コンビニアルバイトの同僚/2
その週の日曜日。はルブランで昼食をとっていた。隣のモルガナが「今日はどうする?」と声をかけてくるので、咀嚼しながら現在のタスクを整理する。数学の課題、花屋のアルバイト、ジムに行くのも悪くない。
だがやはりが一番気にかかっているのはのことだ。先輩がもし本当にストーカーと化していたら早くに手を打たねば手遅れになりかねない。の脳裏に、鴨志田のときの苦い記憶が蘇る。
どこかで決め手になりうる何かが掴めれば。そんなことを考えていると、ベルの音と共にルブランのドアが開いた。ふと入り口に目をやると、そこにはが立っていた。
「あれ、くん?」
「さん」
「なんだ、お前の知り合いか?」
惣治郎に聞かれたので「バイトの友達」と答える。は首を傾げながら店内に入っていく。
「お好きな席にどうぞ」
は惣治郎の声かけに頷き、ためらいがちにカウンター席を見つめる。視線の先が自分の隣だと気づいたは、隣のイスに置いたモルガナが入った鞄をどかした。
「お邪魔します」
フレアのスカートをふわりとなびかせはの隣に座る。
「ここ、くんのおうちなの?」
「まあ、そんなところ。ちょっと事情があってこの喫茶店の二階に住まわせてもらってる」
は事情という言葉を聞いて深く聞いてはいけない雰囲気を察したのか、「そうなんだ」とだけ言ってメニューを眺める。
「くんが食べてるのはカレーだよね?」
「うん、おすすめ。コーヒーと合うんだ」
「じゃあわたしもカレーとブレンドください」
「さんはどうしてここに?」
「四茶に従姉がいて、赤ちゃんが産まれたから会いに行ってたの。お昼どうしようかなーって思って歩いてたら喫茶店って見えたから。そしたらくんがいたからびっくりしちゃった」
「俺もまさかさん来るなんて思わなかったな」
まだ半分ほど残るカレーを食べながら、はの様子を窺う。バイト帰りのときのような暗澹さはなく、明るい表情で今見てきたという赤ん坊の写真を見せてくる。アルバイトから離れれば先輩のことを忘れられるのかもしれない。
とがそんな話をしている間に、惣治郎がカレーを盛りつけ始めている。の注文分もできあがったようだ。
「カレーとブレンド、お待たせ」
「ありがとうございます」
はカレーをひとくち口に含むと「おいしい」と言って顔をほころばせた。花の咲いたような笑顔を見ての頬も思わず緩む。
「へえ」
惣治郎の声が聞こえては顔を上げる。そこには顎髭をいじりながら口元に笑みを浮かべる惣治郎の姿があった。その姿を見ては緩んだ頬を慌てて引き締める。
「さん、四茶はよく来るの?」
「ううん、今日が初めて。素敵な街だね、雰囲気あって」
「うん。渋谷まで二駅なのにすごく落ち着いてていいよね」
「あとでちょっと散歩しようかなあ」
は咀嚼しながら、ドアのガラス越しに外を見る。今日は梅雨の中休み、快晴ではないものの雨は降っていない。
「くん、これから用事ある? よければ散歩しない?」
の突然の言葉に、はコーヒーをごくりと飲み込んだ。むせかえりそうになるのを抑え、「いいけど」と返事をする。
「よかった。じゃあすぐ食べるから少し待っててね」
「ああ……うん」
「……ちょっと、話したいこともあるから」
少し言いにくそうなの様子を見て、は「話」の内容を察した。おそらく先輩の話をしたいのだろう。ここでは惣治郎も他の客もいるので話すのは難しいだろう。
「わかった」
は返事をして、コーヒーを飲み干した。先に食べ終えた自分の分のカレー皿とコーヒーカップを洗っているうちに、のほうも食事を終える。
「ごちそうさまです。レジは……」
「ああ、会計はそこでいい。カレーとブレンドだから……」
