年上の幼なじみ/2
五月の半ば、水曜日。くんとの約束の日だ。大学の講義を終え一度家に寄ってから四軒茶屋へやってきた。駅から徒歩一分だけれど、くんが「目立つ外観じゃないから」と言って駅まで迎えに来てくれた。
「さん、四茶よく来るの?」
「これが初めて。いつも電車で通過するだけだったから」
「あ、ここ」
そう言ってくんが立ち止まったのは赤い庇のお店だ。少し古めかしい建物で純喫茶と呼ぶにふさわしい外観だ。四軒茶屋の雰囲気にもよく馴染んでいる。
「あれ、でももう閉店?」
「うん。朝俺が学校行く前からやってるし、佐倉さんひとりでやってるお店だから閉まるのは結構早い」
「そっかあ……手土産持ってきたんだけど」
くんがお世話になっている佐倉さんに初対面と言うことで一応お菓子を持参してきたのだけれど、残念ながらガラス戸から見える店内は暗く誰もいない様子だ。これでは渡せないか。
「さん、本当に親みたいだ」
「お、親じゃないけど弟みたいに思ってるくんがお世話になってるんだから、これぐらいは」
「弟?」
「そりゃあ……さすがに四つ差で息子とは言えないし……」
そっちじゃないんだけど、そう言いながら鍵を回すくんの表情は不満そうだ。高校生の男の子はやはりこういう丁寧なやりとりは照れくさいのだろうか。しかしこれは人としての礼儀だと思うので、持ってきたお菓子はくんに渡した。
「佐倉さんに渡してもらっていい?」
「わかった。渡しとく」
くんはわたしから受け取った紙袋をテーブル席に置くと、カウンターの中からエプロンを持ってきてひとつをわたしに渡した。
「なに作るの?」
「作り置きできるおかずをね。毎日作るのは大変でしょ? 冷蔵庫入れるだけでも結構日持ちするし、お弁当に持って行ってもいいと思うよ」
丸二年の一人暮らし経験から、単身住まいを始めてすぐの頃に頻繁に自炊しろなんてハードルが高いことはわかっている。だったら週に一度、何日か分のおかずを作っておくのが吉だ。
「持ってる袋、中身キャベツ?」
「そう、キャベツ」
「キャベツ……」
「豚肉もあります!」
肉という言葉にくんの顔はほんの少し明るくなる。やはり男子高校生は肉か。
「そんな小難しいことせずにちょっと炒めるだけだけどね。正直来なくてもレシピ送ればできるかなあって思ったんだけど」
「いや、送ってもらっただけじゃ無理。ひとりじゃ多分やらない」
「やっぱり? わかるよその気持ち」
わたしもひとりでは料理する気が起きないことも多い。それは一人暮らしを始めて丸二年がたった今もあるのだから、くんの場合今まで料理をしてこなかったのなら尚更だろう。
とは言え、くんはこちらへ来る前ご両親に包丁の使い方等は教えてもらったようだ。事実わたしの隣でキャベツを切る手つきはきちんとしている。少なくとも一人暮らし当初のわたしに比べたらずっとしっかりしているようだ。
豚肉とざっくり切り分けたキャベツを蒸した後、ソースと絡めて炒める。あっという間にできる……というほどではないけれど、ふたりで一緒にやるのならばこれぐらいの手間は余裕だ。くんも調理中面倒という表情は見せていなかったのでほっと一安心。
「あ、おいしい……」
「本当? よかった。丼にしてもいいし、お弁当に持って行ってもいいし」
「なるほど。確かに悪くないかも、こういうの」
くんはお箸で料理をつまむ。これで今週、くんの主食が毎日カップラーメンなんてことは避けられるはず。
「さん、来週も来てくれる?」
「うん、もちろん。くんはいつなら都合いい?」
「俺は……」
おかず片手にふたりで予定をすり合わせながら、わたしは内心ほっとしていた。くんからこう言ってくれたのなら本当に料理タイムを楽しんでくれたということだから。
今作ったおかず、買ってきた惣菜と喫茶店のほうで残ったという白米を食べ終え、ふたりで食器を片づける。
「そうだ、くん。わたしのことさん付けしなくていいよ」
お皿を洗いながら、再会したときから気になっていたことをくんに告げた。
再会した直後、くんはわたしに敬語を使っていた。しかし話しているうちに気持ちが昔に戻ったのかすぐに敬語は抜け昔のような話し方になった。名前の呼び方もすぐに昔のものに戻るかと思っていたけれど、今日もまだ彼はわたしを「さん」と呼ぶ。
