仲直りのしるし
くんとモルガナちゃんと三人で暮らす日々は穏やかだ。寝て起きたら一緒に朝ご飯を食べて、大学に行ってアルバイトをしたり、アルバイトがない日は大学帰りにそのままデートをしたり。帰ったら一緒に夜ご飯。夜が更けたらお風呂に入ってモルガナちゃんと戯れて、そしてくんと同じベッドで眠りにつく。
特別なことは何もない、平穏な毎日の繰り返し。様々なことがあった付き合い始めた高校二年のときは大違い。あのときはくんが怪盗団として人助けのために奔走したり危ない橋を渡ったり、命がけの賭けをしたり……少年院に入ったり。
あの頃とは違い、今はただひたすらに穏やかな日々。退屈と評する人もいるかもしれないけれど、わたしにはこの毎日が心地いい。喧嘩をすることもほとんどなく、くんとモルガナちゃんと一緒の優しい時間が甘やかに流れていく。
三人で暮らすこの家は1LDKだ。玄関すぐの廊下に、お風呂場やトイレ、寝室、リビングに続くドアがある。寝室はその名の通りほぼ寝るだけの部屋だ。三人でご飯を食べたりおしゃべりしたりゲームをしたり、ふだんの生活をするのはリビングで、モルガナちゃんのベッドもここにある。一緒に暮らし始めた当初、わたしは「モルガナちゃんも同じベッドでいいのに」と言ったのだけれど、モルガナちゃんが首を横に振ったらしい。理由を聞いたら「気まずいんだってさ」とくんが答えてくれて、わたしは恥ずかしくなって俯いてしまったのをよく覚えている。気まずいというのは、うん、まあ、そういうこと。そのときのくんがやたらと涼しい顔をしていたのがまた羞恥を煽ったものだ。
まあ、そんなこんなで三人で暮らす日々は平穏だ。また今日もそんな穏やかな一日だった。家事もくんとふたりで早々に終わらせ今はお先にお風呂タイムだ。お風呂から上がったら何をしよう。くんが以前買ったゲームを一緒にやるのもいいし、この間録画した映画を見てもいい。明日わたしは一限から授業があるからあまりのんびりはできないけれど、そのぐらいの余裕はあるはずだ。
心を躍らせながらお風呂から上がる。洗面台で髪を乾かしたり化粧水をつけたりのお手入れを終わらせて、リビングへと続くドアを開けた。
「お待たせ、お風呂空いたよ!」
「ん」
ソファに腰かけていたくんはスマホを置いて立ち上がり伸びをする。裾の短いシャツだったためお腹が少し見えてしまっている。ちらりと見えただけでも割れた腹筋が見えて少しばかりドキッとしてしまう。
くんは一見細身に見えるけれど実はしっかり筋肉もあるのだ。そういうところ、男の人だなあと思ってしまって、なんていうのだろう。ドキドキ、する。
「えっ!?」
そんなことを考えていると、くんが突然シャツをその場で脱ぎ始めた。えっ、ええっ!? なんでいきなり!? いつもちゃんと脱衣所で服脱いでるのに!?
「えっ、な、なんで脱ぐの!?」
「え……お風呂の前に筋トレしようかと思って」
「あっ、えっ、あ、そう……?」
ああ、なんだ、そういうこと。確かにくんは暇を見つけて渋谷のジムに通っているし、時折家の中でもトレーニングすることもある。な、なるほど、そういうこと。確かに筋トレしたら汗かくもんね。う、うん。いや、別に変なこと考えてたとかそういうわけじゃなくて!
「」
「はっはい?」
くんは無造作にシャツをソファの上に置くと、くすりと口元に笑みを浮かべる。たまに、いや、よくくんが見せる意地悪な笑みだ。
「何考えてた?」
「へっ!?」
くんの言葉に頬がかあっと熱くなった。な、なにって!
「べ、別に何も」
「本当に?」
「ほ、本当だよ!」
本当の本当の本当に、変なことなんて考えていない。断じて、絶対に!
