共に歩もう



 今でもあのときのことを夢に見る。

 くんとの関係は穏やかだ。付き合い始めた高二当時や遠距離恋愛だった高三のときとは違い、大学進学のためにくんが再び東京に来てくれてから、とりわけ一緒に暮らて始めてからはたまに小さな喧嘩をするぐらいで安定した関係と思う。甘く、優しい日々が続いている。先への不安などひとつもない。
 ひとつもないはずなのに、脳裏によぎるのはあのときの記憶だ。今日もまた、あのときの夢を見た。
「はあ、はあ……」
 悪夢を見て飛び起きた。カーテンの外はまだ暗い。暗闇の中ぼんやりと見える壁時計は三時を指している。
 上半身だけを起こし息を整える。また、あのときの夢。高校二年のクリスマスの夢だ。あの年は、わたしとくんが出会いそして付き合い始めてから初めてのクリスマスだった。怪盗団としてやるべきことをすべて終えたというくんと共に過ごしたクリスマスイブ。くんが何か隠し事をしていることに気づいたわたしは、ひとりで拗ねてその日は喧嘩のような形で帰ってしまった。そして一晩がたったクリスマスの朝、くんから来たメッセージにわたしは頭の中が真っ白になった。忘れもしない、「怪盗団のリーダーとして出頭する」というメッセージ。すぐにルブランへ駆け込んだけれど、もうくんはいなくなった後だった。
 夢は、いつもそこで覚める。涙が流れていることもある。胸が刺されたような痛みと共に、空っぽになったかのような虚無感も同時に襲ってくる。
……?」
 浅い呼吸を繰り返していると、隣で眠るくんが寝ぼけた声でわたしの名前を呼んだ。
「あ……ごめんね、起こしちゃった?」
「ん……悪い夢でも見た?」
「え……」
「うなされてたから」
 くんの問いかけに言葉を返せないでいると、くんが「おいで」と腕を広げる。躊躇いながらも、わたしはその腕の中へ体を預けた。
くん……」
「おやすみ」
 くんはぽんぽんとあやすようにわたしを撫でると、甘い声で囁いた。
 くんの腕の中は温かい。くんの体温が伝わってきて、鼓動が聞こえてきて、くんがそこにいることを感じられる。
 大丈夫、大丈夫。くんはここにいる。もうどこにも行かない。わかっている。大丈夫。
 そう言い聞かせながらも、不安な感情は費えない。今でもあのときの夢を見る。くんがいなくなったときの夢を。クリスマスが近づくとその夢の頻度は上がる。
 夢を見るたびに、怖くなる。またくんがわたしの前からいなくなってしまいそうな気がして、怖くて怖くてたまらなくなる。
 大丈夫、大丈夫。くんはここにいる。いなくなったりしない。わたしを置いて、いなくなったりしない。
 ねえ、くん。大丈夫だよね。


 十二月も半ば、街はすっかりクリスマスムードに包まれている。いつもは街の雰囲気に当てられてわたしも浮かれた気分になるのだけれど、今日だけはそんな気持ちになれない。今朝、またあのときの夢を見たから。
「はあ……」
 自分の心の弱さが嫌になる。くんが東京に再び来てくれてから、くんは何度も「これからはずっと一緒だから」と言ってくれた。その言葉が心からのものであるとわかっている。わかっているはずなのに不安になるなんて、くんのことを疑っているようで自分が嫌になる。
「今年、ホワイトクリスマスになるかもしれないんだって」
「雪の予報はイブだろ?」
 すれ違ったカップルの言葉が、また胸をちくりと痛ませた。あの高二のクリスマスイブも雪が降っていた。都心では珍しいことだからよく覚えている。
 また嫌なことばかり考えている。本当に自分が嫌になる。早く家に帰ってくんの顔を見よう。そうしたらきっとこのネガティブな気持ちもすべて吹き飛ぶはずだから。
 そのまま真っ直ぐ家へ走った。マンションのドアの鍵を回し部屋へ入る。リビングへ続くドアからくんとモルガナちゃんの声が聞こえてきてほっと心が和らぐのを感じる。ふたりの声はいつだってわたしを安心させてくれる。いつもの出迎えがないあたり、どうやらわたしが帰ったことには気づいていない様子。わたしの胸の中に、ほんの少しの悪戯心が沸く。たまにはわたしもくんを驚かせてみたい。気づかれずに後ろから「わっ!」と声をかけたらクールなくんも驚いてくれるかな。足音を立てずに廊下を歩き、そっとリビングへ続くドアを開けた。よし、まだくんはわたしに気づいていない。後ろを向いている間に、そっと、そーっと。
「にゃあ、にゃ」
「そう、には内緒で」
 そっと近づいているときに、耳に入った言葉。嫌な響きの言葉に、わたしは足を止めた。
 わたしには、内緒? 内緒って、なにが?
 呆然と立っていると、わたしの気配に気づいたのかくんが少し慌てた様子でこちらへ振り返る。
、帰ってたんだ」
「内緒って、なに?」
 自分でも驚くほど暗い声が出た。いつも無表情なくんも驚いた表情でわたしを見ている。
 ねえ、くん。内緒って、なにが?
「いや、別になんでも」
「……じゃあ、モルガナちゃんとなに話してたの?」
「……ん、それは」
「にゃ……」
 なにを聞いてもくんは言葉を濁すばかり。モルガナちゃんもただ首を横に振っている。なにも話してくれないふたりを見て、心が潰れる音がした。
「……約束したのに」
 ぎゅっとコートの端をつかみながら唇を噛んだ。くんとモルガナちゃんと三人で暮らし始めるときにした約束がある。モルガナちゃんの言葉はわたしにはわからないから、くんがすべて教えてくれるという約束だ。なにも教えてくれない。約束も守ってくれない。じわりと涙が浮かぶ。流れ落ちそうになるのを、必死にこらえた。

