
 あ、と声を出してしまった。モルガナちゃんがいなくなり不安になっているくんに、こんな気遣いをさせてしまうなんて。
「別に、元気なくないよ?」
「空元気ぐらいわかるよ」
 精一杯の強がりはいとも簡単にくんに見破られてしまった。わたしの演技が下手なのか、くんが聡いのか。
「話したら、楽になるかも」
 くんはわたしに優しく促す。くんって本当に優しい人だ。こんなときまで人の心配するなんて。
 ためらいながらも、わたしは口を開いた。
「……校長先生のことなんだけどね」
「うん」
「話したこともない人だったけど、あんなふうに亡くなってびっくりしたし……死んで当然、なんてこと言う人たちがいるのも、すごく怖くて」
「うん」
「死んで当然なんて、わたし思えなくって……。悪い人だったかもしれないけど、だからってそんなこと言うの、怖いよ」
「俺もそう思うよ」
 くんは小さな、けれど優しい声で頷いてくれる。言葉にして吐き出すと、ほんの少し軽くなった気がした。
「……ごめんね、くんもたいへんなのにこんな話しちゃって」
「いや、俺も校長先生のことは驚いたから」
「……モルガナちゃん、早く見つかるといいね」
 くんは視線を落として、肩にかかる鞄を持ち直す。
「モルガナがいないと、鞄が軽いんだ」
 ぽつり、小さく呟いたくんの横顔は暗い影が落ちている。その姿にどうしようもなく胸が痛む。
 モルガナちゃん、早く帰ってきてあげて。こんな寂しそうなくん、初めて見たよ。

 次の日、登校してきたくんの鞄にモルガナちゃんはいない。昨日も帰らなかったようだ。放課後、今日もどこか探そうかと聞くとくんは「いや」と首を横に振る。
「実は喧嘩したとき、竜司や杏も一緒だったんだ。だからみんなで探そうって話になって」
「あ……そうだったんだ」
「うん。ちゃんと仲直りするなら俺だけじゃダメだし。見つかったらすぐに連絡するから。さんは気にしないで」
「うん、見つかるといいね」
「ありがと」
 くんはそう言って足早に教室から出て行く。少ししてから窓から校門を見ればくんと高巻さん、坂本くんに新島先輩が連れ立って駅の方角へと駆けて行くのが見えた。
 くんがだんだんと小さくなっていく。なぜだか置いて行かれた気がして思わず手を伸ばしたけれど、わたしの指先は窓にこつんと当たるだけだ。

 見つかったらすぐ連絡するからとは言ってくれたものの、どうしてもモルガナちゃんのことが気になってしまう。その日は四軒茶屋で降車しルブランの近辺でモルガナちゃんの姿を探した。もちろん四茶の周辺ならくんが見つけているだろうけれど、じっとしていられなかったのだ。
 結局その週、モルガナちゃんが見つかることはなかった。くんも学校が終わると一目散に教室を出て行ってしまっていたので、モルガナちゃんのことを深く聞けないままだ。
 くんからモルガナちゃんが見つかったと連絡があったのは十七日の土曜日だった。その報告に「よかったね」と返信するとくんからはベッドでくつろぐモルガナちゃんの写真が送られてきた。
「仲直りできた?」
「うん。どうにか」
「そっか。よかった」
さんも、探すの手伝ってくれてありがとう」
「わたしはそんな……結局見つけられなかったし」
「でも手伝うって言ってくれたとき嬉しかった」
 くんの言葉に胸の奥がきゅんと鳴る。くん、相変わらず優しいな。
「火曜日、屋上でお昼食べない? モルガナと三人で」
 そのメッセージに、イスの背もたれから飛び起きた。
「もちろん!」
「よかった。じゃあ、火曜日屋上で」

