地元の恋人/2


 それからもぶらぶらと渋谷の街を歩いた。メインストリートを歩いているだけでくんはいろんな人に呼び止められていた。クラスの友人という男子や、ロングヘアの同年代の女の子、くんは将棋にはまっていて彼女に教えてもらっているとか。強面の男の人が話しかけてきたときは驚いたけれど、アルバイトをしているミリタリーショップの店長さんらしい。
くん、すごく知り合い多いんだね……」
「そう? まあ、そうか」
 地元時代、くんは初対面であっても誰とでもすぐに話せてしまうタイプではあったけれど、友人が多いほうではなかった。それが今は渋谷を歩いているだけで代わる代わる呼び止められるぐらいに多くの人と親しいようだ。
「でも、いつもはセントラル街歩いてるだけでこんなに知り合い会わないよ。俺もちょっとびっくりしてる」
「そうなの?」
「うん。渋谷って言ったってそれなりに広いし……それで、渋谷満喫できた?」
「うん。すごかった。人がいっぱい」
、そればっかりだ。俺も最初はそうだったけど。満喫したならそろそろ家行く?」
「うん。おうち、喫茶店なんだっけ」
「そう。いいとこだよ」
 くんはわたしの手を引いて駅の方角へと歩き出す。四軒茶屋へは田苑都市線で行くようだ。いちいち上にかけられた案内板を見るわたしと違い、くんは慣れた様子で歩いている。なんだかくん、「東京の人」と言う感じだ。もう四ヶ月も東京に住んでいるのだから慣れていて当然なのだろうけれど。
 四軒茶屋駅から歩いてすぐにくんは足を止めた。どうやらここがくんが住んでいる喫茶店のようだ。
「ルブランだっけ。雰囲気のあるお店だね」
「うん」
 そう言いながらくんはドアを開けた。店内はあまり広くはなく、建物自体も少し古めかしい。いかにも純喫茶という雰囲気が漂っている。
「よお、おかえり。お、その子が彼女か」
「こ、こんにちは」
 カウンターの中にいる男性にわたしはぺこりと頭を下げた。おそらくこの人がくんの保護司を引き受けてくれた佐倉さんだ。
「コーヒー好きかい? 遠路はるばる来たんだしサービスするよ」
「え……でも」
「俺はブレンドで」
「お前厚かましいなあ……別にいいけどよ」
 ほら、とくんに促され、わたしは紅茶を頼んだ。実は苦いのが苦手なのでコーヒーはまだ飲めないのだ。
「ほい、お待ちどうさん」
「ありがとうございます」
 佐倉さんからカップを受け取り、そっと口をつける。あまり渋みのないタイプの茶葉のようだ。さっぱりしていて飲みやすい。
、コーヒー苦手なんだっけ」
「う、うん……ちょっと苦いのは」
「俺も高校生の頃はコーヒーなんて飲んでなかったしな。いつか飲める日が来るさ」
「ありがとうございます」
 佐倉さんの言葉を聞いて、もう一口紅茶に口をつけた。高校生にもなってこんなお子様舌で……と思っていたけれど、今喫茶店を経営している佐倉さんにそう言われると安心できる。
くん、前はコーヒー飲んでたっけ」
「地元ではあんまり……こっち来てから飲むようになった。ここのコーヒーおいしいし」
「お、なんだ今日は。嬉しいこと言うじゃねえか」
 くんの言葉に佐倉さんは顎の髭をいじりながら嬉しそうに笑う。前も言いませんでしたっけと首を傾げながらブラックコーヒーを飲むくんは、少し大人びて見えた。
「ごちそうさまです」
「はいよ。ごゆっくりな」
 カップを佐倉さんに返し、わたしはくんに連れられ上に上がった。ここがくんの部屋のようだ。
「ここがくんのお部屋なの?」
「そう、古くさいけど住めば都。ま、今は蒸すけど」
「ふふ」
 くんに促されわたしはソファに座った。ソファも随分年季が入っているようで座るとぎしりと軋む音がする。
「結構歩いたから疲れたろ」
「少しだけね。でも大丈夫だよ」
 足は多少張っているけれどまだまだ大丈夫。くんに会えたのだから多少の疲れなど気にならない。
くん、東京でもちゃんとやれてるみたいでよかった」
「ちゃんとかはわからないけど、なんとかね」
「やれてるよ、見ればわかる」
 くんが東京へ行くと聞いたとき、離れることの不安以外にもくんがいきなり東京で一人暮らしなんて大丈夫だろうかと心配だった。まだ高校生なのにひとりで暮らしていかなくてはいけないという不安、そして見知らぬ土地にいきなり引っ越して友人ができるのかという不安。けれど今日一日でそれらすべてが杞憂だったことを知る。この部屋は埃ひとつないとまでは言えずとも整頓されているし、今日だけで何人ものくんの知り合いと顔を合わせた。
