年上の幼なじみ/3
七月某日、週に一度のくんとの約束の日。わたしは四軒茶屋へ向かう電車に乗っていた。いつもはこの時間はそこまで混んでいないのだけれど、今日は人身事故があったせいか田苑都市線は大混雑だ。
もうすぐ渋谷の次の駅というところで緊急停止。もう何度目だろう。電車の間をあけるためらしいけれど、止まるたびに人が押してくるのがつらい。
ぎゅ、と鞄を前に抱いて人混みに耐える。あと二駅の我慢だ。息を吐いたところで電車が動き出す。突然のことにバランスを崩しかけた、そのとき。
「さん」
「くん!」
わたしの腕を引っ張って支えてくれたのはくんだった。くんは制服に身を包んでおり学校帰りのようだ。
「大丈夫?」
「だいじょう……わっ」
大丈夫、そう答えようとしたらまた人波が押し寄せてくる。引き離されそうになるのをくんが支えてくれる。
「大丈夫じゃなさそう」
「で、ですね……」
「こっち」
くんは強引に人をかきわけて、わたしを自分の方へと引っ張る。体をするりと反転させて、わたしを壁際へ立たせた。くんが壁のような形になって、わたしを人混みから守ってくれている。
「くん……」
「ん?」
「ありがとう」
ごめんねとか、悪いよとか、そういった言葉も思いついたけれど今言うべきはこれだろう。そう思い見上げてお礼を言うと、くんは微笑んでくれた。
「どういたしまして」
それから四茶までの間に、電車は何度も止まったり発車したりを繰り返していたけれど、くんのおかげで人に揉まれることはなかった。
無事に四軒茶屋に着き、くんと降車した。けれど階段近くの扉だったためか、乗降者の人数がやたらに多い。また人波に巻き込まれそうになると、くんがわたしの手を掴んだ。
「くん」
「迷子になりそう」
「な、ならないよ。改札抜ければそんな混んでないし……」
「そう?」
くんは首を傾げるとくすりと笑う。
「昔と逆だ」
「逆?」
「昔はよく、迷子になりそうな俺の手を握って引っ張ってくれてた」
くんは繋いだ手を見ながら郷愁の面持ちで呟いた。
確かにそう。くんは大人しそうに見えて好奇心旺盛な子だったから、よくちょろちょろしてはぐれそうになっていた。そんなとき、「迷子になっちゃうよ」と言って彼の手を引くのはわたしの役目だった。
もう、わたしがくんの手を引くのではない。くんはわたしの手を引くぐらい大きくなったのだ。
「くん、あの……」
「ん?」
「もうそんなに人いないし、大丈夫だよ」
田苑都市線を降りた人たちは一斉に改札をくぐり、もうわたしたちの周りにほとんど人は残っていない。手を繋がなくてもはぐれることはないだろう。
「……そう」
くんは小さな声でそう言うと、わたしの手を離す。「ルブラン、行こうか」と言ったくんの後ろ姿は仄かに揺れているように見えた。
ルブランに着き、今日のメニューを説明する。今日のメイン野菜はナスだ。
料理をしている最中も、先ほど握られた手の感触がなかなか消えてくれない。気を晴らそうとわたしはくんに学校の話題を振った。
「そういえば、くんもうすぐテスト?」
「うん」
「期末って大変だよね、範囲も広いし科目も多いし」
「まあそこそこ。中間も悪くはなかったからどうにかなると思う」
「へえ……」
以前中間前にテストの話題を振ったら苦い顔をされたけれど今回は余裕がありそうだ。学生の本分である勉強も頑張ってくれているようでなにより。
「テスト、頑張ってね」
「ご褒美あったらもっと頑張れる」
「えっ」
ご褒美。その言葉に思わず隣にいるくんを見上げた。
「ご褒美?」
「うん」
「な、なにをご所望?」
「それは秘密」
くんはずいと体をわたしに寄せて、眼鏡の奥の瞳を光らせる。心臓まで射抜くような強い眼差し。鋭い視線にわたしは一瞬怯んでしまう。
「え……」
「別にそんな変なことは言わない。ただ、成績よかったら我が儘ひとつ聞いてほしい」
「え、えっと、あんまり高いのはなしね? 一人暮らしの大学生が出せる範囲のもので……」
「そういうんじゃない」
ふいとくんは視線をまな板の上に戻した。ナスを切るくんの手つきはもう慣れたもので、わたしの手伝いなど必要としていないように見える。
そんなくんの横で、わたしは思考を巡らせる。「そういうんじゃない」ということはお金で買えるものではない。だからと言って「変なことではない」らしい。
だめだ。思考がぐるぐるしてしまって全然集中できない。わたしが切ったナスはなんとも歪な形になってしまった。
