カンパニュラの花言葉 十月


十月

 一緒にお昼を食べたときの言葉の通り、あの日からくんは少しバタバタしているようだった。毎日放課後のチャイムが鳴ると足早に教室から去って行く。ずいぶん忙しそうだ。今思い返すと一学期にもそういうシーンをよく見ていた。以前はこんなこと気にも留めていなかったけれど、今はくんの背を見送るだけというのが無性に寂しく感じる。
 十月二日、日曜日。友人との約束のために田苑都市線で渋谷へと向かう。電車が四軒茶屋駅に停まったとき、くんはどうしているだろうなんて考えてしまった。
 ドアに一番近い席に座って出発を待っていると、ドアが閉まるギリギリのところでひとりが駆け込み乗車してくる。その人はまさかのわたしが考えていた相手、くんだ。
「あれ、さん」
「偶然だね」
 くんはわたしの隣に座ると、ふうと小さく息を吐いた。
「……お疲れ?」
「あ、ごめん。うんまあ……バイトとか頼まれ事とか、いろいろ重なって」
 眼鏡をずらし目頭を押さえるくん。背中を丸めている様子から見て大分疲れが溜まっているようだ。
「大変みたいだけど、あんまり無理しないでね」
「ありがと、ほどほどにするよ。とりあえず一番大きいのは落ち着いたから……」
 くんは言葉尻を濁すと、口元に手を当て少し考える仕草を見せる。
「もうちょっとしたらほかのことも落ち着くと思うから、そうしたらまた、どこか行こう」
「え……っ、あ、うん。もちろん」
「うん」
 くんの微笑みを携えたお誘いにぽっと顔が熱くなった。夏の間は何度かくんと出かけたりしたけれど、二学期に入ってからはどこかに行ったりはしていない。その代わりハワイという特大イベントがあったのだけれど、それでもまたどこかに行けたら嬉しいと思う。
さんは渋谷まで?」
「うん、友達と約束してて。くんは?」
「俺も渋谷。バイトだけどね」
 そんな会話をしているとトレインニュースが流れる。またオクムラフーズの件だ。今度は怪盗団の予告状が奥村社長の元に届いたというもの。
「……気になる?」
「えっ、あ……」
 ニュースに気を取られているとくんがわたしの顔をのぞき込んでくる。
「……やっぱり気になるかな。予告状出されて二日経つし……」
 今までの法則から言って予告状が出されてから改心まで間があった。今回、奥村社長になにか変化があるとすればそれはいつぐらいなのだろう。
「でも、なんか……」
 予告状が出されたと報道があった日もそうだったけれど、今も電車の中でひそひそと声が聞こえてくる。「また土下座見れんの楽しみ」「なんでうちの上司もやってくれねーんだよ」なんて、嫌な声が。
「やっぱりちょっと、街の雰囲気、怖いな……」
 たとえば渋谷の犯罪グループのときは、これで助かるかもしれない、捕まってくれたら安心できるなんて声がほとんどだったのに、今は怪盗団への文句や興味本位のゴシップネタ扱いがほとんどだ。怪盗お願いチャンネルの中には「ありがとう、これで助かる」という書き込みを見たこともあるから、きっと本当に怪盗団に感謝しているオクムラフーズの人もいるのだろう。それでも、この圧倒的な街の声がわたしには怖い。
「九月ぐらいからずっと、こんな感じで……ちょっと怖いな」
「うん、確かにちょっと変な感じだ。でも……」
 くんが言葉の先を紡いだ瞬間、対向列車とすれ違う。轟音で何を言ったか、うまく聞き取れなかった。
「ごめん、今よく聞こえなくて……」
「いや、たいした話じゃないから」
「あ……っ、もう渋谷着いたね。降りなきゃ」
 そんな話をしているうちにあっという間に渋谷駅だ。わたしたちは慌てて電車から降りた。
くん、バイトって……」
「地下モールの花屋。さんはセントラル街まで?」
「うん。ブチ公前で待ち合わせなの」
「そっか」
「じゃあ……また」
 くんの後ろ姿を見送りながら、先ほどのくんの言葉を反芻する。
「やらなきゃ、いけなかった……?」
 途切れ途切れに聞こえた言葉は、確かにそう言っていたような気がする。




 十月十一日。奥村社長が記者会見を開くとの報道が出た。鴨志田先生や画家の斑目と同じように、奥村社長も改心するのだろうか。罪状を告白するのだろうか。少し恐怖心を抱えながら視聴した記者会見の場で、奥村社長は亡くなった。
 会見から一夜明けた今日も奥村社長の件で持ちきりだ。地元の駅も通学電車の中も、蒼山一丁目を降りて秀尽に向かう最中も。校長先生の死から街全体がざわついていたけれど、より一層。「奥村の会見見た?」「やばくない?」聞こえる声が、怖い。
「あ……」
