秀尽の恋人
、高校二年生。自分で言うのもなんだけれど、わたしはかなり平均的な人間だと思う。成績も際だっていいわけではないけれど悪いわけでもない。友達も多い方ではないけれど少なくもない。先生から頼りにされるような優等生でもなければ、事件を起こすような問題児でもない。
そんな平均的な人間のわたしに、少し平均から外れるような出来事が今年は起きた。初めての彼氏ができたのだ。いや、高校二年生で初めての彼氏というのもなかなか平均的だけれど、問題はその恋人だ。
わたしの恋人は、クラスメイトの。前歴持ちの犯罪者と噂の転入生だ。
九月下旬、秀尽前の道を歩いていると、前方にくんの姿を発見した。駆け足で彼の元へと向かい、ぽんと肩を叩いた。
「くん、おはよう」
「あ、さん。おはよう」
くんはわたしの顔を見てふわりとした微笑みを向けてくれる。
わたしの恋人、。彼が秀尽に転入してきたのは四月のはじめのことだった。彼を取り巻く噂は数多くあり、「前歴持ちの犯罪者」「喧嘩相手をボコボコにした」「刃物を持っているから気をつけろ」など、尾ひれがついた噂が学校中に広まっていた。
そんな噂の主とわたしが仲良くなったのは、そんな噂に嫌気が差したわたしがくんに話しかけたのがはじまりだ。もしかしたらくんは噂通りの人間かもしれない、けれど、だからと言ってあんなふうにひそひそと噂を立てるのはおかしいと思った。勇気を出してある日教室で「おはよう」と一言声をかけた。するとくんははにかみながら「おはよう」と返してくれた。その顔はとても綺麗で、とてもじゃないけれど悪人の顔とは思えなかった。もちろん、見た目だけで中身が判別できるとは思っていないけれど。
それから少しずつ、わたしはくんと話すようになった。わたしが先生からプリントの回収を頼まれたときにくんが半分持ってくれたり、テスト前に一緒に勉強会をしたり。それに、もともとわたしはくんが仲のいい坂本くんや高巻さんと中学が同じだった。ふたりとわたしは仲がいいというほどではなかったけれど、多少なり会話したことはある。まったく縁がないよりは話しやすく、三人でたむろしているところに声をかけたりもした。
そうやって話す内に、わたしはくんの噂の真実を知り、そして彼に惹かれていった。優しくて困っている人を放っておけないくんは、わたしにはあまりにも眩しかった。噂なんてどうでもよくなるぐらい、わたしはくんを好きになった。
夏休みに入る前、このままくんとしばらく会えないことを寂しいと思った。一ヶ月間会えないのなら勇気を出そう。そう決心したわたしはくんに告白した。そしたら、彼は「俺も」とはにかんでくれたのだ。
くんとお付き合いを始めて二ヶ月がたつ。夏休みに何度かデートを重ねたりハワイで一緒に過ごしたりして、少しはこの恋人状態に慣れてきた。けれど、まだ朝一番に会うと、綺麗な顔だな、この人がわたしの恋人なんだな、なんて思い頬を熱くしてしまう。
「今日、一緒に帰れる?」
くんの顔に見惚れていると、彼の唇が動いた。今日、帰り。慌てて思考を巡らせる。
「あ……今日は」
「用事?」
「うん、風紀委員の。前にアンケートやったでしょ、今日中に集計しろって言われて」
「ああ、校内の窃盗がどうとかってやつ」
「そう、それ。最初は今週中にって言われてたんだけど、急ぎたいみたいで」
「そっか。なら放課後手伝うよ」
「えっ、いいの?」
「そりゃ、もちろん。ふたりでやればきっとすぐ終わるだろうし」
くんの言葉に胸を高鳴らせる。せっかくのお誘いを断らざるを得ないことを残念に思っていたけれど、これなら一緒の時間も増えるしその後はふたりで帰れる。こんなに嬉しいことはない。わたしは喜んでその申し出を受けることにした。
そして迎えた放課後、D組の教室はまだ生徒も多く騒がしいので空き教室へ移動することにした。
「ここでいいかな」
「うん」
「じゃあさっさと終わらせちゃおう」
くんがアンケートを読み上げ、わたしが正の字を紙に書いて集計していく。原始的だけれどシンプルでわかりやすい方法だ。
クラス分の集計を終え、先生からもらっていたプリントにすべてまとめ終える。無駄にアンケート項目が多いせいで思っていたより時間がかかってしまった。最初はひとりでやるつもりだったけれど、くんに手伝ってもらえてよかった。
「終わった?」
「うん。ありがと、くん」
「くん?」
わざとらしい声で復唱する彼に、わたしは「あ」と声をあげた。
「……くん」
「そう、正解」
くん……もとい、くんはわたしの呼び方に満足したのか口角を吊り上げる。
