ルブラン常連の大学生/1


 ぽつ、ぽつと四軒茶屋に雨が降る。六月、梅雨の季節だ。
「はあ、また雨かよ」
 窓を叩く雨を見ながら、惣治郎は大きなため息をつく。飲食店にとって毎日続く雨は大きな痛手だ。それはもちろんルブランにとっても例外ではない。
「今日は手伝いはいいぞ。どうせたいして客もこねえ」
 惣治郎の言葉に、カウンター席で食後のコーヒーを飲んでいたが頷く。
「なあ、今日はどうするんだ?」
 鞄から顔を出すモルガナに、は「まだ決めてない」と答えた。
 怪盗団のターゲットである金城のオタカラはすでに奪い、真から金城が確保されたとの連絡もあった。とりあえず怪盗団としての目下の目標はクリアしている。
 飲み終わったカップを片づけながら、はこれからのことを思案する。三島からの情報をもとにメメントスに潜るのもいいだろうか。窃盗団の話があったはずだ。それに先日新宿の占い師と話していた際、恋人からの暴力に悩んでいた女性の話もある。あれは急いだ方がいい案件だろう。
 今日はメメントスに行くことにしよう。そう決め蛇口をひねると、からんとドアベルが鳴った。
「いらっしゃい」
 入ってきたのはひとりの若い女性。四月にがルブランに来てからほぼ毎週顔を合わせているルブランの常連だ。おそらく年はより少し上だろう、大学生ぐらいに見える。彼女は洗い場にいるを見て、「こんにちは」と笑いかける。
「こんにちは」
 の返しに彼女はまた笑みを作る。愛想笑いのはずなのに、心からの笑顔に見えるのが不思議な魅力だ。
「カレーとブレンドください」
 彼女はカウンターに腰かけながら、いつもの注文を惣治郎に告げる。
 ひとりの注文なら手伝う必要もない。惣治郎も特に手伝えとは言わなかったので、は彼女の後ろを通ってルブランを出た。

 無事メメントスでターゲットを改心させることに成功した。窃盗団のリーダーは自首、DV男も暴力をやめたようだ。これで一安心……と言えないのが今の世の中だ。怪盗お願いチャンネルにはひっきりなしに悩みが書き込まれている。ほとんどが日常の愚痴のようなものだが、今回の恋人に暴力を振るう男や、初めてメメントスで倒した中野原のようなストーカーの悩みなどは放置すれば取り返しのつかないことになりかねない。
 とは言え、とりあえず今のところ名前が判明し全会一致しているターゲットはいない。怪盗団のつかの間の休息時間だ。
 怪盗団の面々も思い思いの時間を過ごしているようだ。竜司は相変わらずトレーニングを続けているし、杏もモデルのアルバイトに励んでいる。真には勉強するよう釘を刺されているが、テストまではまだ少々間がある。は渋谷で祐介と過ごした後、ルブランへ帰宅する。惣治郎はを見るやいなや、「ちょうどよかった」と言ってエプロンを外した。
「悪ぃ、急用ができてな。ちょっと店番しててくれ。すぐ戻る」
 が頷いたのを見て、惣治郎は急いだ様子でルブランを出た。すぐ戻るということは三十分もしないうちに戻るだろう。そう思ったはエプロンだけつけカウンターの中でコーヒー豆を眺めた。
 五分ほどたった頃、カランというベルの音が鳴る。思ったより早かった、そう思い入り口を見やると、そこにいたのは惣治郎ではなかった。
「こんばんは」
「いらっしゃいませ」
 お客さんは週に一度やってくる、例の彼女だった。
「あれ、佐倉さんは?」
「今用事があって出かけてます。少し待てば戻ってくると思いますけど、どうします? カレーなら温めるだけなんで出せますけど」
「そっかあ……」
 言いながら彼女はカウンター席に座る。彼女のいつもの注文はカレーとブレンドだ。カレーはともかくコーヒーはには出せない。
「あなたはコーヒー淹れないんですか?」
「一応、修行中の身なんで」
「そうなの? お代は払うからって言っても駄目ですか?」
 彼女は期待の瞳でを見つめてくる。「文句も言わないから」と彼女の続けた言葉を聞いて、は諦めたように息を吐いた。
