カンパニュラの花言葉 十一月


十一月

 くんとお付き合いを始めてから約二週間。わたしたちの間に特にこれといった変化があるわけではなかった。時々チャットを送り合ったり、時間が合えば一緒に帰ったり。チャットの内容も課題の質問だったり、モルガナちゃんの写真を送ってきてくれたり。一緒に帰るときも特に手をつないだりすることもなく、電車で隣に乗って少しの間おしゃべりするだけ。初めて迎えた休みの日はわたしの家の用事があって(どうしてよりによってこんなときに!)どこかに行くことも叶わなかった。本当に、以前と大きく変わった点はない。でも、それでよかった。いきなりいろんなことが変わったら、おそらくわたしはパンクしていたと思うから。
 四日、金曜日。二時間目が終わった休み時間に自席で次の授業の準備をしていると、くんからチャットが届いた。
「今日、帰り時間ある? ルブラン寄ってかない?」
 ぱっと顔を上げてくんのほうを見ると、くんもこちらを見ていたようで目が合った。どう? と言わんばかりに小さく首を傾げるくんを見て、ぽっと顔が熱くなる。
「行きたい!」
 すぐにチャットを送ると、くんからは「よかった。じゃあ帰りに」と返ってくる。もう一度くんを見ると今度は小さく微笑んでくれた。
 秘密の会話みたいですごくドキドキする。ちょっといけないことをしているような、不思議な感じ。付き合うって、不思議な感じだ。

 そして迎えた放課後、くんと電車に揺られてルブランへ入る。カランカランとドアを開けるときに鳴るベルの音ももう聞き慣れた。ドアを開けた瞬間に広がるコーヒーのにおいも。
「ああ、お前か。おかえり」
「ただいま。ひとりじゃないけど」
「こんにちは」
 佐倉さんに会釈をすると「いらっしゃい」と笑いかけてくれた。
 わたしたちが入るのと入れ替わりに、お会計を済ませた男性客がひとり出て行った。店内にはほかにお客さんはいないようだ。
「最近よく連れてくるな……なあ」
 くんとふたり、入り口から階段の方へ歩いていると、佐倉さんが訝しげに口を開いた。
「お前ら付き合ってんの?」
「そう」
「えっ!?」
 佐倉さんの問いかけに驚いて、さらに即答するくんに驚いてしまって、わたしは思わず大きな声を出してしまう。
「え、違うの?」
 思わず声をあげてしまったわたしを見てくんが問いかける。その表情は心なしか驚いているように見えた。
「ち、違わないです!」
「よかった」
 首をぶんぶんと横に振ってそう言うと、くんはほっと安心したような笑顔を見せた。その様子に、わたしの胸はきゅんとなる。
「へえ」
 佐倉さんは指で顎に触れながら口元に笑みを作る。まるでにやにやなんて擬音が聞こえてきそう。
「あんまりからかわないでください」
「お前がそんな殊勝なこと言うなんて珍しいじゃねえの」
「俺は別にいいけど、さんが恥ずかしがってる」
「ああ、なるほど」
 わたしを挟んで頭の上で会話するふたりにわたしは目を白黒させてしまう。あれ、もしかして慌ててるのはわたしだけ……?
さん、着替えるからちょっとここで待ってて」
「う、うん」
 くんはそう告げるととんとんとんとリズミカルに階段を上っていく。その様子を見送って、わたしはサイフォン近くのカウンター席へと座った。
「……あの、なんでわかったんですか?」
 両手を膝に置いて、おそるおそる佐倉さんにそう聞いた。別に手をつないで入ったわけでもない。以前と同じようにルブランに入って、挨拶をしただけ。
「まあ、年の功ってやつ? 今までと雰囲気違えなっていうのはなんとなくわかんだよ」
「そういうものなんですか……」
「ああ。……なあ。あいつのこと……いろいろ、知ってんのか?」
「いろいろって、前歴のことですか?」
 けれど前歴のことを知っている旨は以前にも佐倉さんに話したような気がする。首を傾げていると、佐倉さんは「ああ、そうそう」と答えた。
「……ああ、そういや前にも聞いたっけか。まあ、なんだ。そういうのわかってて付き合ってくれたんだなと思ってな……」
「くれてる、なんて。むしろわたしのほうが!」
「はは、そうか。ま、泣かされたらいつでも言えよ。説教ぐらいしてやるから」
「ふふ、わかりました」
 くすくす笑っていると、上から「もういいよ」とくんの声がする。わたしは佐倉さんに一礼して階段を上がった。
「ごめん、時間かかっちゃって。ちょっと散らかってたから片づけてた」
「ううん、大丈夫。お邪魔します……あれ」
 ソファに座ると、モルガナちゃんがひょいと窓から出て行ってしまった。
「モルガナちゃん、行っちゃった」
「モルガナがいたほうがよかった?」
 くんのその聞き方は少し意地悪だ。恋人とふたりきりのときに、モルガナちゃんがいなくて寂しいとは言いにくい。
「……くんって結構意地悪」
「ごめん、冗談。モルガナは気遣ってるんだよ。でも本当にモルガナいたほうがいいなら言って。別に邪魔だなんて思わないし。今なら呼べば戻ってくるかも」
「ううん。今日はいいよ、呼び戻すのも悪いし……でも、たまにはまた撫でたいです」
「伝えておくよ」
 くんはわたしの隣に座りながら言葉を続ける。
さん、本当にモルガナ好きだね」
「うん。モルガナちゃん大好きだよ。可愛いし、いい子だし」
「俺のことは?」
「えっ」
 くんは足を組みながら、わたしの顔をのぞき込むように問いかける。
「好き?」
 からかうような声色で口元に笑みを浮かべるくん。その表情を見て、わたしはどうしようもなく恥ずかしくなり俯いてしまう。
「あ、くんって本当に意地悪……」
「かもね」
「自覚あるんだ……!」
「まあそこそこ。でも、聞きたいのも本当」
 どう? と重ねて聞かれてわたしの羞恥は頂点に達しそうだ。好きかどうかなんて、そんなの。
「……好き」
 わたしの答えはひとつしかない。好き。くんが好き。優しくて強い、そしてちょっと意地悪なくんが。
「俺も好きだよ」
 くんの顔がゆっくりと近づく。わたしは自然と目を閉じる。
 わたしたちは、二度目のキスをした。
「……」
