キスの日
「今日はキスの日なんだって!」
わたしの突然の言葉に、ソファに腰かけスマホをぼーっと眺めていたくんは目を丸くする。
「キスの日?」
「うん、キスの日だって!」
そう、今日は五月二十三日、キスの日だ。先ほどスマホのスケジュール帳を見たらそんなことが書いてあって、これはくんに言わねばと思ったのだ。
繰り返すわたしの言葉、そして期待に染まっているであろう目を見て、くんはくすりと微笑んだ。寄りかかっていた体を起こし、わたしに視線を合わせる。
「キスしたいって?」
スマホをテーブルの上に置いたくんは、今にも唇が触れそうなほど顔を近づけた。
「キスなら毎日してる」
吐息の混じったくんの声。心臓がトクンと跳ねるのを感じる。
くんの言うとおり、一緒に住み始めてからキスはほとんど毎日している。おはようとおやすみと、行ってらっしゃいとおかえりのキス。キスの日だからと言って殊更なにかをしなくてもいいのはわかっているけれど、でもせっかくなのだから!
「……それはそうだけど!」
「いつものじゃ足りない?」
わたしの唇を撫でるくんの言葉に、わたしは思わず俯いた。その言い方ではいつもわたしばかりキスしたがっているみたいだ。
「……いつも足りないって言って何回もしてくるのはくんのほう」
「まあ、確かに」
クスクスと笑いながら、くんはわたしの顎に指を添えキスをする。甘い感触は今まで何度も感じてきたくんのキスの味だ。
「はこういうの好きだな、なにかの日とか、そういうの」
「それはだって……せっかくだし。くんは全然気にしないね」
付き合い始めてからくんがこういったキスの日やハグの日なんてものを積極的に楽しもうとしているのを見たことがない。わたしの誕生日や付き合い始めた日はデートをしたりケーキを買ってくれたりするけれど、それも「わたしが喜ぶから」と言ってのことだ。そういうところ、何事にもとらわれないくんらしいなと思う。
「別に特別な日じゃなくたっていつでも好きなときにキスすればいい。毎日一緒にいるんだから」
「そう、だけど……」
それはまさにくんの言うとおりだ。今は一緒に住んでいて毎日顔を合わせている。キスもハグも、いつでも好きなときにできるのだから「なにかの日」にこだわる必要性はどこにもない。わかってはいるけれど、どうしても記念日だとかキスの日だとかに心を躍らせてしまう自分が、なんだかくんに比べて子供っぽく感じて少しばかり寂しい。
「まあ、でもキスの日も悪くない」
「……そう?」
しゅんとしていると、くんは再びわたしの唇をなぞり始める。
「がこんなにキスしたいって言ってくれるなら」
「! 別にそんなに言ってないよ!?」
くんの言葉にかあっと頬が熱くなる。同時に慌てて反論の言葉を口にする。わたしが言ったのは「キスの日だって!」という言葉だけであって、何回もキスがしたいなんて言っていないはずだ。
「じゃあ一回で足りる?」
「う……」
「キスなら毎日してる。せっかくのキスの日のキスなのに、一回でいい?」
くんの意地悪な物言いに、わたしは唇を尖らせた。くんってずるい。ずるい人だ。
「……足りない」
くんの胸の辺りに手を寄せる。せっかくのキスの日のキスが、一回で足りるはずがない。
「もっと、したい」
わたしの言葉にくんは満足したような笑みを浮かべ、再びわたしの顎を指で掴む。そうしてキスを、もう一度。
「俺も一回じゃ足りない。もっとしたい」
その言葉の直後から降るのはキスの嵐。くんの唇がわたしの唇に触れる。何度も何度も、繰り返し。
今更の言い訳のようになってしまうけれど、本当に最初は「キスの日だからちょっとキスをしよう」ぐらいに思っていたのだ。こんなに何度も何度もキスするなんて考えていなかった。いつの間にか完全にくんのペースだ。いつもそう。
甘いキスに酔ってしまって、頭がくらくらしてくる。くらくらして、ふわふわして、頭の中がくんだけになっていく。
くんの勢いに押されて、ソファに倒れ込みそうになってしまう。反射的に手を突くと、手のひらに柔らかくて生温かい感触が。
「ニャアッ!」
「あっ!?」
慌てて手を離すけれどもう遅い。そこにいたモルガナちゃんは不機嫌そうな表情のままひょいとソファから降りてしまった。
あああ、どうしよう。モルガナちゃんがそこで眠っていたことはわかっていたのだけれど、ついうっかり手を突いてしまった。
「も、モルガナちゃんごめんね!」
「……ナ~」
モルガナちゃんはくんに向かって一鳴きすると、ひょいと身を翻して窓から出て行ってしまう。
「モルガナちゃん、怒ってる……?」
全体重とまでは言わないけれどかなりの重さがモルガナちゃんにはのしかかっただろう。気持ちよく眠っていただろうに起こしてしまった挙げ句痛い思いまでさせて申し訳ない。不機嫌な様子だったしきっと怒っているのだろう。
「には怒ってないみたい。俺には怒ってるかも」
「くんには……?」
「ほどほどにしとけよって言われた」
くんは妖しい笑みを口元に浮かべると、遠慮などない様子でわたしに体を寄せてくる。わたしは思わずまたソファに手を突いた。
「ほどほどになんてしないけど」
弧を描いたくんに唇がまたわたし触れる。また頭がくらくら、ふわふわ。
おそらくきっと、モルガナちゃんはしばらく帰ってこないのだろう。