いつもの朝のお話
わたしもくんも朝が弱い。予定のない休みの日は二人してお昼近くまで寝ていることもしばしばだ。
しかし、今日のわたしは珍しく朝早くに目が覚めた。一瞬もう少し寝ていようかと思ったけれど、すっかり目が冴えている。これなら起きてしまった方がよさそうだ。わたしは起き上がり、大きく両手を伸ばした。
予想通り、くんは隣で静かに寝息を立てている。長いまつげは、毎日見ているはずなのに相変わらず目を引くほどに綺麗だ。
「おはよう、くん」
眠ったままのくんに小声で挨拶をして、そっとベッドを出た。寝室からリビングに入り、ベランダに続く窓のカーテンを開ける。
「いい天気!」
窓の向こうの南の空に、太陽がさんさんと輝いている。天気予報の通り、今日は朝から快晴だ。絶好の洗濯日和、朝食を用意する前に洗濯機を回しちゃおうかな。
爽やかな陽光に目を細めていると、「ニャア」と鳴きながらモルガナちゃんが足下にやってくる。
「おはよう、モルガナちゃん。ご飯用意するね」
「ナア~!」
モルガナちゃんを軽く撫で、キッチンからカリカリとモルガナちゃん用のお水を持ってくる。それをテーブルの上に置けば、モルガナちゃんは「ニャア~!」と嬉しそうな声で応えてくれた。
さて、次は自分の支度をしなくっちゃ。洗面台で軽く身支度を整えて、洗濯機をセットする。洗濯機を回している間に自分の朝食を済ませてしまおう。洗濯が終わるまでの時間を計算しながら、わたしはキッチンへ移動した。冷凍しておいた食パンをトースターに入れ、紅茶を淹れるためのお湯を電気ケトルで沸かす。一瞬コーヒーにしようかと思ったけれど、コーヒーはくんが淹れてくれるものが一番だからやめておいた。食器棚からくんとお揃いのカップを取り出して、ティーバッグとお湯を注いだ。
紅茶を蒸らしている間、ふと冷蔵庫に貼られたカレンダーに視線を移す。ゴミの日やわたしとくんの予定を書くために、日付欄が大きめのタイプになっている。
「あれ……」
今日の日付の欄には、くんのアルバイトの予定が書き込まれている。渋谷の花屋で十時からアルバイトがあるらしい。移動時間も考えると、くんもそろそろ起きないとまずいだろう。わたしは紅茶のカップをそのままにして、寝室へ移動した。案の定、くんはまだベッドに横になったままだ。
「くん、朝だよ」
布団をかぶるくんは、すうすうと呼吸に合わせて体を上下させるだけで、わたしの声に反応する様子はない。完全に夢の中だ。しかしこれも予想通り。わたしもくんも、ちょっと声をかけられたぐらいでは起きないのだ。
「くん、そろそろ起きた方がいいよ」
今度は両手でくんの体を揺らす。朝が弱いくんも、さすがに体を動かされて「んん……」と小さな声をあげた。
「くん、今日バイトでしょ? そろそろ起きないと」
「んー……」
「くん!」
「まだ寝たい」と言わんばかりに布団を頭までかぶるくんに向かって、わたしは大きな声で彼の名前を呼んだ。わたしも人のことが言えるわけではないけれど、くんって本当に朝が弱い。
しかし、それでもくんは布団の中で丸まったまま。起きる気配をまったく見せない。
「かくなる上は……」
わたしは小さな声でつぶやくと、両手を自身の前に出してひとつ息を吐く。そして、くんの布団を思い切り彼からはぎ取った。
「起きろ~!」
「わっ!」
わたしはベッドの端に乗り、丸まるくんのわき腹を思い切りくすぐった。えい、これならくんも起きるはず!
「ははっ、ちょ、待って」
「起きるまでやめないぞ~!」
「ふ、ははっ!」
クールなくんが、珍しく声をあげて笑っている。わたしのくすぐり攻撃が効いているようだ。よしよし、この調子ならくんの目はぱっちりと覚めるはず!
「ふふっ。くん、目、覚めた?」
程々のところでわたしはくすぐる手を止め、寝転ぶくんの顔をのぞき込む。あれだけ笑ったのだから、文句なしに起きたはず。長い前髪に隠れたくんの目を見ようと、わたしはさらにくんに顔を近づけた、そのとき。
「わっ!?」
くんに腕を引っ張られ、わたしの視界は反転する。背中に感じる柔らかな感触は、間違いなく数十分前まで寝転がっていたベッドのマットレスのものだ。そして目の前に見えるのはくんの小さな顔。前髪に隠れていたくんの瞳も、今ははっきりと見える。
そう、つまりはくんがベッドに寝転ぶわたしの上に乗っている状態だ。
くんはいつものポーカーフェイスをほんの少し崩して、小さく口角を上げた。グレーの瞳には、なにかを企むような、悪戯っぽい色が浮かんでいる。
「くん……?」
決して怒っているわけではなさそうだけれど、くんがなにを考えているかわからない。ドキドキしながらくんの様子をうかがうと、くんの手がわたしの体へ伸びてくる。
大きなその手が、わたしに触れた。
「待っ、あはは! くん、くすぐったい!」
くんの両手は、わたしのお腹の横をくすぐり出す。ふわふわと柔らかいくんの手の動きは絶妙で、くすぐったくて仕方ない。わたしは思わずバタバタと足を動かすけれど、くんは「仕返し」と言ってくすぐり攻撃を緩めない。
「ふふっ、くん、あははっ!」
こしょこしょと動くくんの手を取って止めようとするけれど、くすぐったくてうまく力が入らない。あまりに笑いすぎて、だんだんと息が切れてくる。くんもわたしが苦しくなってきたことを察したのか、ようやくわたしのお腹から手を離した。
「はー……」
息を整えるわたしの横に、くんが寝転がる。悪戯が成功した子供のような笑顔を見せるくんに、わたしは頬を膨らませた。
「くんってば」
「先にやったのは。俺はお返し」
「もう!」
「ごめんごめん」
くんはくすりと笑うとわたしの髪に触れた。柔らかい手に、拗ねて尖っいたわたしの唇は簡単にしぼんでいく。もとより、本気で怒っていたわけでもない。
ふっと、カーテンの隙間から差し込む日差しが、くんを照らした。ああ、朝だなあ。温かな陽光につられて、わたしの目尻が自然と下がる。
「おはよう、くん」
改めて朝の挨拶をすると、くんも笑って「おはよう」と言ってくれた。くんはもうあの悪戯っぽい笑みではない、優しく穏やかな表情だ。
わたしたちはしばらくベッドで横になったまま、笑顔でお互いを見つめ合う。いつもより早く起きても、結局二人でこうやって過ごしてしまうなんて、それはそれでわたしたちらしい。
わたしはくんへ体を寄せて、彼の唇にキスをした。ぎゅっとくんに抱きつけば、くんもわたしを抱きしめる。
暖かい日差しに包まれて、ああ、朝だなあ。幸せな朝だなあ、なんて思った。
くんのアルバイトの時間や、蒸らしたままの紅茶のことを思い出したのは、洗濯機から洗濯終了の音が鳴ったときでした。