 学校までの道を歩いていると、前にくんの姿が見えた。無性にくんと話したくて、一目散に彼に駆け寄った。
くん、おはよう」
「……ああ、さん。おはよ」
 くんは目を細めてそう返してくれる。その表情はいつものように優しげで……。いや。いつもと同じように装っているけれど、違う。どこか影が落ちていて不安げだ。
「……くん、大丈夫?」
 くんは一瞬驚いた顔をすると、背を少し丸める。
「ちょっと寝不足かもしれない。あんまり眠れなくて」
「あ、そっか……」
 くんも昨日の奥村社長の会見を見ていたのだろう。怪盗団のことを応援している旨を以前話していたし、あれだけ話題にもなっていたのだから当然だ。
 けれど、くんの暗い表情は昨日の会見がショッキングだっただけとは思えない。それ以上のなにか、もっと根が深いもののような、そんな気がする。
 するけれど、それを聞くのは躊躇われた。「気がする」だけで明確に言葉にできないし、そんな状態で聞いてもまた寝不足だと言われるだけだろう。
 結局その後は言葉を交わすことなく、教室まで隣で歩くだけだった。


 その日も、その次の日も、世間は奥村社長の死の話題ばかり。当初は死の瞬間が生中継されてしまうというショッキングな部分にばかり注目されていたけれど、だんだんと「あれは本当に病死なのか?」という論調になってきた。奥村社長の死は、怪盗団が引き起こしたものなのでは? という説だ。
 怪盗団の予告状の直後に起きた奥村社長の謝罪会見。その会見の最中に起きた奥村社長の死。見せしめのためにあのタイミングで殺したのでは? と。
 実際のところなんて怪盗の正体が分からない以上わかるはずがない。けれど世論は加熱する一方だ。怪盗団を取り締まれ、捕まえろ。あんなに礼賛していたというのに。手のひらを返すような勝手で激しい世間の言葉たちに、わたしはなんだか疲れてしまった。
 そしてなにより、あのときからくんの様子が少しおかしい。相変わらず暗い雰囲気のままだ。それに十月の頭に会ったときは「もう少ししたら落ち着く」と言っていたのに九月の下旬より毎日慌ただしく教室から出て行く日々だ。先日のようにたまに会う登校中もその横顔はずいぶんと険しい。もうすぐ中間テストが迫っていたけれど、一緒にテスト勉強しようなんて誘うこともできなかった。モルガナちゃんがいなくなったときとは少し違う。寂しげというより迷っているような、そんな様子が窺えた。
 くんになにがあったのだろう。来週に控えた定期試験にも集中しきれず、登校中の通学電車の中でもそんなことばかり考えてしまう。
「はあ……」
 憂鬱な気持ちに追い打ちをかけるのがこの満員電車だ。秀尽に入学してから一年半この満員電車で登校しているけれど未だに慣れない。特に今日は雨のせいかいつもより混雑が酷い。身動きひとつ取れないような状況だ。
 ガタンと大きく車体が揺れ、寄せる人波に顔をしかめる。渋谷まであと一駅、もう少しの辛抱だ。きゅっと抱えた鞄を持ち直した瞬間、隣に立つ洸星高校の制服を着た女子生徒の様子がおかしいことに気づいた。顔は青白く、俯いたまま小さく震えている。体調でも悪いのだろうか。心配になって横目で見るのではなく顔をそちらに向けると、彼女のすぐ後ろの男性が異様なほど彼女に接近していることに気づいた。もしかしてと思いおそるおそる視線を下げれば、やはり男性の手は彼女のスカートの下へと伸びている。
 完全に痴漢だ。彼女を助けなくては。そう思うけれど咄嗟のことでなにをすればいいかわからない。ええと、そうだ。「痴漢です」と声をあげなくては。
「……っ」
 口を開こうとしたけれど、喉が渇いてしまって声にならない掠れた音しか出なかった。こんなことでは駄目だ。震える彼女を助けなくては。そうだ、そう。四月のあのとき、くんがわたしを助けてくれたように、わたしも声をあげなくては。
 確かどこかで、痴漢だと声をあげるのは実際の場面では難しいと聞いたことがある。事実今わたしも当事者でもないのに声がうまく出ない。その代わりの対処法が確かあったはず。必死に頭を働かせて思い出す。そうだ、確か。
「ひ、久しぶり! 元気だった?」
 周囲に響くような大きな声で、震える彼女に声をかけた。もちろん彼女とは面識がない、けれど、知り合いのように振る舞うだけで痴漢には効果があると聞いたことがあったのだ。
「え、あ……」
「卒業以来じゃない? ね?」
 わたしの声は完全に裏返っていて、演技だというのが丸わかりだ。それでも効果はあったようで、彼女の後ろにいた男性は彼女から遠ざかる。
「あ、えっと、うん、そうだね」