 唇を離した後も、くんの顔は近いままだ。至近距離に見える綺麗な顔に、心臓はずっと大きく鼓動を打っている。
 どうしよう。これからどうすればいいのだろう。キスの後ってなにをするのが正解? なにか言えばいい? なにしろくんが初めての恋人なものだから、こういう勝手が全然わからない。
 もう一度、くんの顔が近づく。ぎゅっと目をつぶるとまた唇に柔らかい感触。離れたと思ったらまたもう一度。何度も繰り返すうちに、頭がふわふわしてきた。
 あ、どうしよう。心臓がバクバクと大きな音を立てている。本当に本当に爆発しそう。
「あ、くん……」
「うん」
「え、えっと……あ、ゲーム!」
 ここままでは死んでしまう。焦ったわたしは薄く目を開いた先に見えたゲーム機をあわてて指さした。
「ゲーム! ゲームしない!?」
 別に特別ゲームがしたかったわけではない。でもこのままキスを続けていたらきっと心臓が止まってしまうだろうから、ほかのことならなんでもよかったのだ。
「ゲーム?」
「う、うん。それずいぶん古いやつだよね? ちょっとやってみてもいい?」
「いいよ。ちょっと待って」
 くんはテレビをつけてゲームの準備を始める。どういうゲームがいいか聞かれたので、さっとできそうなものをと答えた。
「じゃあシューティングかな。ステージごとになってるし」
「シューティング……できるかな」
「最初のほうはそんなに難しくないよ。はい」
 くんに渡されたコントローラーを握り、画面を凝視する。古いゲームだけあってボタンはシンプルだ。敵の機体がやってきたところでボタンを押して撃墜していく。
「お、結構うまい?」
「本当?」
「もうすぐボス。頑張れ」
「あ、これ? うわっ」
「連打連打。そこ」
「え、えっ」
 ステージラストのボス相手に、くんの指示通りとにかく攻撃ボタンを連打する。親指が痛くなってきたところでようやく倒せたようだ。
「わっ、これ勝てた?」
「うん」
「やった!」
 コントローラーを置き両手をあげて軽く万歳の格好をすると、くんがその手にハイタッチしてきた。
「おめでと」
「ありがと」
「落ち着いた?」
「えっ?」
「キスしてるとき、すごく緊張した顔してたから」
 くんの言葉に、ぽっと頬が熱くなる。
「ちょっとやりすぎたかなって思ってた」
「それは、その……あの、嫌なわけじゃないんだよ」
「うん」
「ただちょっと……ドキドキしすぎて、死んじゃいそうっていうか……」
「うん」
「あんまりいっぱいするのは、その、いっぱいいっぱいになっちゃって」
「そっか。わかった」
 くんは、わたしのうまく紡げない言葉をひとつひとつ聞いて丁寧に頷いてくれる。わたし、くんのこういう言葉を受け止めてくれるところ、とても好きだと思う。
「……くんはドキドキしないの?」
 わたしがドキドキしっぱなしなのをよそに、くんはいつも平然とした顔をしている。今も、キスをしていたときも。ドキドキしたり、緊張したりしないのだろうか。
「するよ。するけどそれよりキスしたいって思ってるだけ」
 その言葉に、わたしの頬は最高潮に熱くなる。
「あ、くんのそういうところ!」
「そういうところ?」
「すごくドキドキするの!」
 くん、人の気も知らないでそういうことを言うんだから! 本当に、本当にそういうところドキドキしてしまって仕方ない。なんでもないようなトーンで、恥ずかしいことをさらっと言う。くんの、そういうところ!
「そうなの?」
「そうなの!」
「へえ、いいこと聞いた」
「えっ!?」
「冗談」
 くんはクスリと笑うと、組んでいた足を解いて立ち上がる。
「コーヒー持ってくるよ。いつものカフェオレでいい?」
「あ、うん……」
「待ってて」
 くんが階下へ行くのを見て、ぽすんとソファの背もたれに体を預けた。
 なんか、ダメだなあ。さっきからずっと落ち着きのない人になっている。いくら付き合いたてだからってこれじゃ身が持たないし、くんにも呆れられてしまうかもしれない。少し落ち着かないと。深呼吸を大きく一度、二度。
 そうだ。ゲームもつけっぱなしになっていたから消さないといけない。電源を消して、なんの気なしにチャンネルを切り替えた。この時間テレビはドラマの再放送かワイドショーがほとんどだ。ワイドショーの中のコーナーで猫特集をやっていたので、チャンネルを変える手をそこで止めた。
「お待たせ。あ、猫特集」
「ありがとう」
さん、モルガナと初めて会ったときも猫好きって言ってたね」
「うん、猫は好きだけど……モルガナちゃんは猫じゃない、でしょ?」
 四月に屋上で話したとき、モルガナちゃんのことを猫と言ったらモルガナちゃんが怒ったことを思い出す。あれからモルガナちゃんのことを猫と表現するのはずっと避けてきた。
「猫扱いされるの嫌って言ってたから」
「うん、猫って言うと怒るんだ。見た目は猫だけど」
「でも、猫じゃないから」
 生物学上はモルガナちゃんは猫なのかもしれない。けれど、モルガナちゃんが猫だと言われるのが嫌ならわたしは言わないでおこうと思う。モルガナちゃんが嫌だって言うことをしたくないから。
「あ……」
 そんな話をしているうちに、猫特集のコーナーは終わってしまった。次のコーナーは話題のニュースを取り上げるもの。今話題のものと言えば、当然怪盗団だ。彼らに三千万の懸賞金がかけられたというニュースをまた取り上げている。
 きゅ、とお腹のあたりが締めつけられるように痛む。ぐるぐると嫌な感情が巡っている感覚だ。
「……怖い?」
 カフェオレの入ったカップを握りしめていると、くんが小さく問いかけてきた。
「……うん。みんなあんなに怪盗団のこと持ち上げてたのに、今はこんなだもん。なんか……世間って怖いなって」
「あ、そっち」
「そっち?」
「いや、怪盗団は怖い? って意味で聞いたつもりだったから」
「あ……そっち」
 くんの言葉に少しだけ思考を巡らせる。怪盗団は怖いか、否か。
「怪盗団が怖いかは……わからない。だって本当に奥村社長を殺したかもわからないし」