「……苦情は受け付けないんで」
「わかってます」
 少し迷いつつも、はコーヒーを淹れる準備をし始める。客の依頼を断るのも、勝手にコーヒーを淹れるのもどちらも褒められたものではない。だったら練習がてら淹れるのも悪くないと思ったのだ。何よりコーヒーなら失敗したところで腹を壊すこともない。
「ブレンド、お願いします」
 惣治郎に教えられた通りにコーヒーを淹れていく。ルブランに住み始めたこの三か月ですっかり慣れてしまったコーヒーの香りがの鼻腔を刺激する。
「どうぞ」
 白いカップに注げばブレンドのできあがりだ。カウンター越しに彼女に渡すと、「ありがとうございます」と微笑まれた。
「あ、おいしい」
 カップに口をつけた彼女は優しい微笑みを見せた。の腕は惣治郎に遠く及ばない。それでも、彼女の微笑みは社交辞令には見えなかった。
「あなたはアルバイトさん?」
「まあ……似たようなもの。ここの二階に住んでて」
 はカレーを温めながら、事情は伏せつつ自分の立場を話した。
「あっ、そうなんですね」
「……よく来てくれてますよね」
「覚えててくれたんですか」
 彼女はコーヒーカップを両手で持ちながら、驚きの表情を見せる。
「常連って大体もっと年上なんで」
 ただの手伝いとは言え、さすがのも自分と同年代の常連客の顔は覚える。特にルブランの常連はほとんどが中年以上の世代だ。たまにふらりとやってくる客の中には若い世代もいるものの、毎週のようにやってくる彼女の姿は覚えやすい。
「確かにそうかもしれませんね。あの……同年代かなって思ってるんですけど、大学生ですか? 高校生?」
「高二です」
「あ、じゃあ三つ下かな」
 三つ、ということは彼女は二十歳前後、現役ならば大学二年生だろう。
「敬語、使わなくていいよ。ほとんど年も変わらないし、佐倉さんもお客さんにフランクだし」
「ならまあ、遠慮なく」
「どうぞどうぞ」
 彼女の言う通り、惣治郎も常連客には最低限の礼儀は払いつつも話し方は軽い。常連の多い喫茶店はこういった気軽さが売りのひとつでもあるだろう。客にそう言われればも首を横に振る理由はない。
「わたし、っていうの。名前、教えてもらっていい?」
 彼女……はきらきらとした瞳をに向ける。は小さな声で「」と答えた。 
くん」
 コーヒーを飲みながら、に笑いかける。少しこそばゆく思いながら、にカレーを出した。
「どうぞ、ごゆっくり」
「ありがとう」
 の言葉のすぐ後に店内の黄色い電話が鳴った。この電話が鳴るのは珍しい。着信の主はおそらく惣治郎だろう。
「もしもし」
「ああ、俺だ。悪ぃ、ちょっと抜けられそうにねえ。客、来てるか?」
「ひとり。カレーなんで出しました」
「そうか、その人帰ったら悪いが店閉めてくれ。後片付けも頼む」
「はい」
 惣治郎の言葉の通り、は表の看板をひっくり返し店を閉める。には惣治郎が戻らない旨を話した。
「あ、じゃあ早くお暇したほうがいいかな」
「いや、どうせ俺の家はここなんで、どうぞごゆっくり」
「ふふ、ありがとう」
 そのあとは、特にも言葉を発することはなかった。ただ流れるテレビの音を聞きながらは食事を続け、はテーブル席に置いてあったクロスワードを解いていく。
「ごちそうさま。長居しちゃってごめんね」
「いいえ」
「コーヒー、おいしかったよ」
 はお代を払うと、に微笑みを向けルブランを出た。


 一週間後、夕方。が惣治郎から教えを受けているとき、またがやってきた。
「こんばんは」
「いらっしゃい」
 がいつものようにカウンター席に座ると、惣治郎は「カレーとブレンドだったよな」との注文を聞く前に準備を始める。
「あ、コーヒーはくんに淹れてもらってもいいですか?」
「こいつに?」
 の言葉に惣治郎は目を丸くしを見つめる。しかし答えたのはだ。
「この間、佐倉さんがいないときに淹れてもらったので」
「お前、淹れたのかよ」
「わたしが頼んだんですよ、お金は払うからって」
「ダメでした?」