 彼女もわたしの意図に気づいたようで、震える声でわたしの言葉にあわせてくれる。その後はわたしが適当に思いついたことをぺらぺらと喋った。今度遊びに行こうとか、クラスのみんな元気だよとか、内容がまったくない適当な言葉たちだったけれど渋谷までの一駅の間を持たせるには十分だった。
「ありがとうございました」
 電車を降り痴漢の男性がそそくさと階段をあがるのを確認した後、洸星高校の彼女がそう言って頭を下げてきた。
「そんな、たいしたことできなくて」
「いいえ、本当に助かりました……」
 彼女はお礼を言ってくれるけれど、もっと早くに気づいていればあんなにおびえさせることもなかったし、結局あの痴漢は逃げてしまった。わたしにはもっとできることがあったのではと思わずにはいられない。
「本当に、怖くて……声、出そうと思っても出ないし、誰も助けてくれないかもって思って……」
 そう話す彼女の目からはらりと涙がこぼれる。鞄の中のハンカチを一枚渡すと、彼女は少し安心したような表情を見せる。
「少し休んでいきますか」
「いえ……学校行きます」
「無理しなくても……」
「……いえ、友達……親友の顔が見たくて。だから、大丈夫です」
 彼女はそう言ってもう一度わたしに頭を下げると、渋谷駅を駆けて行った。彼女の後ろ姿を見ながら、早く信頼できる子の側で安心できるといいな、なんて思う。
「はあ……」
 わたしも緊張の糸が切れたのか、その場で壁に倒れ込んだ。もう喉がからからだ。まだ「もっと他にできたのでは」という思いは拭えないけれど、それでも彼女を助けることができてよかったと思う。
 天井を見上げながら、先ほどの彼女の言葉を思い出す。
「誰も助けてくれないかもって思って」
 そう、わたしも四月のあのとき、彼女とまったく同じことを思った。渋谷のセントラル街、歩く人々はあんなに多いのにわたしを助けてくれる人はいなかった。ただひとり、くんを除いて。
くん……」
 やはりくんは強い人だ。あの人混みの中で苦しむわたしを見つけ声を上げてくれた。わたしを、助けてくれた。
 今日わたしが彼女を助けられたのもくんのおかげだ。あのときの渋谷を歩く人々のように見て見ぬ振りをしたくなかった。この手の届く人を助けたいと思った。くんがわたしにしてくれたように。
 思えばわたしになにかあったとき、いつもくんが力になってくれた。四月のときは男性に絡まれているところを助けてくれた。鴨志田先生の話も訝しがらずに聞いてくれた。モルガナちゃんがいなくなったときもわたしが校長先生のことで沈んでいるところを見逃さずに話を聞いてくれた。くんはいつだって優しくて、わたしを支えてくれた。今度はわたしが、くんの力になりたい。
「……よし」
 来週、テストが終わったら放課後くんに声をかけてみよう。何か悩みがあるなら聞くよ、と。話すだけでも楽になるかもしれないから、と。テスト期間は早々に授業が終わるので時間も取りやすいはずだ。
 そう決めて、気合いを入れて銀坐線のホームへと向かった。月曜からのテストもきちんと準備をしなくては。

 そして迎えた中間テスト最終日。本日の科目が終了した後、教室を出ようとするくんを呼び止めた。
くん!」
 教室前の廊下、振り向いたくんは少し驚いた表情でわたしを見ている。
さん、どうしたの?」
「あのね」
!」
 切り出そうとした瞬間、廊下の向こうから彼を呼ぶ声がした。新島先輩と坂本くんだ。
「あ……」
「あ、ごめん……呼んでるみたい、だね」
「いや……」
 くんはふたりのほうを向くと「後で行く」と大きな声で告げた。
「いいの?」
「うん、少しぐらいなら待っててくれるよ」
「あ……そう?」
 だったらその言葉に甘えるしかない。わたしは迷いながら口を開いた。
くん、最近何か、悩んでる?」
 ずっと聞きたかったこと。最近のくんはどこか様子がおかしい気がする。いつもの強い瞳が曇っているような、そんな気がしてならない。
「もし、悩みがあるなら聞くよ」
「いや……」
 くんは自身の首に触れて迷うような仕草を見せる。わたしは彼の唇が動くのを待った。
「……大丈夫。たいしたことじゃないから」
 しかし、くんの唇が放った言葉はわたしが期待するものとは正反対の言葉だった。
「あ……そう?」
「うん。心配かけたならごめん。テスト、お疲れさま」
 そう言ってくんは向こうで待っていた坂本くんと新島先輩の元へと向かった。胸の奥が、大きく軋む音がした。
 くんが何か悩んでいることは確実だ。この半年、なにかとくんと一緒に過ごしてきたのだから、くんがいつもと違うことぐらいわかるつもりだ。
