後輩他校生/3


 友人とファミレスで会話した翌週、わたしは都心の商業ビルの前で先輩と待ち合わせをしていた。今日の約束はプラネタリウムだ。先輩は池袋のほうには行ったことがあると言っていったけれど、こちらはこちらで違う仕掛けもあるし、先輩も気になると言っていたプログラムが今日は上映される。先輩、少しでも楽しんでくれるだろうか。
 先輩との期限は、まだ決めてはいない。友人の言う期限だとあと二、三回会えるかぐらいだけれど、延ばしたって構わないはずではある。けれど、それではきっとずるずるといつまでも終えられないだろうとも思う。
 わたしは、どうするべきなのかな。なにが正解なのかな。
さん?」
「ひゃっ!?」
 うつむいていると先輩の声が上から降ってきた。慌てて顔を上げるとそこには目を丸くした先輩の顔がある。
「ボーッとしてたみたいだけど……」
「す、すみません。ちょっと考え事してて」
「そう? そろそろ行こうか」
 ふい、と先輩は体を翻してプラネタリウムドームのほうへ向かう。あれ、なんだか……わたしの気のせいだろうか。先輩、普段はもっと目を見て話してくれていた気がするのだけれど、今日は先輩と目が合わない。
「そろそろ上映始まる?」
「あっ、そうですね! 行きましょう」
 あれ、やはりそうだ。いつもは心臓を射抜かれるような先輩の視線に緊張するのに、今日はその視線がわたしに向かない。どうしたのだろう。何があったのだろう。もしかして、嫌われたり、なんて。
「…………」
 心臓が、痛い。刺されるように引き裂かれるように痛い。いや、もしかしたらわたしの勘違いかもしれない。でも、先輩の様子は明らかに今までと違う。
 ぐるぐると思考を巡らせながらプラネタリウムドームに入る。暗闇の中、足下を探りながら指定の席に座ることができた。リクライニングを使うとほとんど寝る格好に近くなる。
 上映前の放送が終わり、天井一面に星の光だけが灯される。ふと、隣に座る先輩に視線を移した。暗いドームの中、星の淡い光だけが先輩を照らしている。いつもと違う、先輩の顔を。心臓の音が、痛い。

「綺麗なプログラムでしたね!」
「うん」
 一時間弱の上映も終わり、先輩とプラネタリウムのドームを後にする。平日の夕方にも関わらず多くの人が見に来ていたようで出口は少し混み合っている。
「先輩、プラネタリウム好きなんですか? このプログラム見たいって言ってましたし」
「割とね」
「そ、そうですか」
 やはり、上映前の不安の通り先輩と目が合わない。それに、先輩はいつも聞き上手でうまく会話を広げてくれるのに、今日は相づちを打つだけにとどめている。わたしは怖くなって下を向いた。
 友人に言われた期限は三ヶ月。それはキリのいい数字だろう。お互いを知るには二ヶ月では短く、四ヶ月は長い。区切りの期間として三ヶ月という時間を先輩も思いついたとしても不思議ではない。友達からという条件で三ヶ月間だけ会ってみて、合わないと思い関係を終わらせる。先輩がそう思ったとしても、そこに不自然さはないのだ。
さん、少し時間ある? ちょっと話がしたい」
 その言葉に、心臓が跳ねる。先輩の声色からして、明るい話ではないことがわかってしまった。わたしの悪い予感が、当たってしまったのかもしれない。
「……はい。うわっ!?」
「あっ」
 恐怖を感じつつも頷いたとき、後ろの人とぶつかってしまった。運悪く段差の場所で段板を踏み外しそうになったけれど、先輩が支えてくれて転ばずに済んだ。
「大丈夫?」
「あ……ありがとうございます」
「すみません、大丈夫ですか? ……あ」
