ジョーカーに恋する同級生/1
ふと気づけば、あたりは知らない景色に包まれていた。
学校帰りに渋谷を歩いていたはずなのに、いつの間にか寂れた駅のような場所に入ってしまった。ボロボロの改札に券売機、ついていない蛍光灯。渋谷にこんな場所あっただろうか。暗いだけでなくおどろおどろしい雰囲気は、そこにいるだけで恐怖を煽る。
早く戻らなくては。そう思い今来た方向へ歩き出そうとした、そのとき。
「キャー!」
改札口の向こうから女の人の叫び声が聞こえてきた。尋常ではない金切り声。もしかして向こうで何か事件や事故でもあったのだろうか。
「け、警察……え、うそ!」
こんなときのための一一〇番だ。そう思って鞄からスマホを取り出したけれど圏外で繋がらない。
どうしよう。このまま戻って誰かを呼ぶべきか、それともひとりでも助けに行くべきか。一瞬迷ったけれど、よく見ると戻ろうとした先にも人影は見えない。先ほどまで渋谷の駅前広場にいたはずなのにどういうことだろうか。疑問に思いつつも、わたしはひとりで叫び声が聞こえてきた奥へと向かうことにした。人がいない以上戻っても仕方がないし、なによりもあの叫び声を放っておくことはできなかった。
コツ、コツ。ローファーの音がトンネルの中に響き渡る。目の前に見えるのはプラットホームと線路、鉄道の博物館か何かだろうか。人がいないところを見るに、もしかして建設途中の場所に入ってしまったのかもしれない。
「っ!?」
ホームから線路をのぞき込むと、カーブの向こうに「なにか」が見えた。人間でもない。動物でもない。「なにか」としか形容できないモノ。黒い巨体に白の仮面。化け物、というのが一番近いもしれない。
もしかしたら私はとんでもないところに迷い込んでしまったのかもしれない。先ほどの叫び声も、あれに誰かが襲われたときの恐怖の声だったのだろうか。それともこれは夢だろうか。夢なら早く覚めて欲しい。
「……っちか……反応が……」
「タ……トも改心……のにやべ……」
誰かの声がする。先ほどとは違う男の人の声。いや、男の子と言った方が近いかもしれない。誰かが助けに来てくれたのか、それとも化け物の仲間なのか。わからず私は身を隠す場所を探したけれど、そんな場所はどこにもない。
「きゃっ!?」
慌てすぎたせいか足をくじいてしまった。思わず大きな声を出してしまう。口を手で覆ってももう遅い。
「あ……っ」
先ほどの化け物が、私に気づいた。一歩一歩ゆっくりと私に近づいてくる。
「や、やだ……っ」
怖い。怖い。怖い。誰か助けて。助けを呼ぼうにも全身が震えて掠れた声しか出てこない。
化け物が、私まであと一歩というところまで迫る。殺させる。そう思って目を瞑った、そのとき。
「あ、あれ……?」
目を開けると化け物はぐったりと横たわっており、その後ろにはひとりの男性が立っていた。黒のロングコートに仮面舞踏会のようなドミノマスクをつけた男性の右手には短剣が握られている。顔半分が隠れているため不確かだけれど、同年代のように見える。
助けてくれたのか、はたまたこの人も私を狙ってきたのか。回らない頭で必死に思考を巡らせていると、彼は私に手を差し伸べた。
「無事か」
「え、あ、はい……」
「そうか、よかった」
赤い手袋をした彼の手を取ると、彼の口元がふっと緩んだ。どうやらこの彼は私を助けてくれたようだ。
「痛……っ」
「足、怪我したのか」
「く、挫いたみたいです」
「無理して立たなくていい。少し待っててくれ」
彼は手を離し、支えるように私の背に触れ座らせた。
「おーい、ジョーカー! いたのか?」
「ああ。足は挫いたみたいだが大きな怪我はない」
そう言いながらやってきたのは金髪の猫背の男の人だ。どうやら彼の仲間らしい。つまり私にとって敵ではない。
「無事でよかったな」
「ああ」
「っ!」
金髪の彼の後を追うように、、二足歩行の猫のような形をしたイキモノがやってきた。驚いた私は思わず声にならない声を出してしまう。
ファンタジーのような景色、化け物のようななにか、猫のようなイキモノ、そして仮装のような格好をした彼。まったく状況が飲み込めずにいると、倒れた化け物のようななにかが突然煙のように消えた。