「もう、いい。もう知らない!」
、」
くんの嘘つき!」
 わたしは声をあげて寝室へ向かった。乱暴にドアを閉め、その場に座り込む。
「……くんのバカ」
 体育座りの格好でぽつりと呟いた。くんのバカ、嘘つき、嘘つき。ぐるぐると汚い感情が渦巻いている。
 くんだって恋人であるわたしに話したくないことのひとつやふたつあるだろう。そんなことはわかっている。でも、今は怖い。隠し事されることが、どうしようもなく怖い。
 脳裏に浮かぶのは、高二のクリスマスのこと。なにも言わずに出頭しいなくなってしまったくんのこと。あのときの絶望感を、忘れることができないでいる。
 くんに隠し事をされることが怖い。また、あのときのようにくんがどこかに行ってしまいそうな気がするから。
「う……っ」
 うずくまったまま、その場で泣いた。

 次の日の朝、おそるおそるリビングへ出るとすでにくんは出かけた後だった。モルガナちゃんも一緒らしい。いつもは朝会えないと寂しいと思うのに、今日はほっとしてしまう。そういえばくん、今日はアルバイトないから早く帰ってくるはずだ。確認しようと壁に掛けられたカレンダーを見ると、二十四日の日付に目が行った。わたしの浮かれた文字で「デート!」なんて書かれている。
 クリスマスは毎年楽しみにしている。大好きなくんと過ごせる特別な日だから。そんな浮かれた気持ちと同時に、どうしようもない恐怖にも襲われる。またくんがどこかに行ってしまうのではという不安。
くん……」
 くんのことが大好きだ。優しくて、強くて、いつも真っ直ぐな彼のことが。そんなくんだから、くんはまた誰かのために行動して、その身を犠牲にして、どこかに行ってしまいそうな気がしてしまう。