「昔はちゃんって呼んでたじゃない」
「この年になってちゃん付けはちょっと」
「そう? わたしは気にしないけど」
「俺が気にする」
くんは洗ったお皿を拭くのを止め眼鏡を直す。照れたようなその様子を見てわたしは笑みをこぼしてしまう。
「なんで笑う?」
「ふふ、男の子だなあって」
昔は照れることなどなく「ちゃん」と言ってわたしの後をついてきてくれたと言うのに、今は呼び方すら恥ずかしがってしまうなんて。くんは高校生の男の子なのだなあと実感してしまう。
微笑ましく思っていると、くんはお皿を置いてわたしのほうに寄った。どうしたの、そう聞く前にくんが真剣な表情で口を開いた。
「」
その声は、一際低い声だった。意志がはっきり見えるような、芯の通った男の人の声。
初めて聞いたようなくんの声で突然呼ばれた名前に、心臓が跳ねる。それと同時に、手の中のお皿がするりとシンクの中へと落ちていった。
「あっ!」
落ちたお皿はガシャンという派手な音を立ててバラバラに割れた。いけない、おそらくお店のものだろうに。
「ご、ごめん、これ、お店のだよね? 弁償するから」
「いや、それ俺の。実家から持ってきたやつ」
「あ……そう? 今度新しいの買って持ってくるね」
くんのものでも割ったのはわたしなのだから弁償はしなくては。やたらと早く鼓動を打つ心臓を抑えながら、くんにそう告げた。
「ほかもあるから別にいいよ。適当に持ってきたやつだし」
「そういうわけには……痛っ」
割れたお皿を片づけようとしたら指を切ってしまった。指の先がぱっくりと割れて血が流れ出す。
「切った? ちょっと待ってて」
くんはわたしにティッシュを渡すと、棚の中の救急箱から絆創膏を取り出した。
「手、出して」
「え、いいよ自分で貼るから」
「利き手には貼りにくいだろ」
「だ、大丈夫だって」
「いいから」
くんは遠慮するわたしの声を遮り、手を掴む。左手でわたしの手全体を包みながら、右手で人差し指に絆創膏を貼っていく。
「はい、できた」
「あ、ありがと……」
「残りは俺が洗うからさんは待ってて」
さん、その言葉にわたしはひゅっと背筋を伸ばしてしまった。
「って呼んだ方がよかった?」
「いや、さんでいいです!」
「はい」
くんはくすりと口元に笑みを浮かべると視線を洗い物へと向ける。そんなくんを横目に、わたしは絆創膏が貼られた自分の指をなぞる。
……先ほど触れたくんの手は、随分と大きかった。わたしの手がすっぽり収まってしまうぐらいに。小さな頃、彼の手を引いて歩いたときとはまるで違う。武骨な、男の人の手だった。
「さん、終わったよ」
「あ……ありがと」
ぼんやりしていたら、いつの間にかくんは洗い物を終えエプロンを外している。わたしもそろそろお暇しなくてはいけないだろう。
「じゃあ……今日は帰るね」
「駅まで送ってく」
「え、いいよそんなの。すぐ近くだし」
「嫌って言ってもついて行くから」
くんは有無を言わさないと言った様子だ。昔からくんは一度言い出したら聞かないタイプだった。こういうところは変わっていない。
「わかった、ありがと」
くんとふたりで駅までの道を歩きながらも、わたしは先ほどのことが気になっていた。名前を呼ばれたときの声、触れた指。くんは、本当に大きくなったのだ。
四軒茶屋駅に着き、ICカードを鞄から取り出した。「またね」とくんに言うと、彼は髪の毛をいじりながら口を開く。
「次は来週」
「う、うん」
「来てくれないと多分また毎日カップ麺になるんで」
「それは……だめだよ?」
「それに……」
くんは小さな、本当に小さな声で呟く。
「……話相手がいると、楽しいんで」
俯きながらそう話すくんの表情は寂しげだった。眉を下げ視線を下げ、曇った瞳を見せる彼。わたしは思わず叫ぶように「もちろん来るから!」と言ってしまった。
「待ってる」
「……うん。じゃあね、また」
笑顔を戻したくんに手を振り、わたしは改札をくぐった。すぐに来た電車に乗って、息をつく。