あまりの状況の中、それがとどめだった。連続した規格外の出来事に、私の意識は遠くなっていった。
目を覚ますと、そこは白い天井だった。
「ん……」
「あ、目覚めた?」
まだ回らない頭に聞こえてきたのは女性の声だ。重い頭をゆっくりと動かすと、ベッドの隣にクラスメイトの高巻さんが座っている。
「高巻さん……?」
「もう、渋谷駅で倒れてるの見かけてびっくりしたよ」
「あ……そうなの?」
手をベッドについて起き上がろうとすると、右足首に痛みが走った。どうやら挫いてしまっているようだ。
「ここは?」
「病院。渋谷駅近くのね」
段々と頭が覚醒してきた。そうだ、私は確かに渋谷を歩いていたら、いきなりおかしな景色の場所に入り込んでしまったのだ。そう、そして化け物に襲われそうになって、誰かが助けてくれて……。
「……私、倒れてたの?」
しかし、我ながらあまりに荒唐無稽な話だ。高巻さんに話すわけにもいかない。
「うん。ブチ公口のあたりで……頭とかは打ってないし、貧血じゃないかってお医者さん言ってたよ」
「……そう」
やはりあれは夢だったのだろうか。いや、あのおかしな空間に入る前は足なんて挫いていなかったし、なによりあのジョーカーと呼ばれた彼の手の感触がまだ私の手のひらに残っている。
「……高巻さん、ありがとう。もしかして救急車呼んでくれたの?」
「ううん。たまたまと一緒だったから、が運んでくれたんだよ」
「って、くん?」
高巻さんと同じくくんも私のクラスメイトだ。もっとも、高巻さん以上に彼とは話したことがないのだけれど。
「はもう帰っちゃったけど」
「そっか……明日くんにもお礼言わなきゃ」
「明日って……無理して学校来なくていいんじゃない? 少し休んだら?」
「ありがと。ちょっと様子見て考えるね」
足はどうにか歩ける痛みだけれど、無理をして悪化させても仕方ない。親に連絡し迎えに来てもらうことにし、高巻さんと別れた。
家に帰った後も考えるのはあの世界のことばかりだ。今日の出来事はいったい何だったのだろう。到底現実のこととは思えないけれど、だからと言って夢とは思えない。足の痛みも手の感触も確かにあるのだから。
「ジョーカー……」
確かにあの人はジョーカーと呼ばれていた。外国の名前とも思えないけれど、あだ名かなにかだろうか。
ジョーカー。ジョーカー。何度も心の中でその名を呼んだ。その名前を思うたびに、心の奥底が痛むような、そんな気がした。
次の日、足の腫れも引き学校に行ったわたしは真っ先に高巻さんにお礼を言った。一緒に渡したチョコレート菓子も気に入ってもらえたようだ。次に探すのはくんの姿だ。高巻さんと話している間に彼は教室から出て行ってしまったけれど、そう遠くへは行っていないはず。廊下に出てあたりを見渡すと、階段を下ろうとするくんの姿が見えた。
「くん!」
大きな声を出して呼ぶと、くんははわたしのほうへ振り向いた。ただの休み時間にも関わらずくんは鞄を持って移動しているようだ。
「どうしたの?」
「昨日、病院まで運んでもらったって高巻さんに聞いて。ありがとう。これ、ちょっとしたものだけど」
高巻さんに渡したものと同じチョコレート菓子を渡すと、くんは目を丸くする。
「そんなの別にいいのに」
「よくないよ。本当にありがとう。あっ、でもチョコレート嫌いだったら」
「いや、好きだよ。どういたしまして」
くんが小さな笑みで受け取ってくれるから、私はほっと内心安堵した。
「……貧血だって?」
「そうらしいんだけどね。別に貧血持ちでもないのに」
今まで立ちくらみがしたこともないのに、いきなり貧血で倒れるなんて腑に落ちない。それになにより、あの不思議な世界のことが気にかかる。
「自覚がないだけで体調が悪かったのかもしれない。気をつけて」
「ありがと」
とは言え、まさかくんに突然私が見た不思議な世界の話をしても信じてもらえないだろう。私は口を噤んでくんの心遣いに頷いた。
「よし、やっぱバレてねえっぽいな!」
「えっ?」
少しこもった高い声がくんの方から聞こえてきた。けれどくんの後ろは壁があるだけ。
「……どうしたの?」