 大学の授業を終えたわたしは真っ直ぐ家に帰らず四軒茶屋で降車した。向かうのはもちろんルブランだ。すぐに家に帰ってもくんと顔を合わせづらいのもあるし、少し佐倉さんとお話がしたい気分だったから。
「こんばんは」
「よう、こんばんは。あれ、ひとり?」
「はい、今日はわたしだけです」
 ルブランの中にお客さんはいない。わたしはカウンター席に座った。ホットミルクを頼み、すぐに出てきたそれに口をつける。
「なに、喧嘩でもした?」
 佐倉さんの軽い口調の質問に、わたしたうつむいてしまった。ただの喧嘩なら「そうなんです!」と怒った口調で答えられただろうけれど、今回はそんな気持ちにはなれない。
「……深刻な感じ?」
「深刻って言うか……その、少し佐倉さんともお話したくて」
「俺?」
「……高二のとき、くんが出頭するって言ったとき、どう思いました?」
 わたしの問いかけに佐倉さんはふっと表情を変える。寂しげで、けれど優しさを孕んだ顔。
「ああ、この時期だったもんな……」
「……毎年、この時期になると思い出しちゃって」
「だよなあ。俺もあのときはびっくりしたよ。止めたが聞いちゃくれなかった。頑固だよな、あいつ」
「……はい」
「ただ珍しく、しおらしい声で「すみません」って言ってな。なにがって聞いたら、「保護司の面子潰すことになって」ってさ。そんなん別にどうだっていいのによ」
 佐倉さんは優しい声で当時のことを話してくれる。わたしはカップを握りしめながら相づちだけを打った。
「情けねえなあと思ったよ。保護司のくせにあいつには双葉のことで助けられて、それなのに最後は少年院って結末でよ。本当はあいつを助けて守るべき大人のくせにな」
 佐倉さんの言葉が心に落ちていく。くんはいつもそう。人のことを助けてばかり。そんな優しいくんを好きになったけれど、少し怖いと思うことすらある。
「でももう、終わったことだ。あいつの無罪が証明されてすぐに出てきて、今はさんの隣にいるんだからよ」
「……わかってます。でも、どうしても不安になっちゃって」
「不安?」
「……また、あのときみたいなことが起こるんじゃないかって」
 夢を見るたびに怖くなる。いつも隣にいるくんがある日ふっといなくなるんじゃないかって。また、ひとりでどこかに行ってしまうんじゃないかって。不安で、押し潰されそうになってしまう。
「どうしても不安なら、それをちゃんとぶつければいい。そのために一緒にいるんだろ」
 佐倉さんの言葉に、はっと顔を上げた。佐倉さんは優しい声で言葉を続ける。
「せっかく隣にいるんだから気持ちはぶつけたほうがいい。そりゃあ喧嘩だなんだってことになるかもしれねえが、それが一緒にいるってことだろ」
「……はい」
「それにな、こんな可愛い子二度も置いていくようなバカじゃねえと思うぞ」
 思いがけない言葉に、わたしは「えっ」と声をあげてしまった。
「あいつ、相当さんのことが好きだぞ。無表情なやつだが、見てりゃわかるよ。大事にしてんだなってさ」
「……はい。わかってます、ちゃんと」
「それでもなんかあるってんなら、いつでもおいで。あいつに説教してやるから」
「ふふ、ありがとうございます。そろそろ行きますね」
「おう」
 お会計をしようとしたら、佐倉さんには「今日はおごるよ」と言われてしまった。申し訳ないと思いつつも、お言葉に甘えることにした。きっと何を言っても押し切られてしまうだろうから。
 わたしの周りにいる人は優しい人たちばかりだ。佐倉さんも、くんも。そんな優しい人たちがわたしは大好きで、そして自惚れではなくそんな優しい人たちに好かれている自覚もある。
 そう、くんはわたしを好きでいてくれている。高二から付き合い始めて、今は毎日一緒にいる日々の中で大切にされている自覚はある。愛されていると、思っている。
くん……」
 スマホを起動し、くんとモルガナちゃんとわたしの写真が設定されたロック画面を見る。うん、大丈夫。わたしは三人で暮らす家へと走った。

 マンションの前に着き、ゆっくりと鍵を回した。くんの靴は玄関に揃えられていることからもう帰ってきていることがわかる。
 小さな歩幅で歩きながらリビングへ向かう。そっとドアを開けると、くんの姿が見えた。