……くん、やはり寂しいのかもしれない。縁もゆかりもない見知らぬ土地にひとりできて、学校では噂話も立てられているのだから当然だ。友達はできたと言っていたけれど、どの程度親しいのかはわたしにはわからない。もしかしたらそれほど強い友人関係ではないのかもしれない。
「……よし」
小さく声を出して気持ちを入れ替える。くんの指に触れて変な気持ちになっていたけれど、そんなこと考えていたわたしがバカだった。先ほど見たくんの寂しげな表情は、わたしが引っ越すときに見送ってくれたくんにそっくりだった。大人っぽくなったと思っていたけれど、まだ高校生。不安に駆られることも多いだろう。そんな彼の力にならなくては。
それから週に一度、わたしはくんの部屋へと通い始めた。再会したときの言葉の通り簡単なご飯を教えに行くこともあれば、ただおしゃべりをするだけのときもある。
ルブランに通うことを継続したのは、くんのご飯事情が心配なのもあるけれど、それ以上に精神状態が心配だったから。親からも気にかけてあげてと言われていたし、なによりわたし自身、大切な幼なじみを放っておけなかった。
今日もまたくんとおかず作りに勤しんだ後、ルブラン店内でおしゃべりだ。どちらかというといつも喋っているのはわたしの方で、くんはにこやかに頷いているだけ。くんは昔からぺらぺら喋る方ではなかったし、これでいいのだろう。
くんは佐倉さんに教えてもらったというコーヒーを淹れてくれた。「お店のなのにいいのかな」と言ったら「練習しておけって言われてるから」とのこと。
「さん、コーヒー好き?」
「うん。結構家でも飲んでるよ。って言ってもインスタントかドリップのパックのやつだけどね」
「よかった。嫌いなら淹れても仕方ないし」
「課題がたくさん出た日とかはコーヒー片手に勉強三昧だよ。カフェイン様様」
「わかる。課題とかバイトとかなぜか詰まるんだよな……」
くんは苦い顔でコーヒーを飲む。やはりくんは毎日慌ただしく過ごしているようだ。
「忙しそうだけど体調気をつけてね。毎日佐倉さんが来てるみたいだけど、ひとりで体調崩すと本当に不安だから。これからの季節は熱中症とかもあるし」
「気をつける。まあ、一応体は丈夫だし」
「そうやって油断してるとわかんないよ? 昔はよく風邪引いてたし……」
「それは……子供だったから」
くんが小学校に入る前、よく風邪を引いたというくんをお見舞いに行ったことを思い出す。確かにくんの言うとおり、子供というのは体調を崩しやすいものだ。高校生となればそうそう心配せずともいいのだろうけれど、どうしたってあのときの印象が拭えない。
「さん、まだ俺のこと十歳だと思ってない?」
「え? そんなことは……」
「ありそう」
くんは表情を崩さないままコーヒーカップをテーブルの端に寄せた。手を伸ばして触れたのは、わたしの指先だ。
「くん?」
「傷、治った?」
「あ、うん」
先日ここでお皿を割ったときに切った傷は、今はすっかり綺麗に消えている。ほら、とくんに指先を見せると、彼は「よく見えない」と言ってわたしの手を自分の方へと寄せる。
「薄ら痕が見える」
「え、そう?」
「ここ」
つ、とくんはわたしの指先を優しく撫でた。ひゅんと背筋が真っ直ぐに立ってしまう。
「心配かけてるのは、さんも同じ」
「う」
「ケガ、気をつけて」
「わ、わかってます」
言いながら手を引っ込めると、くんは涼しい顔でコーヒーカップに口をつける。その表情は妙に大人っぽくて、わたしは目を逸らした。
……やはり、くんの手、大きいな。昔とはまるで違う。
くんといると昔に戻ったような感覚になって、くんのこともあの頃のままのような気がしてしまう。けれど、ときどき、ほんのときどきくんはあの頃のくんではないと、思い知らされる。
ルブランは朝早くから開店しているため閉店も早い。わたしが授業や用事を終え四茶へと赴く頃にはいつもルブランは閉まっている。おかげでくんの保護司を引き受けてくれたという佐倉さんにはまだ一度も会えていない。
くんと再会してから一ヶ月半がたった六月の終わり。今日はルブラン訪問の日だけれど、四茶へ赴く前にくんと渋谷で待ち合わせだ。
「あった、ここ」