 けれど、くんは何も話してはくれない。何もアドバイスできないかもしれないけれど、聞き役ぐらいにはなれると思っていた。
 話してくれないのは、わたしが頼りないから? それとも親しいと思っていたのはわたしのほうだけだったのかな。
 なんだかすごく、胸が苦しい。痛い。
 わたしはひとり、廊下で立ちすくんでいた。

 その週の日曜日、わたしはひとり渋谷の街を歩いていた。家にいても気が滅入ってしまいそうだからと外に出たけれどそれも失敗だったようだ。街を歩けば怪盗団は怖い、犯罪集団なんて声がそこかしこから聞こえてくる。今のわたしに、ネガティブな言葉はつらい。目当てもなく歩いていたらいつの間にか日は沈みきっている。
「はあ……」
 修学旅行から帰ってきてからずっと気落ちする日々が続いている気がする。楽しかった夏やハワイが嘘のよう。
 ……うん。夏は、楽しかった。スカイタワーに誘われて、くんのことを好きなのだと自覚して……夏の終わりに行った夏祭りで結ってもらった髪の写真は今も大事に保護してある。ハワイで見た夕陽も、ずっと胸に焼き付いている。
 あの頃は、少し、ほんの少しだけ、両想いなのかもと思ったりもした。少なくとも嫌われてはいないはずだと。それは全部勘違いだったのかな。
 はあ、と大きくため息を吐いた。横にいるブチ公も心なしか沈んで見える。
「ねえ、ちょっと道聞きたいんだけど、いいかな?」
 落ち込む中、突然わたしに話しかけてきたのはひとりの男性だ。同い年か少し年上ぐらいに見える。
「はい。どこですか?」
「TOYOシネマズなんだけど」
「映画館ならセントラル街を真っ直ぐ行って……」
「ん~ちょっとわかんなかったんだよね、案内してくれない?」
「わっ!」
 男性はセントラル街を指したわたしの手をぐいと引っ張る。その瞬間すべて察した。道がわからないのは嘘、ナンパの口実だ。
「あの、わたし人を待ってるので」
「嘘だあ、だってずっとここでぼーっとしてたじゃん。暗い顔でさ」
「いえ、本当に……」
「あ、彼氏とケンカでもした? だったらぱーっと遊ぼうよ」
 彼氏。喧嘩。そのワードにきゅっと胸が痛んだ。彼氏でもない。喧嘩でもない。この状態は、一体なんなのだろう。
「やっぱり図星? じゃあいいじゃん、ちょっとぐらい。彼氏に内緒でさ」
「あ、いや、違います……っ」
 男性はするりとわたしの肩に腕を回してくる。気持ち悪い。脳裏にそんな言葉が浮かぶけれど、怖くてうまく体が動かない。
 嫌だ、怖い、気持ち悪い。誰か助けて。誰か。そう祈っていると、ぐいと反対側の腕を誰かに引っ張られた。
 だれ、とおそるおそる振り向くとそこにいたのは先ほどまで脳裏に浮かんでいた人だった。
くん!?」
 そこにいたのはくんで、彼はわたしと男性の間に体を入れると鋭い視線で男性を睨みつける。
「なに、彼氏?」
「そうですけど」
 男性の問いかけに即答するくん。わたしは思わず声を出しそうになったけれどぐっとこらえた。くんはわたしを助けるために、適当な嘘を吐いているのだ。
「なんだよつまんねーな。……つか、どっかで」
 男性は不機嫌な表情でじろじろとくんを見ると、「げっ」と大きな声を出して顔面を蒼白させた。
「お前、前科者の……犯罪者ってやつ!」
 前科者、犯罪者。四月の頃によく聞いたそのワードに、わたしは考えるより先に口を開いていた。
くんはそんな人じゃない!」
 ぐいと前に乗り出して声を荒げた。違う、そんなの違う。くんは優しい人。困っている人を見過ごせない優しい人。何度も何度も、今みたいにわたしを助けてくれた。
「ひっ、やべ……」
「あ……っ」
 男性は近寄りたくないと言わんばかりに焦るように駅の方へと走り出してしまった。残されたのは、わたしとくん。
さん、大丈夫?」
「あ……うん。ありがとう。ぼーっとしてたら絡まれちゃって……」
「そっか。変なことになる前でよかった」
「ん……」
 しん、と小さく沈黙が流れた。会いたかったくん、話したかったくん。でも、何を話せばいいのだろう。
「……さん、噂のことになると俺より怒るよね」
 沈黙を破ったのはくんだ。少し冗談めかした物言いに、わたしは唇を尖らせた。
「だって……くん、本当にいい人だから」
 くんはいい人。優しい人。本当にそう。四月に助けてもらったあの日から、ずっとずっとそう思ってる。
 そう、くんは優しい人だ。わたしはそんなくんの力になりたい。くんがわたしを助けてくれたように、くんを助けたい。