 ぶつかってしまった女性ふたり組もわたしをのぞき込む。大丈夫と答える前に彼女たちははっとした顔で一歩引いてしまった。どうしたのだろう、そう思っていたけれど、彼女たちが去った理由はすぐにわかった。
「……あれ、くんだよね。前科者でもプラネタリウムとか来るんだ」
「ね、学校外で会うなんて運ないな……」
 おそらくこちらに聞こえないように言ったつもりなのだろうけれど、すべて丸聞こえだ。おそるおそる先輩の顔を見上げると、先輩は色のない表情で「向こうに行こう」とだけ言ってきた。
「さっきの話、聞こえた?」
 プラネタリウム前にあるビル内のベンチに座り、先輩はぽつりと言葉を放つ。
「は、はい」
 ここで嘘をつくわけにもいかず、わたしは素直にそのままを答えた。
「……そっか」
「あの、大丈夫です。わたし……知ってますから」
 わたしの言葉に、先輩は目を丸くする。
「すみません……秀尽に知り合いのいる友達がいて……」
「いつ知ったの?」
「……先週です」
 先週ファミレスで友人と話した後、彼女がわざわざ電話して教えてくれた。「の言う先輩は傷害で逮捕された前科者で、学校内でも煙たがられているらしい」と。
「……今日俺と会うのやめようって思わなかった?」
 先輩の問いに、わたしはすぐに首を横に振った。
「思いません。噂がどうであれ、先輩はあのときわたしを助けてくれました。今まで過ごした中で怖いところなんてひとつもなかった。この間も知らない誰かのこと助けようとしてました。噂通りの人だなんて思えないし、もし……もしも噂が本当のことだとしても、今わたしの目の前にいる先輩は、とても優しい人ですから」
 真っ直ぐ先輩を見て、思ったままを心のままに言葉にした。それがわたしの本心。友人には会うのをやめたほうがいいと言われたけれど、わたしはそれを頑なに拒否した。噂を聞いただけの友人が、先輩をどう思おうが関係ない。だって、先輩は優しい人だとわたしは思っているから。
「そっか」
 先輩はうつむいたまま、小さく声を漏らした。
「ありがとう」
 先輩の優しい声が、胸に響いた。顔を上げた先輩の微笑みは穏やかで、胸がぎゅっと締めつけられる。
「そんな、わたしは大したこと」
「いや、俺は嬉しかったよ」
 先輩の優しくも真っ直ぐな目が、わたしに向いた。今日一日交わることのなかった目と目が合う。一瞬にしてわたしの頬は沸騰しそうなほどに熱くなった。
「あ……そういえば、先輩、お話って」
「ああ……いや、もう大丈夫」
「へっ」
「話したいことあったんだけど、もう済んだから」
 そう話す先輩の表情は「話がしたい」と言っていたときのものとは打って変わって穏やかで優しげだ。
 話が済んだということは、先輩の話はもしかしたら前歴の噂のことだったのだろうか。いや、なんとなくだけれどそんな雰囲気には見えなかった。
 そのまま先輩と最寄り駅まで歩いた。道中で先輩がプラネタリウムが好きなこと、部屋に友達からもらった星座のシールが貼ってあることを話してくれた。
「今日はありがとう。またどこか出かけよう」
「は、はい」
「じゃあ、また」
 先輩はそう言って微笑むと、軽やかな足取りで地下鉄の方角へと歩いて行った。
 今日待ち合わせしたときの先輩と、今別れたばかりの先輩。雰囲気が全く違ったけれど、一体なにがあったのだろう。プラネタリウムを見た以外では……秀尽の生徒と思われる人たちの話を聞いてしまったぐらいしか思いつかない。
 首を傾げていると、鞄に入れたスマホが震えた。友人からメッセージが届いているようだ。
「……わかってるってば」
 そのメッセージを読んで思わず言葉が漏れた。友人からのメッセージは「そろそろ決着つけなよ」というものだ。
 決着、か。決着とはきっと先輩にわたしと付き合う気があるのかどうか聞くことだろう。