「でも顔が赤くなってる」
くんは含みのある笑みを浮かべたまま、わたしににじり寄る。わたしに何を言わせたいか、一目瞭然だ。
「」
くんが、近づいてくる。シャツを脱いだまま。意地悪な、微笑みのまま。
「……っくんのバカ!」
「痛っ」
耐えられなくなって、わたしは思わず手近にあった旅行雑誌をくんの顔にぶつけた。くんの、バカ!
「くんの意地悪! もう知らない!」
「」
「今日はモルガナちゃんと寝ます!」
「ニャッ!?」
クッションの上でくつろぐモルガナちゃんを抱き上げ、ふいとくんから顔を背けた。今日ばっかりはわたしも怒ったんだから!
「」
「知らない! もう怒ったの!」
くんのほうを見向きもせずにわたしはリビングを出た。もう、もう今日は本当に頭にきたのだ。
勢いよく寝室のドアを閉め、モルガナちゃんを抱きしめたままベッドに飛び込んだ。
「くんって時々意地悪なんだから!」
モルガナちゃんを枕の辺りに置いて、つらつらと怒りの丈をモルガナちゃんにぶつける。
「さっきのくん、ひどくない? そんな別に……変なこと考えてないし!」
確かにちょっと、ちょっとだけ「色っぽいな」なんて思ったけれどそれだけだ。くんがあんな笑みを浮かべるほど変なことなんて考えてない。断じて! それなのにくんと来たら、わたしがやらしいことばっかり考えているような言い方して。
くんは時々意地悪だ。いつもはそのまま流すけれど、今回は違う。くんが謝ってくるまで許さないんだから!
「ニャーオ」
「いつもはこう……なあなあで許しちゃうけど今回は怒ったから。そういうことだからよろしくね!」
「ナア」
モルガナちゃんはわたしの言葉に首を縦に振った。わたしはくんを通さないとモルガナちゃんの言葉がわからないけれど、今のはさすがにジェスチャーでわかる。きっと頷いてくれたのだろう。
「ニャッ」
今度はぽんぽんとベッドの上を前足で叩いてみせる。きっと今日は早く寝ようって言ってくれているのだろう。
「そうだね、怒ったときは早く寝ちゃうに限るよね!」
「ニャ」
いつもに比べたらだいぶ早いけれど、明日の朝も早いしとっとと寝てしまおう。モルガナちゃんを隣に寝かせてベッドの上に寝転がる。電気を消してタオルケットを乱暴にかぶった。
「……」
いや、別に寂しいなんて思っていない。ダブルベッドは猫のフォルムのモルガナちゃんとわたしだけでは広すぎるけれど、それだけ。くんが隣にいない状態で寝るのが寂しいなんて、全然思っていない。
おそるおそる、目を開ける。当然いつもくんが眠っているスペースはぽかんと空いている。寂しくなんてない。だってわたしは怒っているんだから。
「モルガナちゃん、あったかい……」
モルガナちゃんにくっつくとじわりと温もりが伝わってくる。モルガナちゃんは猫ではないけれど、体温は猫に近いようだ。
ふわりとした暖かさに包まれながら、わたしは眠りに落ちていった。
「……ん」
自然に眠りから覚め目を開けてみるけれど、まだ窓の外は暗い。やはり寝るのが早すぎたようだ。
「起きちゃった……」
まだ深夜の三時。起きるにしてはさすがに早すぎる。起きてしまったとは言えベッドの中で横になっていればまだ眠れるだろう。しかし、少しのどが渇いている。再び横になる前にキッチンで水を飲むことにした。
キッチンから寝室へ帰る際、ふとリビングへつながるドアが気になった。くんはきっとリビングのベッドで眠っているはず。喧嘩したときはいつもそう。
「……」
おそるおそる、ドアを開けた。隙間から覗くとソファの背もたれからくんの足がはみ出しているのが見える。三人で暮らし始めたときに買った二人掛けの大きめのソファだけれど、くんが横になるには小さいのだ。ここからでは表情は見えないけれど、きっと窮屈な思いをしているのだろう。
薄暗いリビングの光景が、ぎゅっとわたしの胸を痛ませる。