 話してくれないのが悲しいなんて、そんな自分勝手な感情は置いておこう。嫌われてもいい。……前みたいに話ができなくなってもいい。くんを、助けたい。
「あの……くん。なにか悩みがあるなら話して欲しいの」
 ぎゅっとスカートの裾を握って、きっとくんの目を見た。この間とは違う。迷いながらじゃない。ちゃんとわたしの意思が伝わるように。
「わたしね、くんのこと本当に優しい人だって思ってる。これまでたくさんくんに助けられてきたから。だから今度はわたしがくんを助けたいの。お節介かもしれないけど、くんの力になりたい」
 そこまで言い切って、きゅっと唇を結んだ。ドクンドクンと大きく心臓が鳴っている。口を閉じていないと飛び出してしまいそう。
「……ちょっと、今から時間ある?」
「え……っ、あ、うん」
「じゃあちょっと付き合って。ルブランで話そう」
 話そう、その言葉に全身の力が抜けるような感覚に陥った。もしかして、届いたのかな。何か力になれるのかな。わたしは震えながらくんの後を追ってルブランへと入った。
 上に行って、と言われたのでわたしはひとりくんの部屋のソファに腰かけた。
「はい、お待たせ」
 以前に来たときより賑やかになった棚を眺めていると、くんがカフェオレを持ってきてくれた。
「あ、ありがとう……」
 受け取ったカップに口をつける。コーヒーの苦みが確かにあるのに、ふんわりと甘くてまろやかな口当たり。全身に染み渡っていくような優しい味だ。最初に飲んだときからおいしいと思っていたけれど、またおいしくなったように思う。
「あ、モルガナちゃんは……?」
 四茶までの電車の中で時折鞄から顔を出していたモルガナちゃんの姿は部屋の中にない。階下の方にいるのだろうか。
「込み入った話になるからって言っておいたから、散歩でもしてるんだと思う。夜には帰ってくるから」
「そっか……」
「話なんだけど」
 くんの言葉に、ぴんと背筋を立てた。
さんから見て、俺ってどんな人間?」
「えっ?」
 立てたら、想像もしていなかった問いかけにふにゃりと肩の力が抜けてしまった。あ、あれ。くんから話を聞けると思っていたのだけれど。
「聞かせて欲しい」
 思わぬ問いだったけれど、くんの声は真剣そのものだ。わたしは深呼吸をして、考えながら唇を動かす。
くんは……何度も言ってるけど優しい人で……」
 いや、それだけじゃない。それだけで語れる人ではないはずだ。
「……ちょっとまとまらないかもしれないんだけど、最初から話していい?」
「最初?」
「四月のときの、印象から」
 わたしの言葉に、くんは首を縦に振って頷いた。
「その……最初は噂のこと信じ込んでたから怖かったの。なんでうちのクラスに来るんだろうって、思ってた。でも……転入して少したった頃、渋谷で絡まれてるときに助けてくれて、思ってたより悪い人じゃないのかなって思って……」
 ぽつぽつ、四月からのことを思い出しながら話し始める。あのときからあったいろいろなことを。
「だって、あのとき絡まれてるわたしのこと見てる人はほかにもいた。でもみんな知らんぷりだった。なんで誰も助けてくれないんだろうってすごく怖かった。でもくんは助けてくれた。ただのクラスメイトで、一度も話したことないどころか、噂のこと信じ込んで距離をとってたわたしのこと。その後お礼を言いに行ってみたら無事でよかったって言ってくれて。噂とは全然違う普通の人……ううん、優しい人だって思ったの。その後も何度も話すようになって、わたし以外の人を助けるところを見たりして噂のほうが嘘なんだって思い始めて……。六月ぐらいだっけ、図書室で噂のことで大声出してことあったでしょ。あのときわたし、どうしても放っておけなかったの」
 そう、あのとき考えるより先に体が、唇が動いた理由はきっと「それ」だった。
「四月のときに渋谷でわたしのこと気づいていても見ないふりした人たちみたいになりたくなかった。くんみたいにちゃんと……声をあげられる人にならなくちゃって思った。その後、ここでくんの噂の本当のことちゃんと聞いて、本当にすごい人だなって思った。だって、知らない人のこと助けて冤罪なんて、もう誰のことも助けないって思ったっておかしくないのに、くんはわたしのこと助けてくれた。他の人のこともそう。冤罪のことだって、大変な目にあって周りからも勝手にいろんなこと言われたのに、周りからの言葉はどうでもいいって言って……くんはすごく優しくて……強い人だって、思ってる」
 強い人、その言葉を紡いだ瞬間に、視界にあった手の中のコーヒーカップがじわりと歪んだ。