 むしろ、わたしはどうしたいのだろう。先輩と一緒の時間が過ごせれば今のわたしはそれで幸せ。付き合うだとか、そういったことは考えたことがない。
 この微妙な関係をいつまでも続けるわけにはいかないことはわかっている。けれど、それには「わたしがどうしたいか」と決める必要があるだろう。


 結局考えがまとまらないまま、一週間が過ぎた。先輩のことが好き。大好き。できることならずっと一緒にいたい。でもまだ付き合うなんてことは考えられない。傍から見たらわたしたちの関係は遊ばれているようにも見えるらしい。
「うーん……」
 もう考えすぎて頭が沸騰しそう。恋愛の教科書か授業がほしい。十六年生きてきて恋人の一人もいなかった身では、ひとりで考えるには荷が重すぎる。
 ぎゅっとベッドの上の猫のぬいぐるみを抱きしめた。あのときゲームセンターで先輩からもらったものだ。
「先輩……」
 とりあえず考えていても仕方ない。スマホを取り出し先輩にメッセージを送ることにした。わたしはどちらかというと考えるより即行動に移していくタイプなのだ。
「先輩、またどこか行きませんか? 最近は落ち着くところが多かったので、遊園地みたいな遊べるところとか」
 メッセージを送ってすぐ、先輩から返事が来た。
「ならドームタウン行かない?」
「いいですよ! 先輩、行ったことないですか?」
「あるけど割引券もらったから、どうかなって」
「了解です! じゃあ次はドームタウンで!」
 それから日時を決めてやりとりはいったん終了した。スマホのカレンダーの約束の日に印をつけて、スマホを充電器に差す。
 わたしはどうしたいのか、どうするべきなのか。友人の提案した期限を飲むにしても、そこを決めなくては始まらない。

 そして迎えた約束の日曜日。少し気合いを入れすぎたのか、約束の二十分前にドームタウンに着いてしまった。しかしどこかのお店に入って待つには中途半端な時間だ。大人しく待ち合わせ場所のドームタウン入り口で先輩を待つことにした。
「きみ、ひとり?」
 時間を確認するためスマホを眺めていると、男の人の声がした。言葉からしていい印象がすでにない。苦い顔をしながらおそるおそる顔をあげると、少し年上と見られる男性が立っている。
「暇なら一緒に遊ばない?」
 ああ、やはりナンパだ。想像通りの言葉に身が竦む。
「待ち合わせしてるので」
 できるだけ冷たい声で言ったのだけれど、男性は怯む様子を見せない。それどころか言葉を重ねてくる。
「ちょっとだけ、ね?」
「わたし、本当に」
「さっきからそこで立ってたじゃん? 暇してたんじゃないの?」
「や……っ」
 軽薄な笑みを浮かべた男性はわたしの腕を掴んでくる。その行動に一瞬で背筋が凍った。恐怖のあまり目を瞑ってしまう。
 嫌だ、怖い、助けて。誰か、助けて。先輩、
「ごめん、遅れた」
 聞こえてきた声に、はっと目を開ける。そこには今し方思いを馳せていた先輩の姿があった。
「せんぱ……」
「な、なんだよお前」
 先輩はきっとナンパ男性を睨みつけると、冷たい声で言い放つ。
「彼氏ですけど」
 その言葉に、胸がぎゅっと痛んだ。
「……はあ、本当に待ち合わせかよ」
 男性は思わぬ第三者の登場でようやく諦めたようで、ため息を吐きながら駅の方へと歩いていった。
「あの、先輩……」
「ごめん、遅くなって。電車遅延してて」
「え、あ……すみません、連絡もらってたんですね」
 男性に声をかけられていたときに、先輩からチャットの着信があったようだ。さすがにあの状況ではまったく気づけなかった。
「いや、時間通り来れれば絡まれなくて済んだだろうし、それに……」
「それに?」
「……変なこと言って、ごめん」