 もし、もしも本当に怪盗団が殺人犯なら怖いと思う。けれど、今彼らが殺人犯とされる証拠はないはずだ。それになにより。
「なんだか信じられなくて。怪盗団が人を殺すなんて」
 わたしは怪盗のことを知っているわけでも何でもない。だから怪盗団がどういう人なのかなんてもちろん知らない。それでも怪盗団と殺人がどうしてもイコールで結ばれない。きっとそれは、わたしが怪盗団をくんのような人だと勝手に思っていたからだろう。
「全部勝手なわたしの考えなんだけどね」
「ううん。聞かせてくれてありがとう」
 くんはキャスターが話す途中でテレビを消した。しんとした静寂が部屋の中に響く。
「な、なんかごめんね暗い話しちゃって。せっかくふたりでいるのに」
 恋人同士が部屋でふたりでいるのにこんな暗い空気にしてしまうなんて申し訳ない。謝ると、くんは首を横に振った。
「暗い話でもいいよ。さんの思ってること聞きたいし、悩みとかあるなら聞きたい」
「え……」
「恋人なんだから、さんがつらいなら側にいたいし言葉も聞きたい。俺も付き合うの初めてだからわからないけど、一緒にいて楽しいだけじゃなくて、そういうつらいことも分け合えるのが付き合うってことだと思ってるから」
 くんの真っ直ぐな言葉が胸に沁みていく。ああ、そうか。付き合うって、そういうことなのかな。
「そっか、そうだね。そうだよね」
「そうだよ」
「ありがとう、くん。くんもなにかあったらいつでも言ってね」
「うん」
 くんはうなずきながら微笑んでくれる。とても充足感に満ちている。この人を好きになれて、よかった。
「もう遅い時間だ。そろそろ帰ろうか。送っていくから」
「あ、本当だ……」
 気づけばもうすぐ夕飯の時間だ。最近は日が沈むのも早くなってきたから外はもう暗い。
 下にいる佐倉さんに挨拶をしてルブランを出た。ひゅっと吹いた北風に身を縮こまらせた。十月はまだまだ暑かったのに、十一月に入ったとたんに一気に冷え込むようになってきた。
「寒……」
「そうだね」
 くんは同意しながらわたしの右手を握った。あまりに自然な動作にぽかんと口を開けてしまった後、すぐに状況に気づいた。これ、手をつないでいるんだ。
「ドキドキしすぎる?」
 くんの首を傾げた問いかけに、わたしは小さく答える。
「する、けど、大丈夫」
 ドキドキはしている。ドキドキしすぎて死んでしまいそうとも思う。それでもわたしは、今この手を離したくない。
「よかった」
 くんは微笑み駅の方角へと歩き出す。わたしの手を握るくんの手は力強い。
 じわり、じわりと繋いだ手からくんの体温が伝わってくる。くんの手は思いの外大きくて、わたしの手はすっぽりと収まってしまっている。くんは細身だし顔立ちも中性的だからあまり強く意識していなかったけれど、この大きくて骨ばった手は「男の人」を思わせるには十分すぎる。
 ルブランから四軒茶屋の駅は近い。手を繋いでいてもすぐに駅へと着いてしまう。いつもこの短い距離を寂しく思っていたけれど、今日はより一層だ。まだ、手を離したくない。
さん」
 そう思っていると、くんがいきなり道の真ん中で立ち止まった。
「ちょっと遠回り、しない?」
 それはとても甘い誘い。まだこの手を離さずにいられる絶好の口実だ。
 わたしの答えは、ひとつに決まっていた。
「うん!」
 それから四軒茶屋の街を手を繋ぎながら歩いた。ここにはバッティングセンターがあってくんもときどき利用しているとか、ずっと閉まっていた映画館が最近営業を再開したとか、そんな話を聞きながら、わたしたちはお互いの体温を感じ合っていた。


 それからは、時間が合う日は一緒に帰ったり、ルブランで少しおしゃべりをしたり。日曜日にはファミレスで一緒に課題をやった。渋谷を歩くときやルブランからの帰り道は手を繋いで歩くようになった。ルブランの二階でおしゃべりをするときは、キスをした。触れるだけの優しいキスを、一回だけ。
 一緒に帰ることができない日、くんはいつも足早に教室を出て行っていた。ひとりで帰るときもあれば坂本くんたちと一緒の日もある。それらはいつも「友達と遊びに行く」という雰囲気ではない。もっと物々しい様子だ。なにをしているのか気になったけれど、きっと十月からずっと続いている「迷っていること」と関係があるのだろう。おいそれと言えることではないのだから仕方ない。
 今日もくんは用があるらしい。ちょっと残念、そう思っているとくんは言葉を続けた。
「来週の木曜は必ず空けておいて」
「木曜日……って十七日?」
「うん。放課後さんと一緒にいたいんだ」
 ストレートなその言葉にぽっと頬が熱くなる。赤くなった頬を冷ましながら、わたしは「空けておくね」と頷いた。その日はアルバイトが入っていたけれど友人に代わってもらおう。この間その子に「デートが入って」と言われてシフトを代わったからきっと了承してくれるだろう。
 そして迎えた十一月十七日、放課後。くんと共に教室を出た。
「どこか行くの?」
「井の頭公園」
 くんはすでに行き先を決めていたようで、わたしの問いかけに即答した。だったら一度渋谷で乗り換えだ、楽しみだな、なんて思っているとくんが言葉を続けた。
さん、前に好きって言ってたから」
 その言葉に、わたしは思わず「えっ」と声をあげてしまった。
「覚えてたの?」
 確かに井の頭公園が好きだという話をくんにしたのは覚えている。けれどそれは六月、半年近く前の話だ。それきり井の頭公園を話題にしたことはなかったはず。
「覚えてるよ。いつか誘おうって思ってたから」
 くんの微笑みとその言葉が無性に胸をくすぐる。くんがわたしの好きな場所を覚えていてくれたこと、そこに誘ってくれたこと。とても嬉しいと思う。 
 ガタンゴトンと電車に揺られながら目的地を目指す。渋谷から私鉄に乗り換え。いつもは地下鉄ばかりだから窓から見える景色が眩しく感じる。
 渋谷から電車と徒歩を合わせて約二十分、お目当ての井の頭公園に着いた。都心からさほど離れていないのに自然豊かなこの公園が、わたしは大好き。
「わ、結構久し振りだなあ。くんはあんまり来たことないんだっけ?」