 そうしてやってきた火曜日。お昼休み、トイレで髪を整えてから屋上へと向かうと、そこにはすでにくんとモルガナちゃんがいる。
「モルガナちゃん!」
 モルガナちゃんの元へと駆け寄ると、足下にすり寄ってきてくれる。靴下越しに感じるモルガナちゃんの毛並みは心地いい。
「よかった。本当に帰ってきてくれたんだね」
 モルガナちゃんは「にゃ」と大きな声で応えてくれる。口角をきゅっとあげたこの表情、笑顔満天といった具合だ。
「心配かけて悪かったって言ってる。さんも一緒に探してたって話したから」
「そんな……わたしはいいんだよ。でも本当に帰ってきてくれてよかった」
 もう一度モルガナちゃんを撫でると、モルガナちゃんは甘い声で鳴く。なんだか以前とモルガナちゃんの様子が違うような気がするのは気のせいだろうか。前より甘えた、明るい雰囲気に思える。
 モルガナちゃんはひょいと飛び跳ねると、屋上の端の机の上に乗り前足で天板をとんとんと叩く。
「早く食べようぜ、ってさ」
「う、うん」
 先ほどの「心配かけて悪かった」という言葉もそうだけれど、くんって本当にモルガナちゃんの言葉がわかるみたいだ。なんとなくわかる、なんてぼんやりした話ではなく、人間同士のコミュニケーションと同じようなレベルに感じる。
 モルガナちゃんに促され、端のイスへ座り持ってきたお弁当を広げる。くんのお昼ご飯は購買のパンのようだ。
「モルガナちゃん、どこで見つかったの?」
「どこでっていうか、モルガナが怪我してたところ拾ってくれた人がいて」
「えっ、怪我……!?」
 くんの言葉を聞いて思わずモルガナちゃんを凝視する。
「もう大丈夫だから」
 くんの声に応えるように、モルガナちゃんは高い声で鳴いてみせた。確かにぱっと見えるところに怪我らしい怪我は見当たらない。
「そっか、よかった。でもよくこんな短い間に拾ってくれた人見つけられたね」
「その人、うちの先輩だったから。奥村春って人なんだけど」
「奥村?」
「知り合い?」
「あ、いや……奥村って今話題だから、つい」
 今ブラック経営で話題のビッグバンバーガーの経営はオクムラフーズ。槍玉に挙がっている社長の名前も奥村だったはずだ。
 とはいえ奥村なんて特別珍しい名字でもないし、ただの偶然だろう。
「モルガナちゃん?」
 ふと気づくと、先ほどまでにこやかにくつろいでいたモルガナちゃんが険しい表情に変わっている。きゅっと目を吊り上げた、怒りに満ちた雰囲気だ。
「モルガナ、落ち着いて」
 くんはモルガナちゃんをなだめるように、モルガナちゃんのおしりのあたりをぽんぽんと撫でるように叩いた。
「……どうかしたの?」
「オクムラフーズに怒ってるみたいだ。モルガナ、正義感が強いから」
 なだめられたモルガナちゃんは前足を伸ばした、いわゆるエジプト座りで俯いた。先ほどより少し和らいだようだけれど、相変わらず表情は険しい。
「やっぱり一緒にいると似るのかな」
「え?」
「正義感が強いなんてくんみたい」
 理不尽を強いる人が許せない、困っている人を見過ごせない。正義感なんて言葉はくんのためにあるように思う。
「それとも似てるから一緒にいるのかな」
「どうだろ」
「……怪盗団も許せないって思ってるのかな」
 ぽつりと、そんな言葉が漏れた。
「……どうだろう。怪盗団は早く改心させろってみんな言ってるけど」
「ね、なんかちょっと怖いな……」
 くんの言うとおり、最近は学校でもネットでも奥村社長について怪盗団に改心を急かすような言葉が目立つ。それは奥村社長を許せないからと言うより、ただ怪盗団の活躍を見たいと言った具合だ。いや、むしろ有名人が謝罪の会見をするところを見たいと言ったほうが正しいだろう。ただのエンターテイメントの一種として話題にしているだけに聞こえる。
 思えば校長先生のときもそうだった。鴨志田先生のことを隠蔽していたからと言って校長先生の死を当然だと笑う生徒たち。悪人が罪の報いを受けることを娯楽として消費している感覚は今と同じだ。あのときもちらほらと「きっと怪盗団がやったんだ」と言う声があった。
「もし怪盗団が奥村社長を狙ったら怖いって思う?」
 くんのその問いには即座に首を横に振った。
 実際怪盗お願いチャンネルを見ても、オクムラフーズの従業員や関係者と見られる人からの被害の訴えは多い。それらすべてが本当のものか書き込みだけで真偽は判断しかねるけれど、真実なら怪盗団が狙ってもおかしくはないだろう。
「苦しんでる人がいるなら助けてあげてほしいなって思うよ。今までだって、それで救われた人たちがたくさんいるんだし」
「……うん」
「どうなるか、わかんないけどね。怪盗団が狙うかもわからないし」
「まあね」
「ご、ごめんね暗い話しちゃって。せっかくモルガナちゃん帰ってきたばっかりなのに」
「いいよ。さんの思ってること、ちゃんと聞きたい」
 くんは真っ直ぐな目でわたしを見つめた。相変わらず心まで射抜かれるような鋭い視線だ。わたしはきゅっと手を握った。
「……ありがとう」
 くんって本当に不思議な人だ。思えばまだ出会って間もない頃からくんには他の人には言えないようなことも話してしまった。きっとそれは、くんはいつもわたしの感じていることを否定しないで聞いてくれるから。
 お昼休みが終わる五分前、昼食を食べ終えたわたしたちは屋上のドアを閉めた。
「そういえば屋上って立ち入り禁止なんだよね。全然忘れちゃってた」
 春からくんに連れられ何度か訪れていたからつい失念していたけれど、屋上に入ったことがバレたらお説教ものだ。
「悪いことしてるなあ……」
「怪盗団に改心させられる?」
「ええ……まさか?」
 くんの冗談にクスクス笑っていると、モルガナちゃんがするりと彼の鞄から顔を出した。
「帰ってきて本当によかった」
「うん」
 モルガナちゃんがいなくなったときのくんの寂しげな横顔が頭に浮かぶ。ずっと帰ってこなかったらどうしようかと思ってしまった。
「……さん」
 くんはモルガナちゃんを鞄に入るよう促すと、わたしのことを真っ直ぐ見つめる。
「十月の半ばぐらいまでバタバタしそうなんだ。ルブランに来てもらっても時間とれないかもしれない」
「あ……そうなんだ」
「うん。でもまた落ち着いたらどこか行こう。話したいこともあるから」
「話したいこと?」
「うん」
 話したいことって、なに? それを聞きたいけれど、きっとそれは十月の半ばまでお預けなのだろう。少しそわそわとする気持ちを抑えながら、階段を下った。