 変なこと。その言葉を聞いた瞬間、一瞬頭の中が真っ白になった。
 そう、変なことだ。先輩がわたしの彼氏だなんて、それは、変なこと。だって、わたしと先輩はそんな関係ではないのだから。
「いえ、そんな」
 震える唇をどうにか抑えながら、言葉を紡ぐ。
「ああでも言わなきゃ引いてくれなかったかもしれませんし……大丈夫です。ちゃんと、わかってますから」
 笑顔を作り、先輩に向けた。大丈夫、「彼氏」なんて言葉がただのデマカセだなんてことはわかっている。わたしは最初からそんなことは望んでいなかったのだから。わたしたちの関係は、ただの「友達」。だって、わたしがそう言ったのだ。「友達から」と。
 わかっているのに、どうしてこんなに胸が苦しいのだろう。
「行きましょう、先輩。時間がもったいないです」
 そう。せっかくの先輩とのお出かけなのだから楽しまないと。
 もらったマップを見て遊びたいアトラクションを吟味する。ジェットコースターにお化け屋敷、バイキング……。都会のど真ん中にある遊園地にも関わらずアトラクションの数は多い。
「先輩、ジェットコースター好きですか?」
「まあ、割と」
「じゃあ落ちるとき手あげましょう!」
「了解」
 そう、楽しまないと。先輩と一緒にいるときは、楽しい時間を過ごしていたい。笑っている時間を、増やしたい。
 いくつかアトラクションを楽しんだ後、園内のベンチで休憩することにした。
「先輩、コーヒー好きなんですか?」
「うん、結構」
「前もコーヒー飲んでましたよね」
 今もそうだし前にゲームセンターで休憩したときも先輩はコーヒーを飲んでいた。高校生になったとは言えブラックコーヒーを飲む友人は多くはない。苦い顔ひとつせずにブラックの缶コーヒーを飲む先輩は少し大人っぽく見える。
「住んでるところが喫茶店だから、飲む機会多くて」
「へえ……」
 家ではなく「住んでいるところ」という言い方が少し気になったけれど、あまり深く聞かないことにした。きっと込み入った事情があるのだろう。もしかしたら先日プラネタリウムで聞いた話と関係があるのかもしれない。
「あ……」
 ふと視線を前方にやると、ひとりの泣いている男の子の姿が目に入った。小学校に入るか入らないかぐらいの年齢だろう。周囲を見渡しても保護者らしき大人は見当たらない。わたしは居ても立ってもいられずにその男の子のところへ向かった。
「ぼく、どうしたの? お父さんかお母さんは?」
 男の子に目線を合わせて聞いてみると、彼は俯きながら首を横に振った。
「はぐれちゃった?」
「うん……」
「その子、迷子?」
「先輩、そうみたいです」
 先輩は園内マップを取り出し、すぐそこに案内所があることを教えてくれた。
「そこまで連れて行けば迷子放送してくれるんじゃないかな。それかもしかしたら親がいるかも」
「そうですね。ね、歩ける?」
「うん……」
 男の子は小さく頷くと、ぎゅっとわたしの服の裾を掴んでくる。思いの外強い力だ。わたしは彼の歩幅に合わせて、ゆっくりと案内所の方へと向かう。先輩の言うとおり案内所はすぐ近くにあり、しかもちょうど男の子の親御さんも園内放送をしてもらうために案内所へ来たところだった。
「すみません、ありがとうございます」
「いえ、たいしたことじゃ」
「本当に助かりました」
 男の子のご両親に深々と頭を下げられ、なんだか胸がくすぐったい。ちらりと隣にいる先輩を見やると、先輩もほのかにうれしそうな表情だ。
「無事会えてよかったですね」
 案内所を出て一息ついて、先輩に言葉をかける。
「うん。でもびっくりしたな、いきなり走り出すから」
「あっ、わたしですか?」
「そう。よく気づいたね、迷子なんて」