「バレてねえとか聞こえた気がして……」
「周りの声じゃない?」
「そうかなあ」
周りの雑踏と言うにはずいぶん近くはっきり聞こえた気がする。しかしくんの声ではないし、くんの後ろから聞こえたなんてことなら、それは幽霊かなにかの仕業になってしまう。仕方がないので私も周りの誰かの言葉と言うことで自分を納得させた。
「じゃ、俺ちょっと図書室に行くから」
「あ、呼び止めちゃってごめん」
「ううん、大丈夫。じゃ、気をつけて」
手をひらりと振ってくんは図書室へ向かっていく。
「……幽霊じゃ、ないよね」
昨日あんな世界を見て、今日は幽霊の声なんて洒落にならない。周囲の生徒の声でどうかお願いしたいところだ。
けれど、昨日のことだけはどうしても夢で片づけられない。足を挫いた痛みも、化け物が迫る恐怖も、触れた手の感触も確かに覚えているのだから。
次の日の放課後。いつものように渋谷地下モールのアルバイト先へ向かうと、予想外の人物がそこにいた。
「こちら、今日からアルバイトに入ってもらうことになったくん。よろしくね」
店長の言葉に口をあんぐり開けてしまう。まさかこのバイト先が秀尽の生徒とかぶるなんて。しかもそれが一昨日助けてもらったくんだなんて、なんという偶然だろう。
「さん、ここでバイトしてたんだ」
「うん。くんもよくお花屋さんなんて選んだね。結構力仕事多いから男子が入ってもらえるの嬉しいよ」
「お手柔らかに」
くんが少し悪戯っぽく笑う。昨日までほぼ話したことがない人だったけれど、こんなふうに笑う人なんだなあと思う。
「お花の値段はここに書いてあるからね。いっぱい買ってくれた人には草とかおまけしていいって店長は言ってるけど……」
「どれぐらいおまけしていいの?」
「そこね……悩むよね。私も悩むから迷ったら店長に聞いてる。あとこの辺のは古いやつだから、お客さんが買いたがってたらそのこと伝えてね」
「了解」
それから、くんと一緒のバイトの日々が始まった。二人しかいないアルバイトだけれど、忙しいのはお花の入荷をする月曜と木曜だからシフトがかぶることはままあった。お客さんがいないときに手元だけ動かしながらお喋りしたり、バイト帰りにファミレスで勉強したり。ただアルバイト先が一緒になっただけだけれど、くんとはウマが合うのかお話するのが楽しかった。
今日も今日とてアルバイト。くんは裏で品出し、私は接客。今日はなかなか盛況でいくつか花束の注文が入った。我ながらなかなかいい感じの花束ができたと思う。
「くん、手伝うことある?」
「あ、じゃあそこの花表に出しておいて」
「了解」
くんが指したのはひまわりの花桶だ。水が入っているので相当重いはず。腰を入れて持ち上げようとした、そのとき。
「わっ!」
床が水で濡れていたため思い切り足を滑らせてしまった。まだ花桶を持ち上げていなかったため花に被害がなかったのが救いだ。
「いたた……」
「大丈夫?」
くんがこちらに駆け寄り手を差し伸べてくれるから、私は躊躇せずその手を取った。くんの手は思っていたより大きい。……あれ。この感覚、どこかで。
「さん?」
「あ……ごめん。ありがとう。これ、向こうに持ってくんだよね」
「いや、俺がやるよ。少し休んでて。お客さんの波も引いたみたいだから表も店長ひとりで大丈夫そうだし」
「……そう? じゃあ少しね」
自分で勝手に転んだので申し訳ない気持ちが強いけれど、打った尾てい骨がかなり痛みを伴っているのでお言葉に甘えることにした。バックヤードのイスに座ろうとしたけれど、座ると余計に痛みが増すので壁にもたれかかる。先ほどくんに触れた右手を見つめながら。
「……そっか」
似た感触をどこかで感じたと思ったけれど、あのときだ。おかしな世界に巻き込まれたとき、仮面の男性に助けられたときに触れた手だ。
やはりあのときのことは夢でも幻でもないのだと思う。だってこんなに確かな感触を覚えているのだから。
ジョーカーと呼ばれていたあの人のことを、あれからもよく思い出している。私を助けてくれたあの人は、いったいどこの誰なのだろう。
胸の中にほんのりと甘い痛みを覚えながら、右手をぎゅっと握った。