くんと付き合い始めた直後、ふたりきりのときは名前で呼んでほしいと言われた。「呼んでほしい」なんて言い方だから軽いお願いかと思いきや、くんはわたしがくんと呼ぼうものなら先ほどのように指摘してくる。そして「くん」を呼んで赤くなるわたしを見て、満足げな笑みを浮かべるのだ。
「」
くんが呼ぶその名前に、わたしは頬を染めてしまう。……うん、くんがすぐに指摘する理由も今ならわかる。「さん」より「」のほうが胸に響く。きっとくんも同じなのだろう。
「目、疲れたな」
「字ちっちゃい人も多いもんね」
くんは眼鏡を外し目頭を押さえる。露わになったくんの素顔にわたしは見惚れてしまう。
「どうしたの」
「あ……くん、眼鏡外すと本当に雰囲気変わるなって」
くんが普段している眼鏡は野暮ったいデザインのため、一見するとくん自身にも垢抜けない印象を抱いてしまう。しかし実際は眼鏡を外すと別人で、整った綺麗な顔をしているのだ。
「眼鏡掛けてるのと掛けてないの、どっちが好き?」
くんは眼鏡の縁を持ちながら、視線だけをわたしに向けて問いかける。
「……その質問、ずるい」
くんって、こういう人だ。こういう質問を平気でしてくる。わたしが頬を染めるのを楽しんでいるのだろう。
「……どっちも好き」
眼鏡を掛けていても外していても、くんはくん。わたしの好きな人、わたしの恋人だ。
「俺も」
くんは自分の眼鏡をわたしに掛けた。度の入っていないレンズから見える景色は、ほんの少しだけいつもと違うような気がした。
「俺も、どっちも好き」
レンズの向こうのくんの顔が近づいた。わたしは自然と目を閉じる。
わたしたちは、そっと触れるだけのキスをした。
ここは学校、いけないことをしている自覚はある。それでも近づくくんの唇を拒否することなんて、わたしにはできなかった。
「の眼鏡、結構いいな」
「似合う?」
「似合うって言うか、そそる」
「な……っ」
くんの言葉に、自分の顔が一気に真っ赤になるのを感じた。そんなこと言われるなんて思っていなかったのだ。
「普段自分がつけてるものを恋人がつけるって、いいな」
くんに抱き寄せられ、わたしたちは再びキスをする。
キスをするのは初めてではない。最初のキスはルブランに行ったとき、一階でコーヒーを飲んだ後、くんの部屋で。それからも夏休みの間にルブランの二階で、そしてハワイのビーチでもこっそりキスをした。
けれど今のこのキスは、その中でも一番ドキドキする。学校の空き教室でするキスは背徳感に満ちていて、胸の奥が疼く。背中がゾクゾクと震えるような快感。
「眼鏡、可愛い」
くんがわたしに掛けた眼鏡に触れる。
度のないレンズを通したこの視界が、くんがいつも見ている景色だ。
もう一度、目を閉じる。唇に感じるのは、温かなくんの唇だ。
十月に入り、夏の蒸し暑さがようやく和らいできた今日この頃。今日も帰りはくんと一緒の予定だ。帰りに渋谷のファミレスにでも行こうかと話している。今から帰りが楽しみだなんて思いながら休み時間の廊下を歩いていると、隣のクラスの女子生徒が妙にわたしを見ていることに気づいた。
「ねえ……例の前歴の……」
「……え、本当に……」
途切れ途切れに聞こえる声で、彼女たちがなぜわたしを見ているのかすぐにわかった。
わたしとくんが付き合っていること、それは特に隠しているわけではない。お互いの友人は知っているし、あまり親しくない人にも付き合っているのかと聞かれれば頷いている。だから秀尽の生徒の中でも、わたしとくんが恋人同士であることを知っている人間は少なくない。
四月と比べだいぶ下火になったとは言え、くんの噂は根深い。ときどき、ほんのときどき、くんとわたしが付き合っていることで陰口を叩かれることがある。前歴者と付き合っているなんて、さんも犯罪者なのでは。直接言われたわけではないけれど、わたしの耳に入った言葉だ。きっと今わたしを見ている彼女たちも、同じ言葉を発しているのだろう。
わたしは大きくため息を吐いて立ち止まる。視線の方角へ顔を向ければ、彼女たちは気まずい表情を見せた。
「……なにか?」
低い声で問いかけると、彼女たちは「別に……」とそそくさと去って行ってしまった。
「……はあ」
本当に、本当に馬鹿げている。くんの本当の顔も知らないのにああやって外側から陰口を叩くなんて。
そう、馬鹿げている。わかっている。あんな言葉、気にする必要がないと。
わかっているのに、胸の奥が痛む。じわじわと内側から浸食するような痛み。涙が溢れそうになるのを堪えるので精一杯だった。
「さん」