「……くん……」
わたしはそっと、リビングのドアを閉めた。寝室への短い距離が嫌に長く感じる。
「モルガナちゃん」
ベッドの真ん中ですやすやと眠るモルガナちゃんの背を撫でる。いつものブラッシングを昨夜はしなかったせいか、ところどころ指が引っかかってしまう。
「……言い過ぎちゃったかな」
昨夜の出来事が頭の中でリフレインする。昨日は本当に怒っていたのに、くんが謝るまで許さないなんて思っていたのに、今では心がちくちくと痛む。
「くん……」
モルガナちゃんを抱きしめながら、きゅっと小さく丸まった。このダブルベッドは、わたしとモルガナちゃんだけでは広すぎる。
寂しい、な。
結局あれからあまり眠れなかった。睡眠時間こそ長かったけれど眠りが浅かったせいか瞼が重い。けれどアラームが鳴っているのだからもう起きなくては。
「はあ……あれ」
起き上がりタオルケットを外してみると、昨日隣で眠っていたモルガナちゃんがいなくなっていることに気づいた。一足先に起きたのだろうか。
重い足取りで寝室を出た。くん、どうしているだろう。昨日のわたしの態度に怒っているかな。それとも呆れているかな。……謝って、許してもらえるかな。
おそるおそる、リビングのドアを開ける。隙間からそっと覗くとリビングの中はもう灯りがついていて、キッチンから物音がする。くんはすでに起きて朝の支度をしているようだ。
「」
「ひゃっ!?」
半開きのドアの前でぼうっと立っていると、くんがのぞき込んできた。突然のことにわたしは後ろに仰け反ってしまう。
慌てている内にくんはドアを開けてわたしの前に立つ。目の前にいるくんがどんな顔しているか怖くて、わたしは俯いてしまった。
いや、だめだ。ちゃんと仲直りしようって思ったんだから。きゅっと服の裾を握りしめ、くんを見上げた。
「あ、あのねくん、昨日は」
「昨日はごめん」
わたしが言うより先に、くんが口を開いた。言おうとしていた言葉を先に言われてぽかんとしていると、くんは言葉を続ける。
「昨日、やりすぎたかなって。ごめん」
「あ……くん」
「コーヒー淹れたんだ。飲まない?」
くんの言葉の通り、リビングの中からはコーヒーのいいにおいがする。わたしの起きる時間に合わせてくんが淹れてくれたのだろう。
リビングの真ん中、ソファの前にあるローテーブルにはマグカップがふたつ置かれている。いつものクッションに座り、マグカップを手に取った。
「あったかい……」
「ん」
「あ、あのねくん……」
カップを握りしめ、少し離れた場所に座るくんを見つめる。ちゃんと、わたしのほうからも言わなくては。
「くん、ごめんね。わたしも昨日は言い過ぎちゃって……」
「ん。俺もごめん」
「ううん、わたしのほうこそごめんね」
「……無限に続きそう」
「ふふ、確かに」
くんの言葉に思わず笑いが漏れる。昨日喧嘩してから半日もたっていないのに、なんだか随分久し振りに笑った気がする。
「モルガナにも怒られてさ」
「モルガナちゃんに?」
「朝から叩かれた。何やってんだって言われて」
名前を出すとモルガナちゃんはソファの陰から顔を出す。その表情は心なしか自慢げだ。
「モルガナちゃんも巻き込んでごめんね」
「ニャ、ナ~オ」
「今日の夕飯はスシだからな、って」
「ふふ、了解」
今日の夕飯も決まったところで、くんの淹れてくれたコーヒーに口をつけた。ミルクと砂糖がたっぷり入ったわたしの大好きなくんのカフェオレ。今日のはいつものよりもさらに甘い。
「おいしい」
たまに喧嘩した次の朝、くんはいつもこうやって甘いカフェオレを淹れてくれる。仲直りのしるしだ。
くんとモルガナちゃんと暮らす日々は穏やかだ。たまに、ごくたまに喧嘩はするけれど、こうやってすぐに仲直り。
平穏で、幸せな毎日がこれからもずっと続いていく。