「なんとなく目に入って……放っておけなくて」
 ひとり彷徨う姿の男の子を見てしまった以上、放っておくことはできなかった。けれど確かに走り出す前に先輩に一言ぐらい言えばよかったなとも思う。先輩からしたら、わたしがいきなり走り出してびっくりしただろう。
「放っておけないって思ったら、思わず走っちゃってて」
さん、結構そういうところあるね。前に渋谷でも女の人が絡まれてるところ助けに入ってたし。人のこと放っておけないタイプ?」
「あ……でもそれは先輩が先に助けてたじゃないですか」
「まあ、そうだけど」
 わたしも大概すぐ行動派であるけれど、先輩だってきっとそう。今話題に出た渋谷で酔っぱらいに絡まれた女性の件もそうだし、なにより。
「先輩、わたしのことも助けてくれましたし」
「そりゃ、待ち合わせしてる相手が絡まれてたら」
「そっちじゃなくて、最初のときです」
 あの春の渋谷でのこと。あのときわたしと先輩は見ず知らずの赤の他人だった。それでも先輩はわたしのことを助けてくれた。きっと放っておけなかったのだろう。
「ああ、そっちか」
「先輩も人のこと放っておけないタイプですよね」
「否定はしないかな」
 そう話す先輩は、少しだけ照れくさそうに自身の首もとに触れた。
 ああ、そうだ。わたしを助けてくれた先輩。わたしはあのときから、ずっと先輩が好き。あのとき以降も先輩の優しさを実感する場面が多くあった。先輩は優しい人だ。わたしの好きな人。
「……もういい時間になっちゃったな。最後に何か乗る?」
「あ……そうですね。そしたら……」
 先輩の言うとおり、夏の盛りのこの季節に夕日が沈み始めているということは、もう遅い時間と言うことだ。アトラクションをひとつ乗ったらそろそろ解散の時間だろう。
 あたりを見渡して乗りたいアトラクションを探した。お化け屋敷も絶叫系もあらかた乗り尽くした。となると最後に残るのは、
「……か、観覧車とか、どうです?」
 観覧車なんて、いかにもカップルと言った乗り物だ。さすがに拒否されてもおかしくない。おそるおそる、先輩の返答を待つ。
「うん。じゃあ乗ろうか」
 わたしの心配とは裏腹に、先輩はあっさりOKの返事を出す。あまりのあっさり具合に少しほっとしたような、悲しいような。

「うわ、高い……」
 観覧車の窓から見る東京の景色はなかなかの光景だ。さすがに都会のど真ん中、スカイタワーのように遠くまで見渡せるとは行かないけれど、それでも普段見ている景色を上から見るのは面白い。
「さすがに秀尽は見えないかな」
「どうですかね……」
「見えても特徴ないしわからないか」
 向かい合った座席で同じ方向の風景を見つめる。わたしも自分の学校を探したいところだけれど難しそうだ。
 ふと、視線を窓から先輩へ移した。じっと外を見つめる先輩の横顔は綺麗だ。そう、先輩の顔は綺麗。造形が整っているだけでなく、先輩の優しさや強さが表情にも表れているよう。
「……先輩、あの。もし言いたくなかったら答えなくてもいいんですが、お伺いしたいことがあって」
「うん。なに?」
「……その、先日聞いた先輩の噂について」
 先週、プラネタリウムで先輩から話を聞いて以降あの噂の真偽がずっと気になっていた。先輩としては話したくもないことかもしれないけれど、中途半端なままでは先輩に対して失礼だとも思う。
「わたし、噂でしか知らなくて。でも、話したくなければ本当に話さなくて構いませんので」
「……いや、そうだな。ちゃんと話しておいた方がいいか」
 先輩は窓に向けていた視線をこちらに移し、体ごとわたしの方へと向いた。