廊下の端で立ち止まっていると後ろから呼び止められた。この声は、くんだ。
「……くん」
「顔色が悪い」
「……ん」
額に手を当てながらわたしは息を吐いた。大丈夫、うん。大丈夫。
「大丈夫。また、帰りね」
「……ああ」
精一杯の強がりの笑顔を作り、わたしは一足先に教室へ戻った。
その日の帰り道、銀坐線の中でわたしは「くんの部屋に行きたい」と告げた。周囲に人がいるファミレスでは思ったことをきちんと話せるかわからなかったから。くんは何も聞かず「わかった」とだけ言ってくれた。
ルブランに着き一階の佐倉さんに挨拶をする。佐倉さんともすっかり顔なじみになった。
くんが「先に上行ってて」と言うので、わたしはすぐに二階のくんの部屋へと向かった。夏休みから何度となく来たこの部屋は、わたしにとっても居心地のいい場所だ。いつものソファに座っていると、くんがコーヒー片手に階段を上がってくる。
「はい」
「ありがとう」
くんからもらったカップにそっと口をつけると、優しい苦味が口の中に広がった。心にまで沁みていくような、温かい味だ。
「顔色悪いけど、大丈夫?」
「……うん」
くんはわたしの隣に座ると、小さな声で呟く。
「……ごめん、また学校の奴らになにか言われた?」
その言葉に、わたしの胸はナイフ刺されたかのように強く痛んだ。
わたしたちが付き合っていることに対する噂話は、当然くんの耳にも届いている。そのたびにくんは「自分のせいでごめん」と悲しそうな顔でわたしに謝るのだ。
「くんのせいじゃないよ」
そのたびにわたしはこう言ってきた。陰口を言う人たちがおかしいのであって、くんは悪くない。くんに負い目を感じてほしくない。
「……うん」
わたしたちの間に、小さな沈黙が走る。
いくらくんのせいではないとわたしが言ったって、くんが責任を感じるのは明白だ。優しい彼のことだから、なおのこと。
「……ごめんね、弱くて」
あんな噂話に傷ついてくんに心配をかけるなんて、わたしはどうしてこんなに弱いのだろう。くんは転入した当初からもっとひどい噂話を立てられているのに傷ついた素振りなど見せず平気な顔をしているというのに。
わたしがどこにでもいるような普通の人間でなかったら、強い人間だったら、くんに心配かけずに済んだのかな。こんな顔をさせずに済んだのかな。くんの噂なんてどうでもいいと思うぐらい好きになったと思っていたのに、その噂で傷つくなんて。自分の弱さが悔しくて涙が出そうだ。
「」
くんはわたしの名前を呼ぶと、そっと頬に触れる。優しい指の感触がより一層涙を誘う。
「は強いと思ってる」
「そんなこと……」
「強くない人間は、あんな噂が立てられている俺に話しかけたりしない」
それは、いつかも聞いた言葉だった。そう、付き合い始めてすぐの頃。どうしてわたしを好きになったのと聞いたとき、くんは「あんな噂がある中で、話しかけてくれたから」と言っていた。
「あのとき、本当に嬉しかった」
「でも……」
四月のあのときくんが嬉しかったとしても、今こうやって傷つけていたら意味はない。ついに堪えきれない涙が溢れた。
「」
その涙を遮るように、くんは強い声でわたしの名前を呼んだ。わたしも反射的に顔をあげてしまう。
「わかってる。何度もが言ってくれた。変な噂が流れるのは俺のせいじゃないって。そこはもう気にしてない。俺がさっきごめんって言ったのは、そこじゃない」
くんは優しく、しかし力強い声で言葉を紡いでいく。わたしはなにも言わず、くんの言葉に耳を傾けた。
「が俺と付き合ってることで心ない言葉に傷ついてるのは知ってる。でも、それでも俺はを離す気はない」
くんの額と、わたしの額がくっつく。こつんという音とともに、わたしの心臓も強く鼓動を打つ。
「傷つけてもなにをしても、を離したくない。そこだけは悪いと思ってる」
くんはもう一度重ねて「ごめん」と言う。あまり悪びれたように聞こえないその声が、わたしの心に響いていく。
「……本当に悪いと思ってる?」
涙を拭いながら、軽い調子でくんに問いかける。今のくんの声のトーンは、本当に悪いと思っているときのくんの声じゃない。
「……思ってないかも」
「もう」
わたしはたまらなくなって、くんに抱きついた。それでいい。そんなことで、悪いだなんて思わないでほしい。だって、
「わたしも、離さないでほしいよ」
なにがあってもどれだけ傷ついても、わたしはこの手を離したくない。くんと離れたくはない。くんに離してほしくない。
「うん」
くんは眼鏡を外し、わたしの顎を指で持ち上げ、キスをする。甘いキスの時間は、永遠のような気もした。