ハッピーバースデー
「わあ、いい匂い……」
閉店したルブランの中に、いつものあのカレーの匂いが漂い始める。わたしはテーブル席から、カレー鍋をかき混ぜるくんを見つめた。
「もうすぐできるよ」
くんの言葉に、わたしはよりいっそう胸を弾ませる。
「今更だけど、本当にルブランでよかったの? せっかくの誕生日なのに」
くんはキッチンに体を向けたまま、顔だけこちらを振り返る。
そう、今日はわたしの誕生日なのだ。
「誕生日だからね、ルブランがいいの」
「そう言うならいいけど……」
くんは首を傾げながら、再びカレーの鍋へと視線を戻す。
佐倉さんに「誕生日に閉店後のルブランを借りたい」という話をしたときも、同じように不思議そうにされたっけ。「せっかくの誕生日なのにこんな古い店でいいの?」って。
「ルブラン、大好きなお店だから」
佐倉さんに返したものと同じ言葉を、くんへ伝えた。
ルブランは高校生のときからずっとわたしの大好きなお店だ。大学生になった今も変わらない。くんとモルガナちゃんとわたしの三人で暮らす家と同じぐらい、落ち着ける大切な場所。
「佐倉さん、喜ぶよ。……はい、できた。カレーお待たせ」
「わあ、ありがとう!」
くんが出来立てのカレーをテーブルに置いてくれる。鼻腔を刺激するスパイスの香りに、わたしは思わずのどを鳴らした。
「誕生日だから、肉三割増」
「ふふ、すごい! ありがとう、いただきます!」
お皿の前で両手を合わせて、カレーを一口分口へと運ぶ。うん、おいしい!
「おいしい!」
「よかった。おかわりあるよ」
「もう、気が早いよ」
まだ食べ始めたばかりなのに、もうおかわりの話なんて。そう思いつつも、くんのカレーにスプーンが止まらない。あっという間にお皿を空にして、結局くんの勧め通りおかわりまで食べてしまった。
「ごちそうさま! ありがとう、くん!」
「どういたしまして。コーヒー淹れてくる」
「手伝う?」
「誕生日なんだからゆっくりしてて」
「ふふ、ありがとう」
お言葉に甘えて、カレー皿をシンクへ下げるくんの後ろ姿を見送った。
くんは棚からコーヒー豆を取り出すと、手際よくコーヒーを淹れ始める。
くんがコーヒーを淹れる様子は、魔法みたいだ。淀みのない手つきで生み出されるコーヒーはとっても綺麗。澄んだ濃褐色に、上品な香り。このコーヒーが、わたしは大好き。
「できたよ」
「わあ、ありがとう!」
くんはコーヒーの入ったカップを二つテーブルの上に置いてくれる。そのままわたしの向かいに座るかと思ったら、なぜか再びキッチンへ。
「くん?」
くんは冷蔵庫を開けると、フードカバーをかぶせた大きなお皿を持ってきた。布製の丸いカバーは真っ白で、中は見えないようになっている。なにが入っているんだろうと首を傾げていると、くんはふっと口角を上げてカバーを外した。
「わあ……っ」
「、誕生日おめでとう」
大皿に乗っていたのは、まん丸のショートケーキ。四号ほどのホールケーキは全体が生クリームで塗られ、上面には縁に沿うように真っ赤なイチゴが並べられている。綺麗なデコレーションの中でも目立つのが真ん中にチョコペンで描かれた猫の絵だ。
「この子、モルガナちゃん?」
「そう」
大きな頭の黒猫は、やはりモルガナちゃんだ。現実世界の姿ではない、きっと異世界の姿のモルガナちゃん。
「俺もモルガナのこの姿はもううろ覚えだけど」
「わあ、可愛い……」
可愛い可愛いモルガナちゃん。怪盗団ではないわたしはモルガナちゃんの言葉も異世界での姿もわからないけれど、わたしはモルガナちゃんが大好きだ。
「これ、全部くんが作ったの?」
「一応」
「すごい……」
「喜んでもらえてよかった」
「嬉しいよ、ありがとう。切るのもったいないなあ……」
「写真撮るよ」
くんがスマホを構えるから、わたしはモルガナちゃんケーキをそっと持ち上げくんへ向けた。
「誕生日おめでとう」
ルブランの店内に、シャッター音とともにくんの言葉が優しく響く。
くんはイチゴを一つ摘まむと、わたしのほうへ差し出してくる。わたしは迷わずそれを一口で食べた。真っ赤なイチゴの甘みが、口の中に広がっていく。
甘く幸せな誕生日は、まだ続く。