くんはわたしの、憧れの人だよ。強くて優しくて、わたしにはないものたくさん持ってる」
 そう、そうだ。くんはわたしの好きな人。だけれど、それよりずっともっと手前の部分がある。それはきっと、尊敬の気持ち。
「四月だけじゃない、いつもずっと助けられてきた。何かあったとき、こんなときくんならどうするだろうって考えてたから。だから、もしくんが何か迷っているなら助けになりたい。できることがあるならなんでもしたいよ」
 顔を上げ、真っ直ぐくんのことを見る。くんも真剣な瞳を返してくれる。
くんが教えてくれたの。ちょっとの勇気で誰かのこと助けられるって。わたしから見たくんは、優しくて強い人だよ。わたしの、尊敬する人」
 これが、わたしの思っているくんの全部だ。大好きな大好きなくん。きっとわたしが知っているところなんて彼の一面でしかないのだろう。それでも、わたしは間違いなくこう思っている。
「……ありがとう」
 くんは机にカップを置くと、目を細めてわたしに微笑みかけた。
「……俺が今悩んでるのはさんの言うとおりだよ。悩んでるって言うより考えなきゃいけないことが多くて迷ってる、っていう方が正しいかもしれないけど」
「……うん」
「ただ、俺ひとりの問題じゃないんだ。他の人も関わってる話だから、その人たちにちゃんと言わないと、さんに話すのはちょっと……難しくて」
「あっ」
 くんの言葉に、かあっと頬が熱くなる。そ、そうだ。その可能性をすっかり失念していた……!
 なぜかわたしはてっきりくんの悩みを個人の問題だと思いこんでいたけれど、他の人も関わった話の可能性だって考えられたはずだ。それならプライバシーに関わることも出てくるだろう、人にほいほいと話せるはずもない。
「ご、ごめんなさい……」
「なんで謝るの?」
「だってすごいしつこく聞き出そうとしてて……」
 本当に本当に恥ずかしい。他の人に配慮して話そうとしないくんの話を無理に聞き出そうとするなんて。穴があったら入りたい。
 顔を覆ってうなだれていると、くんがわたしの手に触れた。
「いや、俺の方こそ変に誤魔化そうとしてごめん。詳しいことは話せないけど、力になりたいって言ってくれて嬉しかった」
「う、うん……」
「……俺もさんのこと、少し話していい?」
 くんはわたしに顔を寄せて小さく話し出す。あまりに近くて驚いてしまったけれど、すぐそこに見えるくんの目が優しくて穏やかで、そしてなにより真剣で、わたしは何も言えなかった。
「四月に助けてくれてありがとうって周りに聞こえるように言ってくれたときも、六月に図書室で噂を牽制してくれたときも、俺はさんのこと優しくて強い人だなって思ったよ。最初、噂のこと気にして俺のこと避けてるのはわかってた。それぐらい周りを気にするタイプに見えたのに、あんなふうに言葉にするんだって」
「わたしは……」
「”優しくなんてない”?」
「……ううん。自分じゃ自分がどういう人間かなんてわからないけど、くんがそう思ってくれるの嬉しいよ。だけどね、くんがわたしのこと優しくて強い人って思ってくれるのは、くんのおかげだよ」
 あのとき行動に移せたのは、くんがいたから。見て見ぬふりをするのではなく、くんのように間違ったことに対して間違っていると言える人になりたかったから。わたしが優しいのなら、それはすべてくんのおかげだ。
「そういうところ」
 くんは口元に弧を描いて、優しくわたしに微笑みかける。
「スカイタワーに行ったときも話した。相手の長所を見つけられるところ、見つけた長所を相手に全部伝えるところ。さんのいいところだ。俺はさんのそういうところ、好きだよ」
 くんの言葉が、甘くわたしの心に響いていく。くんにそう思ってもらえることが嬉しい。言葉にして伝えてくれるのが嬉しい。
「ありがとう、すごく嬉しいよ」
 涙がにじんでしまうぐらい、嬉しい。もしかしたら嫌われたかななんて考えていたりもしたから。
「いや、それだけじゃない」
 くんはまた少し体をわたしのほうへと寄せる。肩と肩が触れて、顔と顔とがまた近くなる。くんの綺麗な顔が、すぐそこ。
 頬がじわじわと熱を帯びていく。くんの鋭い目がわたしを射抜く。今までと違う張りつめたような、しかしどこか柔和で甘やかな空気に、わたしの心臓が大きく鼓動を打つ。
さんの、全部が好きだよ。他の誰とも比べられないぐらい、特別に」
 その言葉と同時に、空気が晴れる音がした。くんの言葉が現実かわからなくて、わたしは小さく口を開けてしまう。何秒ぐらいたっただろう。ほんの三秒ほどか、それとも五分もたったような気もする。ようやくそこでわたしの唇が動いた。