 くんは東京でも問題なくやれている。それはとても喜ばしいことのはずなのに、ほんの少し寂しく思う。
「そう? 洗濯したら色移りしたとか、料理したら鍋が焦げたとか、そういうの結構あるよ」
「そ、そうなの?」
「まあ、たまに?」
 くんがとぼけたように首を傾げるから、わたし「もう」とため息が漏れてしまう。
「でも……本当、なんとかなってるよ。こっち来るって決まったときはどうなるかと思ったけど」
 くんは自分の部屋を見渡しながらつぶやいた。
 四ヶ月前、東京へ向かう電車へ乗るくんの背中はひどく弱々しかった。やってもいない罪を背負わされ、故郷を追われた身では当然だろう。このままひとりで東京に行かせたら、くんが壊れてしまうのではと心配したほど。
 けれど、今のくんにそんな弱々しさは微塵も感じられない。都会の荒波に揉まれて強くなったのか、それとも違う要因があるのだろうか。わからないけれど、くんはもうあのときわたしが心配したくんではないことだけはわかる。
「うん……よかった」
 そう、よかったはずだ。わかっている。くんが悲しみながら東京でひとり暮らしているより、逞しく毎日を過ごしているほうがずっといい。だけれど、少し、ほんの少し寂しく思う。わたしは毎日くんが側にいなくて寂しくて、周りの雑音も怖くて仕方ないのに、くんはこちらでしっかりやっている。くんが少し遠い存在になってしまったかのようだ。
、大丈夫?」
「え?」
「暗い顔してる。やっぱり疲れた?」
 くんがわたしの顔をのぞき込む。落ち込んだのが顔に出てしまっていたようだ。
「ううん、大丈夫だよ」
 くんに精一杯の笑顔で答えると、くんは少し複雑そうな表情を作る。
、もうずっとそればっかりだ」
「え?」
「……さっきもそうだし、俺が引っ越すことになるって言ったときも。ずっと「大丈夫だから」って笑ってる。無理してるの、わかるよ」
「あ……」
 ぎゅっと心臓が痛んで、下を向いた。そんなことないよ、大丈夫だよって笑いたいのに、もう笑えない。
「わたし……」
「俺のせいで、寂しい思いをさせてごめん」
「ち、違うの!」
 くんの暗い声を聞いて、わたしはぱっと顔を上げた。
「違うよ、くんのせいじゃない」
 震える唇で、わたしは必死に言葉を紡いでいく。これだけは、ちゃんと伝えなくてはいけない。
くんのせいじゃないよ。だって、くんなにもしてないんだよ。それなのに逮捕されて、引っ越すことになって……絶対絶対、くんのせいじゃない」
 「自分のせいで」それだけは絶対に言わせたくないことだった。だからわたしはどんなときでも大丈夫と言ってきた。くんに自分を咎めて欲しくなかったから。くんはなにも悪くないのだから。
……」
「お願いだから、そんなこと言わないで」
 くんの手をぎゅっと握った。お願い、お願い。ただでさえ大変な目に遭っているくんに、これ以上自分を責めて欲しくない。
、ごめん」
 くんがわたしの瞼の下を拭うから、わたしはようやく自分が泣いていることに気づいた。
「ごめん、わかった。もう言わない。だから、も思ってること素直に言って欲しい。寂しいとか、つらいとか。俺のせいだって思わないから、言って欲しい」
「そんなの……」
「俺はが思ってること、ちゃんと聞きたい」
 くんの言葉が、じわりと胸の中に広がっていく。わたしの考えていること、思っていること。
「わたし……」
が思ってること、俺は全部受け止めるよ」
 ぎゅっとくんがわたしを抱きしめた。穏やかで暖かいくんの腕の中。じわりと心が解けていく。
くん……」
 涙が流れると同時に、ひとつひとつ言葉がこぼれていく。
くんがそばにいなくて、寂しい……」
「うん」
「いつでも会える距離じゃないの、すごく寂しくて、あと半年もって思うと悲しくて……いろんなこと言う人も、たくさんいて……」
 くんは口を挟むことなく、ただわたしの言葉に頷くだけ。優しい声で、優しい瞳で。
「……でもね、一番つらいのはね、くんが大変なときに側にいられないこと」
 からからの声で、胸の底から言葉を紡ぐ。わたしが一番つらいのは、そこなのだ。
くん、すごくすごく大変でしょ。冤罪押しつけられて、それでひとりで引っ越しすることになって……本当は側で支えたかった」