「いや、あれから何回か。前に祐介がボートの上で絵描きたいって言い出して大変だった」
「え……揺れない?」
「揺れる。でも揺れないようにしてくれって言われた」
 無茶すぎるだろ、と頭をかくくんを見て思わずわたしの口から笑いが漏れる。喜多川くん、わたしは一度しか会っていないけれどずいぶんと飛んだことを言うおもしろい人だ。
「あっ」
 公園に入ろうとすると、くんの鞄からモルガナちゃんが飛び出してひとり公園の中へと走り去ってしまった。
「モルガナちゃん、行っちゃった。大丈夫?」
「帰る時間にはこのへんに戻ってくるよ」
「そっか……」
 確かにモルガナちゃんは賢い子だ。渋谷のファミレスでくんと勉強しているときモルガナちゃんはたいてい自由行動中なのだけれど、帰る時間になるときちんと渋谷駅に帰ってきてくんと合流する。しかしくんの言葉を聞く限り井の頭公園にはそう何度も来ていない様子だ。慣れた渋谷と勝手も違うだろうし少し心配ではある。
「撫でたいときは言ってくれればモルガナを呼ぶけど、今日は駄目」
 くんはわたしの手を取ると、わたしの手の甲を自身の唇に寄せた。
「今日はデートだから、ふたりきり」
 くんの唇がわたしの手に触れて、わたしの心臓は大きく大きく跳ねた。おそらく十七年生きてきて、一番だったと思う。
「あ、くん、なんか今日……」
「なに?」
「いつもより強引……」
 くんは見かけより強引な面を多々見せてはいたけれど、今日はその面がいつもより強いような気がする。このまま半日一緒にいたら、わたしの心臓は保たない気がする……。
「そう? まあ、そうかも」
「……なにかあったの? 今日誕生日……じゃないよね」
 今日はやたら強引だったり、今日という日にこだわったり。今日という日になにかあるのだろうか。以前聞いた誕生日は違う日だったし、他にはなにも思いつかない。
「なにもないよ」
「……本当?」
「本当。今日がよかったのは明日から週明けまでどうしても外せない用事があるから。ほら、行こう。動物園から?」
 くんに手を引かれ、公園内の動物園のほうへと歩き出す。……くん、わたしが動物園があるからここが好きだと言っていたことも覚えていたんだ。
 入園料を払い動物園の中に入る。上野や多摩にある動物園に比べれば小さいけれど、ここも立派な動物園だ。大きな動物はあまりおらず、リスやタヌキ、鳥類など小さい動物がメインで、モルモットはふれあいコーナーもある。
「だっこしたい……」
「できないの?」
「もう時間外なの……」
 モルモットコーナーでガラス越しにモルモットを見ながらため息をついた。ふれあい時間は三時まで、学校帰りでは間に合うはずもない。
「そっか、残念」
くん、また来ようね」
 今度は休日に来て一緒にモルモットを撫でたい。隣のくんを見上げてそう言うと、くんは「うん」と小さく頷いた。
さん、動物好きだね。モルガナのことも可愛がってるし」
「うん、まあ……好きだけど」
「モルガナは猫じゃない」
「うん、そうでしょ?」
「モルガナ、それ聞いたらきっと喜ぶ」
「本当? ただ……一応猫って言わないでいるけど、撫でたりして猫扱いはしてるかなあって気になってるんだけど……」
「撫でられるのは嫌いじゃないみたいだし、いいんじゃない?」
「そうかな」
「嫌なら嫌って言ってるよ、モルガナは」
「そっか……それならよかった」
「そろそろ次行く? 早くしないと閉まっちゃうし」
「うん、そうだね」
 そうして次に向かったのはリスのコーナー。リスが生活している様子をすぐそこで見られる場所だ。
 中に入るとそこかしこにリスの姿が見える。スマホのカメラを構えたけれど素早いリスはなかなか画面に捉えられない。
「ああっ行っちゃう! うーん……」
「うまく撮れないな」
「ね……」
 しゃがみこんで木の根本で餌を食べる一匹のリスに焦点を合わせる。よし、これなら綺麗に撮れそう!
さん、動かないで」
「え?」
 自分のスマホのシャッターを切った瞬間、くんの声が聞こえて顔を上げると、くんは下、下と言いながらわたしに向けてカメラを構えている。
「下……? あっ」
 下になにがと思いしゃがんだまま目線だけ下に向けると、わたしの足下に一匹のリスがいることに気づく。
「じっとしてて」
「う、うん」
 わたしが動いたらきっとリスも驚いて行ってしまうだろう。できるだけ動かないよう、じっとリスの方へと視線を向ける。
「あっ、行っちゃった……」
 しかし努力も虚しく、リスは早々に足下から去ってしまった。もう少し近くで見ていたかったのに。
「でもちゃんと写真撮れたよ。ほら」
 くんはそう言ってスマホの画面をわたしに見せる。そこにはわたしとリスが綺麗に写っていた。
「待ち受けにしようかな」
「えっ」
「だって可愛いし」
「……リスが?」
さんが」
 本当にくんってこういうことをさらっと言う。わたしはいつもそのたびドキドキして仕方がないのに。
「あ、ありがとう……」
「思ったことを言っただけ」
「……あ、くんもかっこいいよ」
 恥ずかしい気持ちを抑えて、勇気を振り絞ってそう言った。くんに可愛いと言ってもらえると嬉しいように、くんもわたしにそう言われたら嬉しいかな、と思ったから。
 くんは、かっこいいと思う。大きな眼鏡に隠れがちだけれど、好きになるずっと前から綺麗な顔だと思っていた。
「そう? 野暮ったいとかモサ男とか言われるんだけど」
「か、かっこいいよ! わたしにとっては、世界で一番!」
 ぎゅっと拳を握り語気を強める。モサ男なんて、誰が言ったのだろう。こんなにかっこいいのにくんに失礼だ。
「ありがと」
 お礼を言いながら微笑むくんはやはり綺麗な顔で、わたしはまた頬を赤らめてしまった。

 動物園の閉園時間は十七時、学校帰りではすぐに閉まる時間になってしまう。名残惜しく思いながら動物園を出て、次に向かったのは公園内の噴水広場だ。貸しボートの時間は終わってしまっているけれど、動物園内を歩き回って疲れた足を休めるにはここのベンチがちょうどいい。