がもう一度惣治郎に「ごちそうさまでした」と言っている間に、はモルガナを外で散歩するよう促した。モルガナは小さな声で返事をすると駅の方へと消えていく。
とはルブランから出て、駅とは離れるように歩き出す。人通りがなくなったところで、が口を開いた。
「……先輩のことなんだけどね」
「うん」
「ビッグバンバーガーにはよく行くって言ってたし、学校も渋谷だって言ってたから本当に偶然なのかもしれないって思うこともあるの。バイト終わる時間っていつもだいたい一緒だし、単純に夕飯をあの時間に食べてるのかも。だから……もしもう一回今までみたいに鉢合わせたらさすがに偶然じゃないかなって思うし、そこでバイト辞めようかなって思ってる」
「……今すぐ辞めなくていいの?」
前半部分のの考えは、も実際考えていたことだ。まだ先輩をストーカーとして考えるには決め手に欠ける。しかし、は先輩に相当脅えているようだし、なによりもし本当にストーカーだったら。そう思えば今すぐにでも辞めるのが正解だろう。
「あのバイト、気に入ってるし……それにすぐ辞めるって言ったらみんなに迷惑かけちゃうし」
それは責任感の強いらしい言葉だった。自分の身の安全と天秤に考えればバイト先への迷惑などほんの軽いものだろうに。
「そんなの考えなくていいよ」
「ん……でも、とりあえずあと一回、ね。くんには迷惑かけちゃって申し訳ないけど……」
「迷惑なんて思ってない」
は強い口調での言葉を遮った。のことを迷惑だと思ったことはただの一度もない。それだけは伝えなくてはいけない。
「……うん、ありがと」
は安心したような表情でに小さな笑みを向ける。その柔らかな表情はの心にまっすぐ届いた。もしかしたら、この笑顔を見られるのもあと一回だけかもしれない。
「じゃ、戻ろうか。駅まで送っていくよ」
「えっ、散歩しないの?」
「え?」
駅の方角を指したには首を傾げ、そしてそのの様子を見たはさらに首を傾げる。はの「散歩しよう」という誘いはあくまで先輩のことを話すために外に出る口実だと思っていたのだ。
「先輩の話するためにルブラン出たんじゃないの?」
「それもあるけど、散歩も本当にするつもりで……くんと歩くとき、いつも先輩のこと考えてて楽しくお喋りなんて雰囲気じゃなかったから。ここならのんびり歩きながら話せるかなって」
が驚きの表情を隠せないでいると、は慌てて「もちろん用事があるなら大丈夫だから!」と付け加えた。
「いや、なにもない。少し歩こうか」
「本当? よかった」
はの言葉を聞いてまた顔を綻ばせる。もつられて頬を緩めた。
「散歩って言っても、本当にぶらぶらするだけになるけど」
「いいよ、十分!」
そう言ってふたりはまた歩き出す。駅から離れた場所はもあまり行ったことがない。期待と不安を抱きながら、見知らぬ道を歩いていく。
「くんの学校って秀尽だっけ?」
「そう。蒼山一丁目の」
「共学だよね? どんな感じ?」
「どんなって……ふつう?」
「女の子の友達もいるの?」
「いるよ。さんは女子高なんだよね」
「うん、だから男子の友達って全然いなくって。くんだけかなあ、友達って言えるの」
はまた笑顔を見せる。ふわり、そんな擬音が聞こえてきそうだ。
アルバイトの帰り道、はいつも不安に駆られた表情だったが、今日は本当によく笑う。これが本来の彼女なのだろう。花のような笑顔がの心に焼き付いていく。
「あ、猫ちゃん」
は路地裏に猫を見つけたようで、しゃがみこんでチッチッと猫を呼んでみる。三毛猫は首輪がついており飼い猫のようだ。人に慣れているせいか猫は警戒することなくとの足下にやってきた。
「よしよし」
「猫好きなの?」
「うん。地元にもよく猫が歩いてて、帰りに撫でてるの。くんは? 猫好き?」
「俺も猫派」