来る七月十九日。今日はまたルブラン訪問の日。いつものようにルブランのドアを開けると、カウンター席に座っていたくんが挨拶より前にスマホの写真を見せてきた。
「これって」
「期末の順位」
「えっ」
そこには「四位 」という順位が映っている。四位なんて、わたしも取ったことがない順位だ。
「これはいい成績に入る?」
「それはもちろん……」
これを見ていい成績でないと言う人間なんてほんの一握りだろう。十分すぎるほどにいい成績だ。
「じゃあご褒美だ」
「あ……」
そう、その話をつい二週間ほど前にしていた。学業も頑張って欲しいと思っていたけれど、まさかこんな展開とは。
「あの、お手柔らかにね?」
どうしよう、くんはなにを言うつもりなのだろう。お金で買えるものではない、けれど変なことでもない。二週間考えたけれどまったく想像がつかなかった。
焦った笑みを浮かべていると、くんは座ったまま口元に笑みを作った。
「そんな変なことじゃないって言った」
「う、うん」
「高いとか安いとかそういう話でもない」
くんは立ち上がるとわたしのほうへじりじりと寄ってくる。わたしは思わず後ろに下がったけれど、すぐにドアに背中がついてしまう。
「くん……?」
なんだか、くんの雰囲気が違う。おそるおそる名前を呼ぶと、くんは少し屈んでわたしと視線を合わせた。
「昔からさんが好きだった」
「へっ」
突然のくんの言葉に、わたしは素っ頓狂な声を上げてしまった。
好き? 誰が誰を?
「言っておくけど冗談じゃないから」
「えっ、あ、うん」
「またまた」なんて軽くいなそうとしたら、先に釘を刺されてしまった。くんは先ほどと同じ体勢のまま言葉を続ける。
「昔から好きだったし、再会した今も。昔と変わらず優しくて、俺のこと信じてくれた。むしろ今の方が好きだって思ってる」
うそ、と声に出しそうなのを必死に抑えた。いや、だって、くんが。あの可愛かったくんがわたしを好きだなんて。しかも昔から。
「え、あ、じゃあ、我が儘っていうのは」
くんはいい成績を取ったらご褒美に我が儘をひとつ聞いてほしいと言っていた。その流れでこれということは、我が儘というのはもしかして付き合うとかそういう話? えっ、今ここで!?
「別にそんな変なことじゃないって言ってる」
「えっ、うん、はい」
「俺のこと、ちゃんと男として見てほしい」
「え……」
くんは真剣な眼差しで、低い声でそう言った。
「さんから見たらまだ高校生って思うかもしれない。でももう昔みたいな子供じゃない。もうさんより背だって高くなった。さんのこと守れるぐらいに強くなったと思ってる」
くんの言葉に、わたしは思わず身じろいだ。
彼の言葉は本当だ。まだ高校生、されど高校生。くんの背はすっかりわたしを追い越して、手だってすっぽりわたしを包んでしまう。迷子にならないようにと手を引く役目は逆転した。学校でも家でも、ひとりで問題なく生活している。ふたりで歩いていても、昔のように姉弟として見られることはない。
くんはもう、わたしの記憶にある十歳のくんではないのだ。
「、くん」
「別に今すぐどうこうって話じゃない。でも、ちゃんと意識してほしい。俺がさんのこと好きだってこと。もう、さんのこと抱きしめられる男だってこと」
「それは……」
そんなこと、言われなくたってもう十分わかっている。間近に感じるくんの低い声が、わたしを隠すように覆うほど大きな体が、くんは男の人なのだと嫌と言うほどわからせる。
「くん、あの」
「」
「っ!」
くんの声が、耳元で響いた。呼び捨てられた名前に、わたしの頬は一気に赤くなる。
「ま、まってちょっと待って」
あ、だめだ。その呼び方はだめだ。あのときお皿を落としてしまったぐらい、わたしにはその呼び方が、嫌に胸に刺さる。
「」
「い、いやあの本当に」
「もうずっとこう呼ぶから」
「そ、それはちょっと……!」
「さん付けしなくていいって言ったのはだ」
「い、言ったけど……!」
どうしようもなくなってしまい、わたしは思わず顔を両手で覆った。けれど抵抗虚しくその手はくんに引き剥がされてしまう。
「俺がこっちにいるうちに答えを出してほしい。絶対出させるから」
くんの保護観察は一年、つまりこちらにいる期間は一年間だ。即ちそれは三月までに答えを出せと言うこと。
「」
くんはもう一度わたしの名前を呼ぶ。その声を聞いて、春までと言わずもう近いうちに答えが出てしまうと思った。