「やっぱり学校帰りだとあんまりのんびりできないな」
「そんなことないよ? 楽しかった」
「それならよかった」
 閉店ギリギリで買えたお団子を頬張りながら、のんびりと池を眺める。すっかり陽は沈んでしまった。暗くなった池は恐怖も感じさせるけれど、それ以上に幻想的な色も見せている。
「桜も綺麗なんだよね。くんは春には来た?」
「いや、最初に来たときにはもう散ってた」
「そっか。じゃあ来年一緒に……」
 そこまで言いかけたところでわたしはある事に思い至り、口を噤んだ。
 くんの保護観察期間は一年。来年の春、桜が咲く頃にくんは東京にはいない。
「……綺麗だよ、桜。本当に」
 来年も一緒に見ようね。その言葉が言えないことが、悲しい。
「うん」
 くんは言葉だけで頷いて、街灯が映る池を見つめる。それはなにに対する同意だったのだろう。聞けないまま、わたしは目の前を見つめていた。


 公園の入り口に行くと、モルガナちゃんはすでに待っていた。にゃ、と笑うとモルガナちゃんはするりとくんの鞄の中に入っていく。
「モルガナちゃん、お散歩楽しかった?」
「ナア~」
「悪くなかったってさ」
 くんはモルガナちゃんの額を撫でる。モルガナちゃんもご満悦そう。
 もう外も暗いし今日はこれでお別れかな、ちょっと寂しいな。なんて思っていると、くんがわたしの手を握った。
さん、お腹空かない?」
 くんのその言葉は間違いなく夕飯のお誘い。そしてわたしたちが食べる夕飯と言ったら、それはいつも。
「空いた!」
「カレー食べない?」
「食べたい!」
「決まり」
 次の行き先はルブランだ。デートがまだ続くことに嬉しくなって、わたしは思わずくんに体を寄せた。
 渋谷を経由し四軒茶屋へ。すっかり慣れてしまった道を歩き、ルブランへ着いた。
「あれ、もう閉まってる」
 くんは鞄から鍵を取り出しルブランのドアを開ける。閉店時間はまだのはずだけれど、今日はいつもより早めに閉めたようだ。
「俺のカレーになっちゃうけど」
「いいよ、むしろ嬉しい」
「あんまり期待しないで」
 店内に入り、真ん中のテーブル席へ腰掛けた。すると、モルガナちゃんはすぐにとんとんとんと二階へと上がってしまう。
「行っちゃった……」
 これ、もしかしてくんと完全にふたりきり? スカイタワーの帰りもこんなふうに緊張した記憶があるけれど、そのときはモルガナちゃんが隣にいてくれた。でも、今回はいない。
 あ、どうしよう。いきなり緊張してきた。
「ふたりきりだからって緊張してる?」
 くんはエプロンをつけながら、カウンターの向こうでそう聞いてくる。
「え、えっと……」
「別になにもしないよ」
 コトンとくんはわたしのお冷やをひとつ置いた。
 また同じ。わたしの心を見透かしたような言葉だ。少し恥ずかしい気持ちになりつつも、くんの言葉に安心してしまう。
さんがいいならするけど」
「!!」
 安心してたのに、その台詞でわたしはまた背筋をピンと伸ばしてしまう。
「え、え」
「どう?」
 どう、って。どうって。どうって。するって、え、なにを。え、そういうこと!? いやでもだってまだ付き合って一ヶ月もたってないのに!?
「えっと、あの」
「……ふっ」
 あわあわと慌てていると、くんは横を向いて大きな手で顔を押さえる。よく見ると堪えきれないとばかりに笑っているようだった。
「え、あ、笑ってる……!?」
「いや、ごめん。あんまり予想通りの反応だったから」
「か、からかった……!?」
「いや、本気。俺はしたいからさんがしていいって言うならするし、さんが嫌って言うならなにもしない」
 続けて、どう? とまた同じ質問をしてくるくんの目は深くて冗談を言っているようには見えない。
 わたしはぎゅっと膝の上で拳を握った。
「あの……そ、そういうのはまだちょっと」
 くんのことは好きだけれど、そういうことっていうのはまだ怖いし、それに付き合って一ヶ月もたってないのにちょっと早いとも思う。おそるおそる自分の気持ちを告げて顔をあげると、くんは穏やかな表情で頷いた。
「うん、わかった」
「……怒らないの?」
「怒るようなこと言ってないから。それに、そう言われるだろうなって思ってたし」
「お、思ってたの?」
「まあ、さすがに……まだそんな付き合って間もないし。いいよって言われたらそっちのほうがびっくりする」
 だから、とくんはカウンター席にもたれかかって言葉を続ける。
さんが断ったって怒るつもりなんてないし、嫌いになったりもしない。それは絶対」
 くんは真っ直ぐにわたしを見ている。その言葉は紛れもない真実なのだろう。
「……うん、ありがとう」
「お礼言われることでもないよ。カレー食べようか」
「うん」
 その後はふたりでくんの作ったカレーを食べて、くんが淹れてくれたコーヒーを飲んだ。話す内容もこの間見たテレビがおもしろかったとか、友達とこんな話をしたとか、とりとめもないただのおしゃべり。いつもの日常のような風景に心が安らぐ。
「あ……そろそろ帰らないと」
 スマホの時計を確認すると、すっかり遅い時間になっていた。一応家には連絡したけれどもう帰らないといけないだろう。
「……そっか」
「うん……寂しいけどまた明日だね」
 食器を片づけ帰り支度を整える。今日はとても楽しかったから帰ることが惜しい。けれど、付き合っていればまたきっとこういう日はあるのだろう。
「ガス閉めた?」
「閉めた」
「……うん、じゃあもう帰るね」
 名残惜しく思いながら、ルブランのドアに手をかける。すると、くんがその手に自分の手を添えた。
く……、っ!?」
 どうしたの? と聞こうと顔をあげると、唇を唇で塞がれた。突然のことに目も閉じず驚くばかりのわたしを見て、くんはあやすように髪を撫でる。
「キスも駄目だった?」
「駄目じゃない、けど……」
「けど?」
「びっくり、して……」
 突然だったからまだ心臓がドキドキしている。指先で唇に触れると、熱い感情がまだ残っていた。
「好きだよ」