「……う、そ」
「こういう嘘は好きじゃない」
「あ、違くて、その……」
 くんの言葉を嘘だと思っているわけではない。ただ、あまりにわたしに都合のいい夢のようで、現実のことだと思えない。
 だって、くんがわたしのことを、好きだなんて。
「信じ、られなくて……」
「そんなにびっくりする? 結構わかりやすかったと思ってるんだけど」
「う、うん……嫌われてはないかなって思ってたけど、でもくんみんなに優しいし」
「そう?」
「優しいよ……それに友達も多いからわたしもその中のひとりかもって」
「そんなことない。さんが特別」
 くんは囁くようにそう言って小さく首を横に振った。くんが顔を動かすと彼の癖のある髪の毛がふわりとわたしの額に触れてくすぐったい。思わずわたしは息を漏らしてしまう。
 相変わらず、くんの顔は近い。離れる気配は微塵もない。それどころかより一層近づいているような気すらする。
 くんの端正な顔がすぐそこにある。通った鼻筋、薄い色の唇、猫のような目、黒くはっきりとした長い睫毛、そして、強い意志を感じるグレーの瞳。その鋭い視線から、目が離せない。
さんが、特別。特別に好きだよ」
 再び聞いたその言葉は、わたしの胸に落ちて波紋のように広がっていく。好き。くんが、わたしを好き。何度も何度もその言葉が胸に広がる。ようやく夢のような今の状況が、現実だと思えるようになってきた。
「で、返事は?」
 ふわふわとした夢のような心地に浸っていると、くんが引き戻すかのように問いかける。
「え……っ」
「まだ聞いてない」
 そうか。そうだ。わたしは告白されたのだから返事をしなくてはいけない。
 返事なんて、そんなのずっと前から決まっている。わたしの答えはたったひとつ。
「あ、あのね」
「うん」
「わたし、くんのこと……」
「うん」
「ええと……」
 ダメだ、恥ずかしくてうまく言えない……!
 くんがわたしを好きと言っているのだから、もう断られる心配なんてない。「わたしも好き」「くんが好き」たったそれだけの気持ちを言えばいいはずなのに、どうしてもうまく言葉が紡げない。
「待って、ちょっとだけ待って」
「待てない」
 くんは今にも唇が触れそうなほどに顔を寄せて、口角をあげてみせる。その表情はからかうような色をはらんでいる。
「あ、くんわかってるでしょ……!?」
「さあ?」
 くんはククッと喉を鳴らすように笑う。絶対絶対、わかってる……!
「あ、くんの意地悪……!」
 かあっと頬が熱くなる。前々から少し感じていたけれど、くんって結構意地悪だ……!
「ごめんごめん」
 くんはクスクス笑いながらわたしから体を離すと、今度はその笑みを柔和なものに変えた。
「でも、さんの気持ちをちゃんと聞きたいのは本当」
 くんの落ち着いた柔らかい、芯の通った声色に胸の奥がきゅっと締めつけられる。さっきからずっとくんにドキドキしっぱなしだ。……ううん、さっきからじゃない。ずっと前から。
 一度、小さく息を吐いた。きゅっとくんの目を見て、唇を動かす。
「あのね……くんは、優しくて強い人で……素敵な人。憧れてて、尊敬してて……それで」
 ゆっくりゆっくり、言葉を紡いでいく。大切なことだから、ひとつひとつ、大事に。
「……わたしの、好きな人、です」
 やっと、やっと言えた。くんは、わたしの憧れの人。そして、大好きな人。
 くんの顔がまた、少しずつ近づいてくる。瞬きもできずに頬を染めていると、くんが薄く唇を開く。
「目、閉じて」
 その言葉でわたしはすべてを理解する。ゆっくりと瞼を閉じれば、その直後唇に感じたのは初めての甘い感触。
 その後、どうやって家に帰ったかよく覚えていない。いつものようにくんに四軒茶屋駅まで送ってもらって、電車のドアが閉まる瞬間に「また明日」と言ったような気がする。
 まだ夢が、続いているような気がする。




「なあ、よかったのか?」
 夜、作業台で潜入道具を作っていると、モルガナがそう聞いてくる。
さんのこと?」
「付き合うことになったんだろ?」
「さすが察しがいいな」
「舐めんなよ。ルブランから出てきた雰囲気見ればわかるに決まってる」
 モルガナはそう言うけれど、別に手をつないで歩いていたわけではない。それでも気づくのだからやはりモルガナはそのあたりには敏感だ。
「……こんなときに付き合うなんて、なに考えてんだって?」