「!」
 くんもわたしに気づいたようで、すぐにこちらにやってくる。
くん」
、昨日はごめん」
「あ……」
「少し話したい。いい?」
「……うん」
 くんに促されわたしはリビングへ入った。彼の隣に座って、脱いだコートを横に置く。ドクン、ドクンと大きく心臓が鳴っている。きちんと話をしようと思っていたのに、実際くんを目の前にするとうまく切り出せない。
くん……」
「昨日はごめん。本当はクリスマスに渡すつもりだったんだけど、これ」
「え……」
 そう言ってくんが差し出してきたのはブラウンのシンプルな紙袋だ。目を白黒させながらそれとくんを交互に見ていると、くんはわたしの手を取って紙袋を持たせる。
「クリスマスプレゼント。昨日買って、当日までには内緒にしてようってモルガナと話してたんだ。驚かせたかったんだけど、あんなふうに内緒にしたら怒って当然だと思う。ごめん」
「プレゼント……」
 ああ、そうか。くんとモルガナちゃんはこのことを内緒にしようとしていたのか。モルガナちゃんの言葉をすべて教えるという約束を反故にしたのもそれが理由なら頷ける。
くん……」
 でも、それでも。
「わたし……」
 涙がはらはらとこぼれ落ちる。たとえそれが理由でも、わたしは怖い。
「もう、何かを秘密にされるのは嫌だよ」
 ぎゅっとプレゼントを握りしめながら、あふれる涙を拭うことなくわたしは言葉を紡ぐ。
「わたし、今でも夢に見るの。くんが出頭したときのこと。あのときくんがなにか秘密にしてるのわかってた。そうしたら次の日くんはいなくなってた。あのとき、本当に怖くて、悲しくて、今でも夢に見てうなされる」
……」
「目を覚ましてすぐくんがいるか探しちゃう。隣で寝てても怖くなる。またくんが、あのときみたいにいなくなっちゃうんじゃないかって、怖いよ」
 くんがわたしを好きでいてくれてることはわかっている。大切にしてくれていることもわかっている。でも、それでも怖い。くんが何かを隠しているのを見ると怖くなる。またあのときみたいに、わたしの前からいなくなっちゃうんじゃないかって。
、顔上げて」
 くんはわたしの頬に伝う涙を拭う。優しい指の感触だ。
「ごめん、の気持ち、全然わかってなかったみたいだ」
くん……」
「プレゼントのこと隠したのも時期が時期だからバレバレだろうしって軽い気持ちだった。がこんなに悲しむなんて思ってなかった。があのときのこと、気にしてるなんて思ってなかったんだ。本当にごめん」
「ううん、わたしが勝手に……」
「勝手じゃない。が感じたことだ」
 くんの手がぎゅっとわたしの手を握る。大きな手はわたしの手をすっぽりと包んでいる。
「出頭したことは今でも後悔していないけど、のことはあのときも気がかりだった。でもは無罪の証明にも協力してくれて出てくるのも待っててくれた。そんなの気持ちに甘えてたんだと思う。ごめん」
くん……」
「俺はが好きだよ。プレゼント、開けてほしい」
 くんに促され、わたしは手の中のプレゼントを見つめた。紙袋から正方形の小箱を取り出して、その箱のリボンを解く。何が入っているのだろうと緊張しながら箱を開けると、そこに入っていたのは赤いベルトの腕時計だった。
「これ……」
「腕時計を贈る意味、わかってるから」
 くんの甘い声に、涙が溢れた。先ほどの涙とは違う、温かいもの。腕時計を贈る意味、それは。
”同じ時を歩んでいこう”
「もう勝手にいなくなったりしない。隠し事もしないから。ずっと一緒にいよう。俺がと一緒にいたいんだ」
くん……っ」
 ボロボロ泣きながらくんに抱きついた。わたしも一緒にいたい。ほかの誰でもない、くんと。
「勝手に怒ってごめんね」
「俺も隠し事してごめん」
「ずっと……ずっと一緒にいようね」
「うん。ずっとだ」
 言葉を交わし、唇を重ねた。一度だけでなく、二度三度。くんの熱が伝わってくる。
「ずっと一緒にいたいって思ってる。のいない毎日がもう想像できないぐらいに」
 くんはわたしの腕に腕時計をつけた。赤いベルトが肌に映える。
「愛してるよ」
 甘く優しい言葉が、心の奥に沁みていく。今までもずっと聞いてきた言葉。いつも幸せな気持ちで聞いていたけれど、今日はより一層温かく広がっていく。
「わたしも」
 再びくんの腕の中に飛び込んだ。くんも背中に腕を回してくれる。胸に顔を寄せればトクン、トクンと心臓の音が聞こえてきて、温かな体温が伝わってくる。くんは、ここにいる。もうどこにも行かない。
「ごめんね、くん。ひとりで勝手に怒って、勝手にため込んで」
。俺が聞きたいのはそれじゃない」
 くんはわたしの頬を撫でて、優しく言葉を制止する。
が聞きたいのも、俺のごめんじゃないだろ?」
 ああ、そうか。くんが聞きたい言葉は、きっとわたしと同じ。
「大好き!」
 そう言ってくんの唇にキスをした。すかさずくんからもう一度。わたしたちは笑い合いながら何度もキスをした。涙はもう、どこにもない。


「メリークリスマス!」
 クリスマスイブ。ふたりでイルミネーションを見た後、ケーキとチキンを買って部屋へ帰ってきた。
「モルガナちゃんにはお寿司があるからね」
「にゃあ~!」
 クリスマス用のちょっといいパックのお寿司を開けると、膝の上のモルガナちゃんは嬉しそうな声を出す。
「にゃ」
「あ、それは」
 モルガナちゃんはわたしの腕時計が気になるのか、時計に前足を伸ばそうとした、そのとき。
「それは駄目」
 くんがモルガナちゃんの前足とわたしの間に手を入れて制止する。くんの不敵な笑みと、モルガナちゃんの呆れたような声。なんだか心が温かくなって、モルガナちゃんを抱きしめた。
「ふふ」
「ナ~、ニャ」
「早く食べようぜってさ」
「そうだね。いただきます!」
 三人で過ごす幾度目かのクリスマスイブ。今日はもう眠っても、悪夢は見ない。だってくんは、わたしの隣にいるから。