 くんはわたしの指に重ねるように、親指でわたしの唇を撫ぜる。自分で触れるよりずっと甘くて官能的な指の動きは、ともすればキスより心の奥を疼かせる。
 くんの手がわたしの背中に回る。両腕でぎゅっと抱きしめられて、わたしの体はくんの腕にすっぽり収まった。
くん……?」
「……うん。そろそろ行こう」
 くんは体を離すと、笑顔でルブランのドアを開けた。いつもと様子が違って見えたけれど、気のせいだろうか。なぜだか聞くのもはばかられて、わたしはなにも言わず駅までの道を歩いていた。




 くんと甘い時間を過ごした日から二日後の十一月十九日、夜。怪盗団のリーダーが捕まったと報道があった。その報道を見た瞬間、ひゅっと心臓を掴まれたような気分になった。なぜならそのリーダーは高校生の少年と報道されたからだ。
「高校生……」
 うちの学校にも先日警察が来ていたし、生徒全員取り調べを受けた。しかも怪盗団の事件の発端は鴨志田事件だ。もしかしたら怪盗団のリーダーは秀尽の生徒なのかもしれない。あまりに急な出来事に背筋が凍る。
 逮捕されたということは、怪盗団は悪人だったのだろうか。奥村社長を殺したのも? 巷で騒がれている廃人化事件もすべて怪盗団が? 本当に? 考えても考えても疑問は潰えない。
 恐怖を感じながら迎えた翌日の二十日夕方、怪盗団のリーダーが自殺したという速報が流れた。警官の拳銃を奪い取調室で自殺したと。そして続けてアナウンサーが口にした言葉に、わたしは立ち上がり手で口元を覆った。
「少年は傷害事件で保護観察処分中、故郷を離れていたようで……」
 地元を離れた保護観察中の高校生。どうしたってくんを連想してしまう。
 一連の怪盗団騒動の発端となった鴨志田先生の事件はくんが転入した直後のことだ。そのときくんが鴨志田先生と揉めたという噂もあった。さらにくんと仲のいい坂本くんは去年鴨志田先生と一悶着あり、高巻さんもセクハラ被害を受けていたと言う。それに先日からよく一緒にいる奥村先輩。彼女の名前を最初に聞いたときオクムラフーズを思い出したけれど、そのとおり彼女は奥村社長の娘と新聞部の生徒が言っていた。喜多川くんだってそう。どうして洸星高校の彼と仲良くなったのか不思議だったけれど、美術科と言っていたし画家の斑目と関係しているのかもしれない。
 考えれば考えるほど、くんと怪盗団を結びつけるキーワードばかりが頭に浮かぶ。そんなまさかと思いながら、わたしはくんに電話をかけた。
「……お願い」
 希望も虚しく電話口から流れたのは「おかけになった番号は電源が入っていないか……」という機械音声。すぐに電話を切ってチャットの画面を開く。
「今どうしてる?」
 七文字に願いを込めて送信ボタンを押した。お願い、お願い返事が欲しい。なんでもいい。たった二文字「うん」と送ってくれるだけでもいい。会話にならなくたっていい。なにかくんからの言葉が欲しかった。
 けれど、待てども待てどもくんからの返信はない。わたしはたまらなくなって家を飛び出し四軒茶屋へ向かった。電車を降りて真っ直ぐに目指すのはルブランだ。しかし、ルブランはすでに閉店しており中も真っ暗だ。試しにドアノブに手をかけたけれどもちろん鍵がかかっていた。
くん……」
 改めてスマホを確かめるけれどくんからの返事はない。ルブランのガラス戸もわたしの姿が映るだけ。一枚隔てた店内がひどく遠く感じる。
 佐倉さんにくんの所在を聞きたかったけれど、佐倉さんの連絡先も家も知らない。今までの話を思い返す限り家は遠くなさそうだと思い、ルブランの近くを探してみた。そこで見つけた「佐倉」の表札の一軒家のインターホンを押してみたけれど、なにも返ってこなかった。
 これ以上手がかりなどなにもない。もう、家に帰るしかない。後ろ髪を引かれる思いで四軒茶屋を後にした。


 次の日になってもくんからの返事はなかった。学校にもくんの姿はない。
 休み時間、窓の外を見つめる高巻さんに声をかけた。
「ねえ、高巻さん。くん、どうしてるか知ってる?」
「ご、ごめん。わかんない。風邪でも引いてるんじゃないかな?」
「……そっか」
 高巻さんが知らないとなると、坂本くんはどうだろう。彼とちゃんと話したことはなかったけれど、どうしてもくんのことが気になる。けれど、坂本くんから返ってきた答えも高巻さんと似たようなものだった。
「最近寒くなってきたし風邪じゃね? たぶんだけど」
「……うん。そうだよね、きっと。ごめん、ありがと」
 風邪だったら、いいな。ただの風邪で連絡が取れないならそれでいい。時たま聞こえるクラスメイトの「怪盗団のリーダー自殺したんでしょ?」なんて会話に身を震わせながら、わたしは耳に入らない先生の声をずっと聞いていた。
 ようやく一日の授業が終わり、終業のチャイムとともにわたしは教室を飛び出した。行き先はもちろんルブランだ。蒼山一丁目の銀坐線のホームに着いた瞬間、鞄の中のスマホが震えた。
「えっ」
 チャットの送り主の名前を見て、全身の力が抜けてその場に座り込んでしまう。送り主の名前は。よかった、くんは無事だったんだ。
 アプリを起動してくんからのメッセージを確認する。そこに書かれた文面にわたしは首を傾げた。
「連絡できなくてごめん。夜、ルブランに来て。誰にも言わずに」
 ルブランに来て、というのはわかるけれど、誰にも言わずに、というのはどうしてだろう。やはり怪盗団の件と何か関係があるのだろうか。
 疑問に思いつつも、ここで聞いたところで返答は得られないだろう。すぐに「わかった」と返事を送った。
 一度家に帰って着替えた後、電車に乗ってルブランへ向かう。電車の中の乗客もトレインニュースも怪盗団のリーダーの件で持ちきりだ。
 くんから返事が来たとは言え不安は潰えない。よく考えてみれば、電話と違いチャットではくん本人が打ったとは限らないのだ。
「大丈夫……」
言い聞かせるように呟きながら窓の外を見る。地下の真っ暗なトンネルが映る窓から、四軒茶屋のホームの光が入ってくる。
 ルブランのドアにはクローズドの看板がかかっているけれど、中は電気がついており明るい。佐倉さんの姿もカウンターの向こうに確認できた。一度深呼吸をしてからドアを開ける。