は三毛猫の額を撫でながら、モルガナが聞いていたら怒るだろうなと内心笑った。モルガナは猫ではないとは言え、モルガナと出会ってから猫好きに拍車がかかったのは事実だ。
三毛猫はのすねのあたりに額を擦り寄せる。もっと撫でてほしいと言わんばかりだ。
「本当に懐っこいね、この子」
「あんまり懐っこいとさらわれるぞ」
はつんと三毛猫の額をつついた。三毛猫はの言葉を知ってか知らずか、のんきに「なあ~」と鳴く。
「もしかしたら部屋飼いが脱走したのかも。外飼いにしては綺麗だし」
「あ、そうかも……」
は猫の首輪を確認しようと猫の首もとに手を伸ばす。すると猫は突如不機嫌な声で鳴き跳び上がる。
「きゃっ!」
三毛猫の突然のジャンプに驚いたはバランスを崩し、後ろへと倒れ込む。転んでしまう、そう思ったは咄嗟に腕を伸ばしを支えた。パレスで鍛えられた反射神経のおかげでは倒れずに済んだが、その代わり抱きかかえるような格好になり、小さなの体はすっぽりの腕の中におさまってしまった。
「あ……」
近くなった顔と顔、腕に感じる柔らかな感触。一瞬、ふたりの間の時間が止まる。
ふたりの距離が縮まった、瞬間。
「みいちゃーん! どこー?」
「っ!」
道路に若い女性の声が響いた。ふたりはぱっと体を離して、お互いに尻餅をついてしまう。
「あ、みいちゃん! よかった、もう心配させないで!」
ふたりが若い女性のほうへ目をやると、先ほどの三毛猫が彼女の腕の中にいる。どうやら想像通り室内飼いの猫が脱走してしまったようだ。
「あ……飼い主さん、かな。よかったね」
「うん」
「……あの、なんか、ごめんね……?」
「いや……俺の方こそ」
「……ん」
「……戻る?」
「そ、そうだね」
ふたりはお互いから視線を逸らし立ち上がった。そのまま言葉を交わすことなく、はを四軒茶屋駅へと送る。道中、横目に見えた彼女の頬が赤らんでいたのはこの暑さのせいだけではないだろう。
駅へ着くと、は改札口の前でようやく口を開いた。
「……くん、今日はありがとう」
「いや、俺の方こそ」
「あの……最後、変なふうになっちゃってごめんね」
は指を組み気恥ずかしそうに呟いた。の上目遣いでこちらの様子を窺う仕草に、はポケットに手を入れ視線を泳がせた。
「それも……俺の方こそ」
「……ん」
「……さん、次のバイト明日だよね?」
「うん」
「上がる時間に迎えに行くから待ってて。ひとりで帰らないように」
「うん、ありがとう。じゃあ、また明日」
が改札を通るのを見送って、はルブランへと戻った。自室へと続く階段を駆け上がり、ベッドに飛び込む。
「おい、?」
すでに戻っていたモルガナはの様子を窺うが、は腕で顔を覆っており表情は見えない。
「おーい、どうした?」
「……」
「ダメだこりゃ」
反応のないに呆れたのか、モルガナはベッドから降りいつものテーブルの上で丸まった。
ベッドに寝ころぶの頭の中にあったのは、先ほど触れたの感触だった。自分とは違う柔らかな肌。理性を保つので精一杯だ。
彼氏の振りを始めてから、に惹かれ始めている自分がいることに自身も気づいていた。けれどただの淡い想い。気になる相手と言ったところ。まだ恋とは言い難い感情だった。それが今はどうだ。今日の出来事は決定的だった。彼女を好きだと、自覚してしまった。
「……ふう」
は大きく何度も息を吸って吐き、吸って吐いた。少し頭も冷静になってきた。
明日、また彼女のアルバイトがある。もし明日も先輩が同じ場所で彼女を見ているのなら彼女はアルバイトを辞める。しかし、もし辞めることになっても念のため先輩の調査は続けた方がいいだろう。決定的な何かがあればいつでも動けるようにしておきたい。
はゆっくりと体を起こし、スマホのスケジュール帳を起動する。明日の予定を記入して、もう一度深呼吸をした。