 先ほどのモルガナの「よかったのか?」の意味はそれだろう。今怪盗団には殺人の嫌疑がかけられている。何者かにはめられたのは明白だ。秀尽に警察が来ている以上自分たちにいつ捜査の手が及んでもおかしくはない。こんな状態でさんと付き合い始めるなんて、彼女にも何か火の粉が降りかかる可能性がある。
「……下手なことすると、巻き込んじまうかもしれねーぞ」
「巻き込まないよううまくやる。それに」
 パチン、ペンチで針金を切ると大きな音がした。
「あのままにしておけなかった」
 最近のさんが暗い表情をしていたのはわかっていた。その理由は激しい世論や奥村社長の件もあるけれど、自分が一番の原因だと自覚があった。心配をかけてその理由も話せない。このまま悲しい顔をさせ続けるなら、いっそ。
「もう告白した方がいいかと思って。それなら心配はかけても不安にはさせないし」
「……そうか。ワガハイも何かないよう気を配る」
「うん、よろしく」
 今度は接着剤で部品と部品をくっつけていく。失敗が許されない作業だ。
「ただ、怪盗団のみんなには言わないでおいてくれ。こんなときだし」
「心配しなくてももともと言うつもりないぜ」
「ん、そっか。……モルガナは怒らないんだな」
「なにをだ?」
「こんなときに恋愛沙汰なんて、って」
 いや、怒られると言うよりは、呆れられるかもしれないと思っていた。怪盗団がこんな状態の中、そんなことをしている余裕があるのかとため息を吐かれるかもしれないと。けれどモルガナの口から出たのはさんを巻き込むことになるのではと言う心配だけだ。
「そんなこと言わねーよ。オマエひとりの問題じゃねーしな」
「ん。ありがとう」
 話している最中に、キーピックができあがった。やっと作れた使い捨てでないタイプだ。メメントスにも行けない今、いつこれを使うかはわからないけれど、作っておいて損はないはずだ。
「今こっちは大変だけど、だからってあの子に遠慮すんなよ。下手に遠慮するときっと不安がるだろ」
「そうだな」
「……
「ん?」
「泣かせるなよ」
 モルガナは机の上で丸まって、しっぽをぱたぱたと振る。俺はそんなモルガナの頭に手を乗せる。
「ああ」





 週明けの月曜日、いつもは憂鬱な満員電車ですら今は気にならない。わたし、くんと付き合ってるんだよね? 未だに信じられない。
「うわっ」
 渋谷まであと一駅というところでさらに人が乗ってくる。人波に押されていると後ろで誰かが支えてくれた。
くん!」
 そこにいたのはくんだ。う、わ。どうしよう、心の準備が。
さん、おはよう」
「お、おはよ……わっ」
 今日は電車が遅れているせいかいつもより人が多い。ぎゅうぎゅうで息もしにくいぐらいだ。自然とくんとくっつく形になり、一気に心臓が鼓動を打ち始める。
「ご、ごめん……きつくて」
「いや、別に……」
「……あの、昨日のことなんだけど……」
 おそるおそる、わたしは口を開いた。くんの態度はいつもと変わらない。焦る様子も照れる様子もない、いつものクールな表情だ。なんだか、本当に昨日のことはわたしの夢のような気がしてきた。
「夢じゃないよ」
 返ってきたくんの言葉は、まるでわたしの心を読んでいたかのよう。夢じゃない。その言葉に心が躍る。
「……うん」
 夢じゃない。今、目の前にいるくんはただのクラスメイトではない。わたしの、恋人。その事実がどうしようもなく嬉しい。
「……あ、そういえば、もうすぐ文化祭だね」
「日程変わったんだよね。火曜からだっけ」
「うん。わたしは委員会で当日も後夜祭もあんまり回れないんだけど……」
「そっか、残念」
「ごめんね」
「いいよ。その代わり……またどこか行こう。半ばになったら落ち着くって言ったのに、結局バタバタしちゃってたから」
 くんの言葉に、ぱっと顔をあげた。そうだ。十月初めに電車で会ったとき、そう言っていたのに結局どこも行けなかった。
「今月中はちょっとバイトとかあって難しいけど、来月になったら」
「うん!」
「どこか行きたいとこある?」
「どこでもいい!」
 くんとだったらどこだっていい。どこに行ったってきっと楽しいはずだから。そう思っていたら、思わず大きな声が出てしまった。周囲がじろじろとこちらを見ている。
「了解。考えておくよ」
 けれど、くんは周囲の視線も気にせずに微笑みかけてくれる。
 どうしよう、本当に、本当に嬉しい。くんがわたしを好きと言ってくれている。くんが、わたしの恋人。これがこんなに幸せなことだなんて。
 通学途中に聞こえてきた怪盗団への非難も、学校に警察が来ているという話も以前ほど気にならない。怖くないと言ったら嘘になるけれど、くんが隣にいてくれたらすべてうまくいく。そんな気がした。