「あいつなら上だよ」
 佐倉さんはわたしが来ることを知っていたようで、くいと顎で二階への階段を指した。わたしは一度会釈をしてからおそるおそる階段へ向かった。
 大丈夫、大丈夫。くんから連絡が来たのだから、くんはそこにいるはず。胸を左手で押さえ、荒く短い呼吸を繰り返しながら一段一段上っていく。
 屋根裏部屋が見え始める。そこは電気がついており明るい。人影も確認できた。くんだ、そう思って一気に階段を上がるスピードを速めた。
く……」
 そこにくんはいた。着替え中のくんが。シャツを脱いで新しい服を着ようとしているくんが。上半身裸の、くんが。
「わあああああっ!?」
 思いもしていなかった姿に思わず大声を上げて階段を駆け下りた。いや、だってまさか上だけとは言え裸のくんと遭遇するなんて思っていなかった。今までとは違う意味で心臓がバクバクと大きな音を立てている。
「ど、どうした!?」
 階段の一番下で座り込むわたしを見て、佐倉さんが慌てた顔で駆け寄ってきた。わたしは「な、なんでもないです……」と嗄れた声で答えることしかできない。
さん、ごめん」
 着替え終わったくんが階段を下りてきた。もちろんちゃんと上も着ている。
「わ、わたしも声かけないで上がっちゃったから」
「とりあえず上がって。話したいことがあるから」
 くんに促され、わたしは再び階段を上がる。
 ……先ほどは上半身裸だったことに驚いてしまい意識が向かなかったけれど、露わになったくんの腕や胸には多くの傷があった。一瞬だったけれど転んでできた傷……のようには見えなかった。
 くんがソファに座るので、わたしも隣に座る。くんは前屈みになり、指をいじるような仕草を見せる。
「チャット、返信できなくてごめん。怪盗団の……リーダーのニュース見て心配してくれたんだろ?」
「……うん」
 くんはいきなり本題に入った。怪盗団のリーダーの情報として出された高校生、傷害事件で保護観察中、故郷を離れているというワード。そして秀尽に来ていた警察官。それだけできっとくんと親しい人のすべてが簡単にくんを連想してしまうだろう。それはもちろんわたしも同じだ。
さんの思ったとおり、俺が怪盗団のリーダーだよ」
「え……っ」
 突然の告白に、声にならない声が漏れる。しかし、すぐに次の疑問が湧いてくる。
「え、でも、自殺っていうのは?」
 くんが怪盗団のリーダーというのもかなりの衝撃だけれど、ニュースでは怪盗団のリーダーは取調室で警官の拳銃を奪い自殺したと報道されていたはず。くんが怪盗団のリーダーであれば、あのニュースは一体どういうことなのだろう。
「その辺りは話すとややこしいんだけど……とりあえず順番に話すから聞いて欲しい。信じられないこともたくさん出てくると思うけど」
 そこからくんは怪盗団について丁寧に説明してくれた。怪盗団のメンバーは坂本くんに高巻さん、喜多川くん、新島先輩、佐倉さんの娘さんの双葉ちゃん、奥村先輩。さらにはモルガナちゃんもメンバーだという。
 心を盗む方法は、異世界に行って対象となる人物のオタカラを奪うこと。異世界とはその人の心の世界。歪んだ欲望を持った人間は心の世界にパレスというものを持っていて、そこにはその人の心が歪んだ原因であるオタカラがある。それを奪うことによって対象の歪んだ欲望が消える、即ち改心させられると言う。
「ま、待って。異世界? オタカラ?」
「うん、まあ信じられないと思うけど。ごめん、まだ説明続くんだ」
 心の世界は人によってはパレスとなる場所以外は現実と区別がつかないらしい。その上現実と違わない「認知上の人物」も現れる。その「そっくりな世界」「認知上の」を利用して、くんたち怪盗団はくんを殺そうとしていた相手を騙し、「認知上の」を殺させ、現実のくんを生かすことに成功した……というもの。
 とりあえず、ざっと説明してくれたけれどまったく理解できていない。そもそも異世界が存在するという大前提がわたしにとっては不思議なことなのだ。
 けれど、くんが嘘を言っているとは思っていない。くんがわたしにそんな嘘を吐くとは思えないし、くんが改心の相手に関係する人物たちと仲がいいこと、そして今まで改心が起こった……謝罪会見などが行われる少し前、いつもくんが忙しそうにしていたことも合点が行く。そして何より、モルガナちゃんの存在だ。モルガナちゃんは異世界に行くと少し体の形が変わり人間の言葉を話せるようになるという。そして異世界でモルガナちゃんが喋っているのを聞いた人間は、現実世界で猫の姿になったモルガナちゃんの言葉も理解できるようになる。
 ずっとずっとくんがモルガナちゃんの言葉を理解していることを不思議に思っていた。飼い主だから言いたいことがわかるなんてレベルではなく、くんはいつもモルガナちゃんの言葉を代弁するかのように話していた。それは、本当にモルガナちゃんの言葉がわかっていたからなのだ。
「とりあえず異世界のこと、全然わかってないんだけど、多少は理解できたと思う……」
「うん。こんなこと信じられないと思うしわかるよ。俺も最初にたまたま異世界に入って夢かと思ったし」
「……どうしてくんは殺されそうになったの?」
 気になったのはそこだ。怪盗団が逮捕されるところまでは理解できる。けれど一体誰が怪盗団を殺そうなんて考えていたのだろう。
「……今、廃人化や精神暴走事件って騒がれてるだろ。あれの犯人がいる。奥村社長を殺したのもそいつ。怪盗団に一連の事件の罪をなすりつけて、怪盗団のリーダーを自殺に見せかけて全部収束、っていうのがそいつのシナリオだったらしい」
「その……犯人ってわかってるんだよね」
 くんはわたしの問いに頷いた。
「わかってる。精神暴走事件も廃人化事件も、怪盗団に罪を着せようとしたのも全部獅童が糸を引いてた」
「獅童って……」
「政治家の獅童正義。最近有名だろ」
 フルネームを聞いて、ニュースでよく見るスキンヘッドの男性が頭に浮かんだ。次期総理候補とも言われている人のはずだ。