 わたしもくんと一緒に行けたらどんなによかっただろう。くんをひとりにさせず、つらいときに寄り添っていたかった。親の庇護下である学生という自分の立場をこんなに呪ったことはない。なにもかもをなげうって、くんについていきたかった。

 くんはわたしの顔をそっと持ち上げると、唇にキスを落とした。優しくて甘いキスは、心に染み渡るようだった。
「俺もに会えなくて寂しい。ずっと会いたいと思ってた」
「……ん」
「側にいてくれたらって思ったこともある。でも、離れていてもが待ってる、俺を好きでいてくれるって思えば大丈夫なんだ。だから、あまり自分を責めないで」
 くんは指の背でわたしの涙を拭うと、もう一度キスをする。触れる唇は、熱い。
「どこにいたって、が俺を好きだって言ってくれる。それだけで十分だ。俺は救われてるよ」
 優しく微笑むくんの瞳は穏やかながらに力強くて、心の底から射抜かれるようだ。
が大好きだよ。ずっとね」
「うん……わたしも」
 わたしたちはそのまましばらくの間抱きしめ合った。触れたくんの体はやはり前より逞しくなったような気がする。先ほどの言葉だってそう。わたしに無理をさせないよう、そしてわたしを傷つけないように言葉を選んでくれているのを感じた。それでいてわたしの本心を吐き出させるような言葉たち。くんは元々優しい人だったけれど、なんだかとても強くなったように思う。


「……じゃあ、またしばらくお別れだね」
「うん」
 わたしが地元に帰る日、くんは新幹線の駅まで見送りに来てくれた。
「また来るから」
「うん、待ってる」
 最後のお別れに、くんに抱きついた。背中まで腕を回すとやはり以前より胸板は厚くなったなあと思う。
「もうすぐ電車が来る」
「……うん」
 ホームに響く次の列車のアナウンス。お別れの時間が近づいている。
、俺は大丈夫だから」
「……ん」
 その言葉が少し、ほんの少しだけわたしの胸に寂しく響く。
くん……なんか、強くなったね」
 地元を離れるくんを見送ったとき、その背中が弱々しくてひどく心配したのを覚えている。知らない場所でひとりで大丈夫かな、やっていけるかなと。けれど再会したくんにあのときの弱さは感じられず、むしろ逞しくなっていた。泣いてしまったわたしをすべて包み込んでくれるほどに。
「そう?」
「うん……なんか、ちょっと遠くなっちゃったみたい」
 男の子って、本当にすぐ大きくなってしまう。
 くんが東京に行くことになったとき、あんなに心配したというのにその心配はすべて杞憂だった。くんがつらいときに側で支えられないことがあんなに悔しかったのに、くんは見知らぬ土地でも強く自分の足で立っていた。
 離れている間、くんは地元ではいなかったような友達を作り、飲んでいなかったブラックコーヒーを飲むようになって、弱々しい背中は随分逞しくなった。そして、何よりもその瞳。今は眼鏡の奥で見えにくいけれど、それでも隠せないほどにくんの瞳は力強い。地元にいたときとは比べものにならないぐらい。
「……
 くんはそっとわたしの手を取った。その手は大きくわたしの手はすっぽり収まってしまう。
の言うとおり、こっちに来てからいろいろあったんだ。俺自身変わったことがたくさんあると思う。地元にいたときとは、違う人間になったような気がすることもある」
くん……」
「でも、これだけは覚えてて」
 くんは、わたしの頬に触れる。その瞳は今までよりずっと力強くて、わたしは目をそらすこともできない。
「どんなに変わっても、のことを好きだって気持ちだけは変わらない。それは絶対だから」
 くんはそう言ってわたしを抱きしめてくれた。その腕がすごく力強くて優しくて、やっぱりくんは変わったのだろうと思う。でも、それでもいい。どんなに変わってもくんはきっとずっとわたしの好きなくんで、わたしのことを好きでいてくれる。それで、十分。
 電車がついに来てしまった。涙を流しながら、名残惜しい思いを抱えながら新幹線に乗った。
、また」
「……うん。また必ず来るからね」
「うん」
 新幹線の扉が閉まるまで、わたしたちはずっと見つめ合っていた。列車が発車して、見えなくなるまで、ずっと。
くん……」
 どうしても抑えきれなくて、扉の前で崩れ落ちるように泣いた。でも、大丈夫。寂しい思いは消えないけれど、わたしだって大丈夫。くんはわたしをずっと好きでいてくれる。だから、大丈夫だよ。