「どこまでさんが知ってるか知らないけど、俺が地元で傷害事件起こして裁判の結果で前歴ついて保護観察処分中なのは本当。校内でも噂が広がってるからプラネタリウムのときみたいに煙たがれてばっかりだ。まあ、最近は噂も下火だけど。さっき住んでるところが喫茶店って言ったけど、俺の保護司を引き受けてくれた人が喫茶店やってるんだ。だからそこに住まわせてもらってる」
「傷害事件……」
 わたしも友人から確かにそう聞いた。傷害事件というのがどの程度のものかはわからないけれど、単なる補導ではなく裁判まで行くなんて相当大きな事件だったのではないだろうか。そんな事件を起こしたなんて、今目の前にいる先輩からは想像ができない。
「その、傷害事件っていうのは……」
 どうしても信じられず、おそるおそる先輩に問いかける。
「……地元で酔っぱらいに女の人が絡まれてて、助けないとって思った。間に入ったら酔っぱらいの男は勝手に転んで怪我をした。そしたらなぜか俺が傷害で逮捕。反論する余地もなく保護観察って判決だった」
 淡々とした先輩の口調に、わたしは絶句してしまう。それらが本当なら、先輩は。
「それって……」
「冤罪ってやつ」
 先輩の言葉が胸に突き刺さる。先輩は冤罪で前歴を負わされ故郷も追われ、そして東京では広がった噂により煙たがれている。わたしが想像していたよりずっと重い状況に息が詰まる。
「先輩、あの……なんと言っていいのか」
「いや、あんまり気にしないで。気にしてないって言ったら嘘になるけど、もう整理もついてるから。話したのも中途半端に知ってるのもさんの方がもやもやするかなって思ったからだし」
「……はい」
「それに、整理できた理由のひとつはさんだから」
「わたし?」
 突然出てきた「さん」という言葉に目を丸くする。首を傾げていると、先輩は小さく笑った。
「渋谷で助けた後、わざわざお礼言いに来てくれただろ。嬉しかったよ。あんな形で前歴ついた後だったから余計に」
「あ……」
「お礼が欲しくて助けたわけじゃないけど、お礼を言われると嬉しくなるよ。助けたこと、無駄じゃなかったんだって思えるから」
 先輩の言葉が、じんわりと胸の中に沁みていく。
 わたしはあのとき、助けてくれた恩人にただお礼を言いたいと思っていた。それだけの思いで起こした行動だったのだけれど、あの行動が先輩の助けになっていたのなら、こんなに嬉しいことはない。
先輩」
 足を揃え、先輩の方へ改めて向き直る。
「あのとき、助けてくれて本当にありがとうございました」
 深々と頭を下げて、何度目かわからないお礼を言った。
 先輩にとってあのときわたしを助けることはどれだけ怖いことだっただろう。また誰かを助けて冤罪を受けるのではないか、そんな恐怖もあっただろう。それでも先輩はわたしを助けてくれた。元々深い感謝の気持ちを持っていたけれど、過去を聞いた今では何度お礼を言ったって足りないと思う。
「どういたしまして」
 そう言って笑った先輩の笑顔は、今まで見た中で一番綺麗だった。優しさと穏やかさ、ほんの少しの切なさをはらんだ笑顔。先輩の乗り越えてきたものたちを思わせるような、そんな表情。
 きっと今わたしに話してくれたこと以外にも、つらいことも悲しいこともたくさんあっただろう。先輩はそれらを受け入れ乗り越えてきたのだ。
 先輩を綺麗だと思ってきた。顔の造形だけでなく、表情から先輩の内面が表れているようだと思ってきた。それはきっと間違いではない。先輩の言葉に、表情に、先輩が今まで乗り越えてきた多くのものが込められているのだろう。
 目の前で微笑む先輩の表情が、瞳に焼きついて離れない。先輩のことを、ずっと好きだと思ってきた。優しい人だと思ってきた。一緒にいたいと思ってきた。けれど、それ以外に芽生えた感情がまたひとつ。