「うそ……政治家なのにそんなこと」
「ああ。だからなんとしても改心させないと」
 くんはぎゅっと握った拳を見つめた。その目には決意の炎が宿っている。
「獅童は政治家だから顔も広いし、どこで誰とつながってるかわからない。だからもし誰かに何か聞かれても知らないで通してほしい。さんが俺と親しいことも知ってるだろうから、もし俺が生きていることを知ったらさんにもなにか聞いてくるかもしれない」
「……わかった」
「今話した怪盗団のメンバーと佐倉さん以外には下手なことを話さないほうがいいと思う。誰がどこで聞いてるかもわからない」
「……うん」
 なんだか、思っていたよりずっとずっと規模の大きい話だ。怪盗団のことも今回の事件のことも、とても高校生だけでやったなんて思えない。けれど、すべてくんたちがやったことなのだ。
 異世界のことも警察を騙したトリックも、すべて信じられない。けれど、今思うのはなによりも。
「生きててよかった……」
 あの報道があった日、くんが死んでしまったのではないかと思って本当に怖かった。怖くて怖くて全身が震えていた。くんが生きていて、ここにいて、本当によかった。
 くんに体を寄せると体温が伝わってきて、じわりと目に涙が浮かんだ。
「心配させてごめん。事前に話そうかとも思ったんだけど、信じられないだろうって思ったし」
「うん……井の頭公園に行ったのも、このことがあったから?」
「そう。生きて帰るつもりだったけど、どうなるかわからなかったし。もし……って思ったらさんに会いたくて」
 くんはわたしを抱き寄せたまま、言葉を続ける。
「俺も生きててよかったって思う。まだやらなきゃいけないこともあるし、こうやってさんに会えて嬉しい」
「うん……あの、さっき見えたんだけど、あの痣とかは」
「ああ、あれ。尋問されたときに殴られたりしてさ。さすがにあそこまでやられるのは想定外だった」
「え……っ」
 思わず小さく驚きの声を漏らしてしまう。先ほどの話を聞いてくんにある傷や痣は異世界で戦闘になったときについたものだと思っていた。
「警察官がってこと? そんなのひどい!」
「うん、今も結構痛くて」
「あ……ごめん」
 その言葉を聞いて思わず体を離した。思い切りくんに体を寄せてしまったけれど、考えてみれば傷や痣があるのだからあんなふうに触れたら痛いに決まっている。
「なにが?」
「触ってたら痛いかなって……」
「痛いよ」
 そう言いながら、くんはわたしを再び抱き寄せた。先ほどよりも強い力だ。
「痛いけど、こうしてたい」
 くんの唇が、わたしの髪に触れる。額に、瞼に、頬に、そして最後は唇に。触れた唇からくんの温度が伝わってくる。ぎゅっと抱きしめられると、聞こえる鼓動がわたしのものか、くんのものかもわからなくなってしまう。
「……くんはどうして怪盗団を始めたの?」
 先ほどの話を聞く限り、鴨志田先生のときは偶然が折り重なり改心させるに至ったようだけれど、次の画家の斑目に関しては改心のターゲットを探して見つけた相手のようだ。鴨志田先生から斑目までに、どういう思いがあったのだろう。
「確かに鴨志田のときは偶然だった。でも鴨志田を改心させたとき……怪盗団ありがとうって声をたくさん聞いて、それに鴨志田以外にも理不尽な大人たちがたくさんいることも実感した。怪盗を続けていけば理不尽な人間に虐げられる人を助けられるかもしれない、勇気づけられるかもしれないって思った。それで竜司と杏、モルガナと話して怪盗団を続けようって話になったんだ」
 その話を聞いて、ああやっぱり怪盗団はくんなんだなと実感した。理不尽に誰かを虐げる人間が許せない、困っている人を見過ごせない。わたしの思っていたとおりの、くんだ。
「本当にくん、優しいんだね」
「そう?」
「優しいよ。だからわたし、怪盗団ってくんみたいな人なのかなって思ったんだよ」
「ああ、あのとき。言われたとき驚いたな」
「だって、わたしの考える怪盗団とくんがあんまり似てたから」
 だからと言ってまさか本当にくんが怪盗団だなんて考えもしなかった。なんだか嬉しいと思う。自分の勘が当たったこともだけれど、なによりくんのことをわたしは理解できていたのかなと思えることが嬉しい。 
「いろいろ心配かけてごめん。しばらくは学校にも行けないし、獅童のこともあるから忙しいこともあると思うけど……たまにはルブランに遊びに来て」
「うん」
「全部終わったら……またどこか行こう」
「うん」
 全部が終わってくんがまた隠れずに外を歩けるようになったら。ふたりでまたいろんなところに行きたい。きっとそのときがまたすぐに来るはず。
「頑張ってね。わたし、なにもできないけど……」
「そんなことない。いてくれるだけで十分」
 くんはわたしの手をぎゅっと強く握った。指と指を絡めた恋人つなぎの格好だ。
さんが好きだよ。さんがいるってだけで俺には心強いから」
「ん……わたしもくんのこと、好きだよ」
 本当に本当に、くんが生きていてよかった。伝わるくんの体温が心地いい。
 それから少しの間抱きしめ合って、夜も遅いからと帰ることになった。いつの間にか佐倉さんはいなくなっていて、きっと気を遣ってくれたのだろうと思った。
「ごめん、今日は送っていけなくて」
「ううん、大丈夫だよ。くんこそ、今日はゆっくり休んで」
「うん」
 別れ際にキスをひとつして、わたしはルブランを後にした。
今日はいろいろなことがあった。怪盗団、異世界、廃人化事件や精神暴走事件の犯人、……あまりに多くの情報にまだ頭が混乱している。
 でも、それでもたったひとつだけ。くんが生きていてよかったという、その感情だけははっきりしている。
「どうか……」
 電車の窓に映る自分の顔を見つめながら、小さく呟いた。
 くんを殺そうとした人間がいる。それだけでこんなにも恐ろしいのに、パレスとやらも危ない場所らしい。くんだけでなく、怪盗団みんな危険な目に遭ってきたという。
 これからも、くんが、怪盗団のみんながどうか無事でいますように。それだけが、わたしの願い。