「駄目ってわけじゃねえが……でも、こいつのコーヒーで金取るってのもなあ」
 惣治郎は頭をかきながら、思考を巡らせ口を開く。
「……ま、お客さんがいいって言うならいいか。お代は半額で」
「そんな、ちゃんと全部払いますよ」
「ありがてえが、まだまだ修行中の身なんでね」
「そうですか? なら、それでお願いします」
 惣治郎との会話を聞いたは、コーヒーを淹れる準備を始めた。あれ一度きりだと思っていたが、まさかこんなにすぐ再び淹れることになるとは思っていなかった。
 練習で淹れるときもなかなかに緊張するが、客に出すとなるとより一層だ。惣治郎に教えられたように、はコーヒーを淹れていく。
「どうぞ」
「ありがとう」
 のコーヒーを飲むと「おいしい」と言って微笑んだ。やはりその笑顔は社交辞令には見えなかった。
くん、カレーは作らないの?」
「そっちはまだ」
「まだカレーの極意を教えるには早えよ。つか、なに。ずいぶん仲良くなってんな。客ナンパすんなよ」
 惣治郎の訝しげな瞳に、は肩を竦めた。
「ナンパしたのはわたしです。年も近そうだなって思って。ね?」
「ナンパされました」
「ふふ」
 の言葉にはくすくすと笑っている。釣られたのか惣治郎もため息交じりの笑いを見せた。
「ナンパねえ……大学生だっけ?」
「はい。くんは高校生って。年下でした」
「残念?」
「年下も好きですよ」
 カウンターで作業している自分を挟んでの笑い声の混じる会話には黙って耳を傾ける。は大人しそうな外見と裏腹に冗談もよく言うようだ。
「ごちそうさまです」
 食事を終えたは、カウンターの上にお代を置いた。カレーの分とブレンドの半額分だ。
「カレーもコーヒーも、おいしかったです」
 柔和な笑みを浮かべながら、はルブランを後にする。
 コーヒーとカレーのにおいに包まれているはずのルブランに、甘い香りが広がった気がした。


 それからもは定期的にルブランを訪れた。おそらくは週に一度だが、も毎日ルブランの手伝いをしているわけではない。と顔を合わせるのは二週に一度程度だ。
 の顔を見るたびに、のコーヒーを注文した。何度目かのときには惣治郎が「妬けるねえ」なんて冗談めかした口調で笑みを浮かべていた。
 八月の終わり、今日もはルブランへやってくる。
「カレーとブレンドください」
「はいよ」
 惣治郎がカレーを温める横で、はコーヒーの準備をする。もはや言わずともが来るとコーヒーを淹れるようになっていた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
 の出したコーヒーに口をつける。白いカップに、淡い色の唇が映える。
くんは今夏休み?」
「もうすぐ終わるけど。そっちも?」
「うん。大学は長いの。九月の半ばまで」
「うらやましい」
「ふふ、勉強苦手?」
「苦手じゃないけど、毎日同じ時間に起きて学校に行くって言うのが性に合わない」
 カウンター越しの会話はただの世間話だ。お互いを深く探るような会話はしない。
「そっか。確かに毎日満員電車乗ってると、なにしてるんだろーって思うことはあるかも」
 の言葉を聞き、の脳裏に浮かんだのはメメントスの光景だった。大衆のシャドウがメメントスの地下鉄に乗り運ばれていく姿は奇妙だが、あれは現実でも起こっている現象だ。あの光景が、どうにもにとって居心地が悪い。
「そのせいかな、ここは好き。ちょっと世間と隔離されてる感じがするの」
 は店内を見渡しながら、ぽつりと呟く。
「わかる」
 の言葉に、小さく頷いた。
 東京の時間の流れは速い。ボーッとしているとあっという間に時間が過ぎていく。そんな中で、古い町並みの四軒茶屋にあり、昭和のにおいを残すルブランは、世間とは隔絶された雰囲気を漂わせている。
 ここにいると穏やかな気分になれるのは、だけではなかった。も同じなのだ。
「気が合うね」
「ああ」
 顔を見合わせたふたりの横で、惣治郎が「若いねえ」なんて笑っていた。