商業施設に入った百円ショップにふたりで入る。今日はここでお買い物だ。料理に使う小道具たちが不足してきたから。
「タッパーと……なんだっけ」
「袋、ファスナーついたやつ」
フロアの半分ほどを占める広い店内を回りながら、必要なものをくんの持つかごに入れていく。タッパーに保存用の袋、お弁当用の小分けのカップやバランもほしい。くんと相談しながら買うものを決めていく。
「結構買うものあるなあ。あ、これも買っておこう」
わたしが手に取ったのはカップケーキ用の型だ。「お菓子作るの?」とくんに聞かれたので「たまに」と答える。
「大学の友達にそういうの好きな子がいて、たまに一緒に作ってるよ。クッキー焼いたりケーキ焼いたり」
「へえ。食べてみたい」
「そう? なら今度持ってくるね」
軽く答えたけれどわたしは内心気合いを入れていた。自分たちだけで食べるのなら失敗しても軽く笑っていられるけど、くんが食べるのならちゃんとおいしいものを作らねば。
一通り店内を回り、レジの列へと並んだ。今日は日曜日でもないのに混んでいて、なかなか順番が回ってこない。
「あれ、じゃん」
お会計の順番を待っていると、ひとりの男の子がくんに話しかけてくる。秀尽の制服を着ているからきっとくんの同級生だろう。
「三島」
「……って悪い、ひとりじゃなかったのか」
彼……三島くんは話しかけてからわたしの存在に気づいたようだ。頭をかきながらわたしを見やると、くんの方へと近づいていく。
「なんだよ、間に合ってるって言ってたけど本当に彼女いたのかよ。しかも年上!」
「えっ!」
三島くんは小声だったけれど、その言葉は確かにわたしに届いてしまった。
彼女。年上。それはわたしを指しているのだろう。
「い、いやいや、違うよ。わたしはくんの幼なじみで」
三島くんに自己紹介するより先にそう言った。とりあえず何よりこの誤解を解かなくては。
「え? そうなの?」
「まあ、そう。昔隣に住んでて」
「結構前に引っ越しちゃったんだけどね。四月にくんも東京来るって連絡もらって、ちょくちょく会ってて」
「そ、そっか。いやー、焦った~」
三島くんは汗を拭う仕草をして、ほっと息を吐いている。そういえば高校の頃、クラスの男子たちは誰かに彼女ができるとお祝いすると同時に悔しがっていたっけ。
「邪魔してすみません。俺もう行くんで」
「邪魔だなんて。くんの友達に会えて嬉しかったよ」
「どもっす」
三島くんは軽く会釈をすると店内の奥へと入って行く。最後の言い方、見た目と違い体育会系なのだろうか。
「あの子、最初にできたって言った友達?」
「いや、そいつとは違って……ま、友達だけど」
「ふふ、よかった。くんの友達に会えて」
ずっとくんが学校でちゃんとやれているか心配だった。例の噂は相変わらず流布しているようだし、友達はいるのか、いたとしても仲良くやれているのか。くんの言葉を疑っていたわけではないけれど、実際に会えると安心感は増す。
「友達できたって言ったの、嘘だと思ってた?」
「そういうわけじゃないけど……学校でどうしてるのかなあって心配したし」
「さん、本当に親みたいなこと言うな」
「そりゃ、親じゃないけど……」
くんのことは昔から弟みたいに思ってきた。だから新しい土地でちゃんとやっているか、学校でいじめられていないか、心配するに決まっている。
そう、弟。可愛い可愛い弟だ。ずっと昔からそう。街をふたりで歩けばいつも「仲のいい姉弟ね」なんて言われてきた。でも、そうか。今はふたりで歩いても、姉弟とは思われることはない。カップルと、思われてしまうのか。
なんだか無性にくすぐったい。再会したあの日、くんは随分大人っぽくなったと思ったし、何度か会っているうちに大人になったと実感するシーンは多々あった。外から見ても、やはり昔とは違う印象になるのだ。
「弟みたいって?」
隣でかごを持つくんから、そんな声が降ってくる。ただ顔を横に向けただけでは彼の首もとが見えるだけ。見上げなくてはくんの表情は見えない。
「……うん、まあ……」
なぜだかわたしはすぐに頷くことができなくて、曖昧な答えだけを返した。
まだ高校生、されど、もう高校生なのだ。